シノワズリのイングリッシュ・デルフト染付深皿 イギリス 十八世紀中期から後半頃(著者蔵)
口径二二・二×高さ三・八センチ(いずれも最大値)
今回はオランダ以外の国々に、どうデルフト焼が伝わっていったのかを辿ってみたい。周知のように、ヨーロッパでは十五世紀初頭からポルトガル、スペインによる大航海時代が始まった。東方世界との交流に限れば、インドと交易し始めたのはポルトガル王の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマが、一四九八年にカリカットにたどり着いてからである。中国との貿易はスペイン王の援助を受けたマゼランが、一五二一年に世界周航の途中でフィリピン諸島に到達して以降のことだ。スペインは一五七一年に、この一帯を制服してスペイン領とした。当時のスペイン国王、フェリペ二世の領土という意味である。中国は鎖国していたので直接貿易はできず、華僑を通じての私貿易(密貿易)だった。
日本とヨーロッパ諸国との接点が生じたのは室町時代末頃からである。天文十二年(一五四三年)の種子島への鉄砲伝来が有名である。ポルトガル人によってもたらされたと言われてきたが、近年の研究ではキリスト教徒の華僑が乗った船だったらしい。ただポルトガル系の貿易船だったのは間違いないだろう。航路がわかったので、天文十八年(一五四九年)にはインドのゴアからフランシスコ・ザビエルが布教のために来日した。安土桃山時代に描かれた屏風(南蛮屏風)には外国船はもちろん、イエズス会やドミニコ会の宣教師らが描かれている。鉄砲などが輸入されたが、日本からも「南蛮蒔絵」と呼ばれる漆器製品類がヨーロッパに輸出された。
ただ日本との貿易が本格化したのは江戸時代になってからである。ポルトガル、スペインに遅れて大航海時代に参入したオランダが対日貿易を独占したのだ。オランダの拠点は現インドネシアのバタヴィア(ジャカルタ)だった。先に来日していたポルトガルやスペインも貿易に意欲を示したが、日本でのキリスト教布教を断念できなかった。対日貿易争奪戦はカトリックとプロテスタントの対立でもあった。当時スペインとの独立戦争を戦っていたプロテスタントのオランダは、日本への布教の意志はないと幕府に確約することで貿易権を得た。日本は古来から仏像・仏画、神像などを礼拝対象としているが、プロテスタントは基本偶像崇拝禁止である。幕府はオランダ商人を出島に閉じ込め、人的接触さえ禁じればキリスト教の流入を防げると考えたようだ。
ヨーロッパ列強のアジア進出が、香辛料を求めてのことであるのはよく知られている。金と胡椒の重さが等価という時代もあった。これはよくわかる話しで、キャンプやバーベキューで胡椒を忘れると大変である。日本人ならその場は醤油で誤魔化せるが、あとで胡椒で味付けした肉を食べると「やっぱ胡椒がなくっちゃねぇ」としみじみ感じる。たくさん使うわけではないが、胡椒は肉の味を劇的に変える。一度香辛料の味を知ったら、もうそれ抜きの肉料理は考えられないでしょうな。
日本は熱帯ではないので胡椒などの香辛料はとれない。オランダは中国貿易で得た生糸などを日本に輸入したが、日本からの輸出品は金と銀が主だった。オランダは貿易決済を金銀で行ったのである。マルコ・ポーロは『東方見聞録』で日本を「黄金の国ジパング」と呼んだが、それはあながち大袈裟ではなかった。当時の日本は世界有数の金銀生産国だった。しかし鉱物資源は有限である。江戸時代を通じた対オランダ貿易で、日本の金銀のほとんどが海外流出してしまった。
江戸時代中期頃にかけて、金銀のほかに日本からの重要な輸出品になったのが伊万里焼の磁器である。十六世紀末頃から中国製磁器がヨーロッパにもたらされ始め、王侯貴族を中心とした中国磁器ブームが起こった。当時ヨーロッパでは磁器を生産できなかったのである。しかし明朝から清朝への王朝交代による大陸の動乱で、磁器主要生産地だった景徳鎮が機能しなくなってしまった。困ったオランダは日本の伊万里に代替品の生産を求めた。磁器が盛んにヨーロッパに輸出されたのは、船荷に適していたからだと言われる。漆器や布類と違って磁器は腐ることがない。また大量の磁器は重いので、船底に詰め込むと船が安定したのだという。
ただ長い船旅を経てヨーロッパにたどり着いた中国・日本製の磁器は、とても高価だった。そのためオランダのデルフト地方にある窯で盛んに写しモノが作られるようになった。もちろん磁器でなく陶器である。俗な言葉で言えば中国・日本製磁器のパチモンだ。現地生産可能で価格も安かったので、驚くほど大量のシノワズリ(中国趣味)の陶器が作られた。ヨーロッパでの磁器生産は、ザクセンのアウグスト二世の命を受けた錬金術師フリードリッヒ・ベドガーが、一七〇九年にその製法を発見するまで待たねばならないが、陶器生産は盛んだったのである。
しかし十七世紀には陶器生産が盛んになっていたとはいえ、ヨーロッパ人は日本や朝鮮、中国のような陶磁器大好き民俗ではなかった。人類史上、初めて陶器を作ったはエジプトなどの古代文明である。ヨーロッパ文化の起源とも言えるギリシャでは驚くほど精緻な陶器が作られた。だがローマ時代になると陶器生産は下火になる。フランス、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパ先進国家はギリシャ・ローマ文明の影響を強く受けたが、陶器文化は継承していない。それどころか長い間、ほとんどまともな陶器を作っていなかったようなのだ。
ライン炻器碗 ドイツ 十五~十六世紀頃か(著者蔵)
口径十五・八×高さ七・二センチ(いずれも最大値)
抹茶碗にちょうどのサイズで景色(炎に焼かれて偶然生まれる模様)もあり、李朝初期の茶碗のように見えるがドイツのライン河畔の諸都市で作られた炻器である。英語ではstoneware(ストーンウェア)と呼ぶ。その名の通り石のように固く重い陶器である。炻器を作るには良質の陶土が必要だが、磁器とほぼ同じ温度で焼くので恐ろしく固く焼締まる。日本の備前焼なども炻器の一種である。ただライン炻器の作り方はちょっと特殊で、温度が上がると窯の中に岩塩を投げ込む。すると釉薬をかけていないのに、陶体表面が薄いソーダガラス質で覆われる。
この炻器製作はドイツで七世紀頃から始まり、十四世紀頃にはイギリスでも作られるようになった。ドイツ製の髭徳利などが有名である。しかし全ヨーロッパには拡がらなかった。需要がなかったのである。焼物の用途は圧倒的に食器だが、王侯貴族は銀製品を使うのが当たり前で、庶民は木製品か、ピューターと呼ばれる錫製の皿やコップを使っていた。ヨーロッパでは古来、ガラス生産も盛んだった。しかしヨーロッパ人の陶器に対する愛着は薄かったと言わざるを得ない。古くからヨーロッパで作られていたのは炻器だけということになるが、それも細々とである。
またヨーロッパでは、文化はフランス、ドイツ、イギリスなどから周辺国家に伝播することが多い。しかし焼き物はそうではなかった。十七世紀から盛んになるデルフト焼は、炻器とは別のルートで発達した製陶技術だからである。
色絵草花文深皿 デルフト 十七世紀頃(著者蔵)
口径二三・三×高さ五・四センチ(いずれも最大値)
オランダのデルフト製だと思うが、もしかするとスペイン産かもしれない。いずれにせよマジョリカ様式の、大らかな絵付けの色絵草花文皿である。マジョリカ焼は狭義にはイタリアで焼かれた陶器を指す。陶体の上に白土を掛け、錫釉で彩色するので作り方はデルフト焼と同じである。というかデルフト焼は、イタリアの陶工がオランダに移住して始めた。またマジョリカ焼はイタリア独自の製陶技術ではない。イスラームの影響で発達した陶器である。
ヨーロッパと違い、中東イスラーム世界では八世紀頃から盛んに陶器が作られていた。土の質はよくないが、絵付けの技術は抜群である。それらはペルシャ陶器と総称される。このペルシャ陶器はウマイヤ朝などのイスラーム帝国の膨張によって、中東はもちろんヨーロッパにまでもたらされた。特にスペインは八世紀初めに後期ウマイヤ朝の支配下となり、一四九二年にイベリア半島に残った最後のイスラーム、ナルス朝グラナダ王国を滅ぼすまで、ヨーロッパでほぼ唯一イスラームの直接支配を受け続けた。マジョリカ焼はスペインで作られたイスラーム系の陶器――イスパノ・モレスクと呼ぶ――の影響で発達したのである。
マジョリカ焼は、スペイン領マヨルカ島が語源になっているという説が有力である。ムスリム(ヨーロッパではムーア人と呼んだ)の支配を受けたスペインのバレンシア地方では、イスパノ・モレスク陶器の生産が盛んだった。これをイタリアに輸出する際の拠点がマヨルカ島で、そのためイスパノ・モレスクを真似て、イタリアで生産するようになった陶器をマジョリカ焼と呼ぶようになったようだ。マジョリカ焼の全盛期は十六世紀だが、十七世紀以降はオランダに移住したイタリア人陶工によってデルフト焼が主流になってゆく。つまり陶器に関しては、たいていの文化とは逆に、スペインやイタリアといった周辺国からその技術が中央ヨーロッパに拡がったのである。
イサクの燔祭図染付皿 デルフト 十七世紀中頃(著者蔵)
口径二〇・三×高さ二・五センチ(いずれも最大値)
一六〇〇年代中頃に作られた典型的なデルフト製の皿である。旧約聖書『創世記』のイサクの燔祭が描かれている。アブラハムの妻サラは不妊で、しかも九十歳という高齢だった。しかしある日、子を授かるだろうという神のお告げがあった。アブラハムはひれ伏したが心の底では信じなかった。だが実際にサラは子供を産み、神のお告げ通りイサクと名付けられた。アブラハムはイサクを溺愛したが、今度は神からイサクを燔祭の子羊として捧げるよう命が下る。子を授かるだろうというお告げを笑ったアブラハムは粛々と神の命に随う。イサクの身体の上に刃物を振り上げたとき、神の御使いが現れアブラハムを止めた。アブラハムは息子イサクの代わりに茂みにいた雄羊を神に捧げた。皿にはその瞬間が描かれている。神への信仰の強さを示す試練としてよく知られた話である。
聖書の一節を絵にした皿が食卓で使われるはずもなく、これは壁などに飾って眺めるための装飾品である。デルフトではこのような飾り皿が盛んに作られた。イコン系の飾り皿は直径二十センチ程度の小ぶりなものが多く、陶体もマット色をした独特の白である。同じ窯で大量に作られたのだろう。キリスト教世界ならではの図柄だが、同じ時期に中国・日本の磁器の写し物も盛んに製作されていた。明らかに釉薬の質感などが違うので、十七世紀のデルフトではイコン系飾り皿とシノワズリ製品を作る窯が分かれていたようだ。またシノワズリ柄のデルフトも、その多くが飾り皿だったと考えられる。王侯貴族が高価な中国・日本製磁器を壁に飾る風習を、庶民が真似るようになっていたのである。もちろん壺や皿などの実用品も作られたが、白一色や簡素な草花文が多い。
シノワズリ染付皿 デルフト 十七世紀中~後半頃(著者蔵)
口径二二・二×高さ二・六センチ(いずれも最大値)
何を手本にしたのかわからないが、典型的なデルフトのシノワズリ皿である。スペインで作られたイスパノ・モレスク陶器やイタリアで作られたマジョリカ焼は、イスラームの影響を色濃く受けていて、ほぼすべてが色絵である。イスラームは偶像崇拝禁止なので、模様も草花文や幾何学文が多かった。しかしその技術が伝播したオランダ・デルフトでは、色絵技術が確立されていたのに染付(ブルー・アンド・ホワイト)の陶器が増える。これは言うまでもなく中国・日本製の染付の影響である。キリスト教やギリシャ・ローマ神話を題材にした絵も多い。また十七世紀のオランダでは新たに風景画が一ジャンルとして確立されたが、それもデルフト焼に取り入れられていった。
このデルフト焼の様式は、十七世紀から十八世紀にかけて、基本的にそのままイギリスやフランス、ドイツなどのヨーロッパ中原先進国家に拡がっていった。どの国でもシノワズリの陶器を作り、ヨーロッパ独自の画題を描いたのである。(後編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ ヨーロッパ陶磁の本 ■
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