小原眞紀子さんの『Ongaku & Bungaku by Kingyo』『No.033 ビョーク『Gling-Glo』』をアップしましたぁ。アイスランドの歌姫ビョークさんをきっかけに、亡きお父様との思い出を書いておられます。
小原さんは『この老人にとって音楽は言語でも郷愁でもなく、音楽そのものなのだろうと思った。いつも退屈しているし、手持ちのミュージック・ビデオを持ってきて観せることにした。(中略)一番面白そうに、やや感心もしたふうに眺めていたのがビョークだった。ゴムまりみたいなビョークが路上を跳ねまわり、ときどき雄叫びを上げながら歌ってるのはもちろん面白くて、ただそれを「理解」しようとすればつまづく、ということを理解するかどうかだけだろう。音楽が何かの口実になっているかいないか、ということへの嗅覚は本当のところ、豊かな子供時代を過ごしたかどうか、その記憶が鮮明かどうかにかかっている気がする』と書いておられます。確かにビョークさんの音楽に〝何かの口実〟はないですね。
ビョークさんはコマーシャルなミュージシャンであり、様々な要請や制約の中で活動しておられるはずです。しかし本質的に自由で原始的なところがある。手なずけようとしても、容易になつかない野生動物の雰囲気がありますね。それが小原さんのお父様の気に入ったのだと思います。
様々な制約の中で自由であることは、物書きにとっても重要です。依頼された文章であろうとなかろうと、どんな場合だって制約はあります。じゃあどうやって制約の中で自由を得るのかと言えば、制約を感じなくなるほど文章に、文字表現に慣れることです。でもツイッターの呟きや、ブログの日常雑感ではそれは難しいでしょうね。同じようなことを何回書いてもいいからです。
例えば月に4本、各7枚でエッセイを書くとする。週刊誌に一ヶ月、一ページ分のエッセイを載せるペースですね。月産わずか30枚程度です。でも毎回違うネタが月に4本、年間で50本近く必要になる。たいていの人は数ヶ月でギブアップすると思います。だけどそれを捻り出すことができれば〝慣れる〟というのが実感を持って把握できるはずです。
じゃあ〝慣れる〟というのはどういうことか。簡単に言えば余裕です。作家が余裕を持って書いていると読者が感じ取れるようになる。真面目なことを書いていても、ユーモラスであったりするわけです。逆に言えば、何を書いてもしかつめらしい印象しか与えない作家は文章が下手なのです。もちろん作家は毎回苦労している。しかしその苦労が読者に伝わるようではダメです。原則として、楽しそうな文章にしか読者は付かない。特に今はそういう時代です。純文学資質の作家であろうと、戦略として〝楽しさ〟を演出できなければ、生き残るのは難しくなるでしょうね。
■ 小原眞紀子 『Ongaku & Bungaku by Kingyo』『No.033 ビョーク『Gling-Glo』』 ■
■ 第04回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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