「月刊俳句界」十一月号の魅惑の俳人は桂信子である。桂信子のお弟子さんで「草樹」会員代表の宇多喜代子氏は、「それまで私は石井露月を師と仰ぐところでやっていたので、桂先生のモダンな俳句にびっくりしましてね」と語っておられる。桂信子は日野草城の「ミヤコホテル」連作に衝撃を受け、句作を始めたことが知られている。草城主宰の句誌「旗艦」に投句し、「太陽系」といったモダニズム系の句誌に参加した後、「草苑」主宰となった。
ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 桂信子
ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜
やはらかき身を月光の中に容れ
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき
窓の雪女体にて湯をあふれしむ
いなびかりひとと逢ひきし四肢てらす
ゑんどうむき人妻の悲喜いまはなし
寡婦われに起ちても臥ても鶏頭燃ゆ
逢ひし衣を脱ぐや秋風にも匂ふ
第一句集『月光抄』、第二句集『女身』に収録された俳句である。渡辺和弘氏は、「時代背景が、戦後の混乱期から復興へ、そして、成長期の足掛かりとなる頃に書かれていることや、俳壇的には、社会性俳句が大いに議論されている最中にもかかわらず、何らの関与もなく『月光抄』や『女身』に独自の個性をアピールしたことは、表現史としての桂信子の位置づけを思うとき、重要な事項の一つに数えられるものと思う」と評しておられる。社会的背景を考慮すれば確かにそうなのだが、これらの俳句は桂信子についてしばしば言われるように、本質的にエロチックでモダンなのだろうか。
はっきり言えば桂信子を有名にした初期俳句は、題詠「エロス」あるいは「女身」といった類のものである。当時の俳句界の主流は戦後左翼的アンガージュマンに彩られた社会性俳句だったわけだが、それに背を向け異を唱え、独自の表現領域を開拓するような域には達していない。なるほど若い寡婦の肉体的艶めかしさや男との逢い引きが描かれていると読めないことはない。しかしどうしても女性作家でなければならない苦悩や昂揚はない。にもかかわらず一部の俳人たちは桂信子の作品に大いに驚いたのである。思えば日野草城「ミヤコホテル」連作の時からしてそうだった。
草城の「ミヤコホテル」は昭和九年(一九三四年)に「俳句研究」誌上に発表された。わずか十句である。しかしその結果、草城は「ホトトギス」主宰の高濱虚子から破門されるなど、俳壇は上へ下への大騒ぎになった。今さらだが五句引用しておくと、
けふよりの妻と泊るや宵の春
枕辺の春の灯は妻が消しぬ
薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額に春の曙はやかりき
うしなひしものをおもへり花ぐもり
といった作品である。現代の読者はこの作品のどこがスキャンダラスなのか、ちっともわからないだろう。新婚初夜を覗き見するようなエロチシズムより、むしろ新郎の新婦(女性)に対するおずおずとした幻想の方が目立って見える。言うまでもないが、大正後期から昭和の初めにかけては私小説の全盛期である。小説界では露悪的でエロチックな作品がたくさん書かれていた。この程度の表現内容で、大の大人だった俳人たちが不謹慎、猥雑と騒ぎ立てるはずもない。「ミヤコホテル」連作がスキャンダルになったのは、本質的にはそれが俳句コードに抵触したからである。要するに俳壇大本営である花鳥風月コードにふさわしくない異端として排斥されたのだ。
日野草城は俳句の世界ではモダニズムの先駆けで、主宰誌「旗艦」で新興俳句の土壌を作った俳人だと言われる。桂信子の作品もまたモダンと呼ばれる。しかし俳壇のモダンは小説や自由詩の世界のそれとは質が異なる。端的に言えば、俳句モダンとは自我意識表現のことである。作家の強い自我意識を俳句で直截に表現する、あるいは作家の自我意識フィルターを通した外界を表現するのである。この俳句モダンは新興俳句ばかりでなく、高柳重信系の前衛俳句にまで続いている。俳句文学にとって、明治近代以降に流入した自我意識をどう処理し表現するのかは大問題だった。逆に言えば俳句文学と作家の強い自我意識は本来的に相容れないものである。
青空や花は咲くことのみ思ひ 桂信子
一心に生きてさくらのころとなる
冬麗や草に一本づつの影
人の言ふ老とは何よ大金魚
元旦や力を出さず声立てず
桂信子の晩年作である。ここまで来ると男性・女性といった性別はあまり意味を持たない。もちろん作者・桂信子として記憶される俳句だが、諦念溢れる自然体の老いは誰の身にも当てはまる。良い悪いの問題ではなくこれが俳句の王道である。この境地に達すれば俳句即生活となり、俳人は死の間際まで作品を書き続けることができる。ただしこの境地の主役は俳人ではなく俳句である。俳人の自我意識は巨大な川のような俳句に飲み込まれてゆくのだ。実際、このような書き方をすれば、時間が経てば経つほど唯一無二の作家として屹立する俳人は少なくなる。俳句文学最大のアポリアだろう。
結局「写生の妙味は此時に始めてわかつた様な心持がし」たのは、明治二十七年(一八九四)の秋から冬にかけての根岸郊外散歩の折だと語っている。「獺祭書屋俳句帖抄上巻」中の俳句作品が、明治二十七年から始まっているのは、象徴的である。(中村)不折との邂逅も同年のこと。
翌明治二十八年(一八九五)三月二十一日付村上鬼城宛書簡に、子規が、
自ラ多ク作ラント欲セバ、天下幾多ノ事物(殊ニ風景)ヲ実見シ、之ヲ写生シ、或ハ之ヨリ起ル所の空想ニヨリテ拈出スベシ。
と述べていたことは、右に見てきたところからも、十分に首肯されるのである。
(復本一郎「子規の写生開眼」)
「月刊俳句界」十一月号では特集「正岡子規の野望」も組まれている。子規の捉え方は俳壇と一般社会で大きな温度差がある。一般読書界では子規は近代俳句を確立した文豪の位置づけである。しかし俳壇ではとにかく子規の弟子の虚子が重要だ。人生の長さから言えば当然かもしれない。子規は数え年三十六歳で夭折してしまった。たいていの俳人にとってはうんと年下の男の子の年齢だろう。これに対して高濱虚子は満八十五歳まで生き、子規主筆から始まった句誌「ホトトギス」の主宰として俳壇に君臨した。「ホトトギス」が四代に渡る世襲誌として継続しており、今なお多くの同人を抱えていることも俳壇内で虚子評価を高めるのに寄与している。
子規が提唱した写生俳句が俳句文学の王道であるのは間違いない。河東碧梧桐から始まる無季無韻俳句や、言語派であった高柳重信系の前衛俳句の俊英たちがその流れを変えようとしてきた。しかし俳句を好む人々の大多数が、極論を言えば有季定型花鳥風月俳句を支持していることが、それが俳句王道であることを証明している。ただなぜ正岡子規が、現代の感覚でも十分に若い三十六歳で写生を俳句の王道と見定めたのかは考えてみる価値がある。
桂信子のような優れた俳人でも検証できるように、たいていの野心溢れる俳人は若い頃に前衛的自我意識表現を試み、晩年になればなるほど俳句王道である平明な写生に回帰してくる。虚子も例外ではない。虚子が小説家の道を諦め俳壇復帰したのは三十九歳の時である。それ以降の虚子は長い長い余生を生きたと言って良い。しかし子規に晩年はない。彼の写生は理論的帰結、あるいは彼の意志的選択だったということである。
子規は明治初期の文学者の一人として、ヨーロッパ的自我意識文学に激しい衝撃を受けた作家である。彼の写生理論はなるほど芭蕉時代から続く俳句王道には違いないが、それはヨーロッパ文学に対抗し、それと比肩できるものとして確立されている。詩人ははっきり言えば怠惰であり、詩が大好きと言っても個人全集や数十巻に及ぶ選集を通読した者など数えるほどしかいない。好きな作品をパラパラ読みながら、とにかく作品を書くことばかり考えている。これをやっている限り、必ず意欲的若手俳人から、どこにでもいる老花鳥風月俳人への道を辿る。
子規の全集を通読すれば明らかだが、彼の興味は同時代文学のほぼ全ジャンルに伸びていた。夭折したのでデモシカは意味がないが、子規は小説を諦めたわけではなく――というより〝小説家になる〟ためではなく、俳句・短歌革新に続けて小説文学の探究を晩年まで続けていた。根岸子規庵での写生文合評会であり、これを虚子が引き継ぎ、そこから夏目漱石が出た。
子規の認識では俳句は写生を基盤とする。しかし短歌や小説にはまた別の基盤がある。そのようなマルチジャンル的視点を持たなければ子規文学は理解できない。また子規の写生理論構築の過程を考えずに結果論としての写生を取り入れれば、間違いなく俳人の自我意識は俳句文学の中に跡形もなく溶解する。あと百年経っても子規の名前は文学史に残る。しかし子規以降の俳人の大方が忘れ去られるはずである。なぜそうなのかを考えてみるのも俳人の大事な仕事である。
岡野隆
■ 桂信子さんの本 ■
■正岡子規の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■