十二月号では文学の森代表取締役で「俳句界」編集発行人兼総務の姜祺東(カン キドン)氏と、「俳句α(アルファ)」編集長で「炎環」主宰の石寒太(いし かんた)さんが、「結社の未来、総合誌の未来」というテーマで対談しておられる。お二人とも大変リベラルな方だと思うが、共に俳句総合誌の長で、大袈裟に言えばあるコミュニティ内での生殺与奪の権を持っておられる方だから、俳人はなかなか物が言いにくいところもあるだろう。ただこの対談は色々な意味で面白かった。大結社の主宰が集まって対談や討議をするよりも俳句界全体を見渡していて、危機感も強い。でもまあ例によって、もの凄く物わかりの悪いことを言うところから始めましょう。
石 結社の継承も色々であっていい。僕は必ずしも同じ看板で継ぐ必要はないと思っている。主宰が結社を閉じたら、結社内の有力俳人を中心に、新しい名前の下に集まればそれでいい。要するに〝詩精神〟を継いでいくことが大事なんです。
姜 「詩精神を継ぐ」はいいなあ。ただそれだと確実に俳句人口、結社人口が減ってゆきます。
(「結社の未来、総合誌の未来」石寒太vs姜祺東)
姜氏が長い伝統を持つ結社が終刊になる理由を、「弟子の中に優秀な人材がいないわけではないけれど、(主宰者が)自分が築いてきた結社を他人に任せるのは嫌で、出来れば血縁に継がせたいと考えている(から終刊になる)」と述べ、それを受けて石氏の「結社の継承も色々であっていい」の発言になる。俳句の世界に長い間身を置いている人でなければ、結社が血縁者によって世襲されることがあることすら知らないだろう。世襲はたいていの場合、企業や政治家など個人的利権がある所にしか生じないからである。では俳句結社は利権なのだろうか。
答えはイエスでもありノーでもある。会費や結社員が出す句集の序文代(結社主宰が書くのが慣例でピンキリだが謝礼を包むのも慣例である)などで比較的経済的に余裕のある結社もあるし、主宰が持ち出しで維持している結社もある。結社ごとに内情は大きく異なるのだ。ただ新聞・雑誌などのメディアの俳句投稿欄選者の禅譲(結社内での一種の世襲)も含めて利権はあると言えばある。
また生前退位のように主宰がその座を有力結社員に禅譲して、一種の院政を敷く場合もある。この場合は会社と同様に社長が替わっても組織を存続させたいということだが、これも利権と言えないことはない。結社では当然、歴代主宰の仕事は大事にされる。結社が存続し、多くの結社員を通してそれが俳壇外まで聞こえれば、主宰の文学的評価は上がる(可能性がある)。もちろん昔ながらの仲間と一緒の方が心地良いからという理由で、主宰が変わっても継続する小さい結社もある。ただ俳壇では外の世界にアピールするためのほぼ唯一の窓口である文学賞が大結社の思惑で動いているのは、言いにくいが今のところ本当である。
そんな嫌なことばかり書かずにちゃんと理念についてもお書きなさいよ、というツッコミが入りそうだからそうすると、結社の理念とは石氏がおっしゃる「〝詩精神〟を継いでいくこと」になるだろう。結社にはそれぞれ独自の俳句に対する考え方がある。結社ごとに理想とする俳句が違うのだと言ってもいい。いわゆる〝俳風〟である。ただこの俳風は突き詰めれば文学の問題になる。そうなると文学的探求は基本一人でもできるので、結社は必要不可欠ではなくなる。だから姜氏の「「詩精神を継ぐ」はいいなあ。ただそれだと確実に俳句人口、結社人口が減ってゆきます」という発言になる。まったくそのとおりなのだ。俳壇はなかなか難しい。
俳壇は特殊だと言うと何も言わないのと同じことになってしまうのでやめるが、なぜこれほど理念と現世的利害が複雑に絡み合う不思議な風土になっているのかという点については、もう少し整理して考えてみた方がいいだろう。俳句が文学であり、それも日本文学の基本であるのは間違いない。問題はその質である。俳句文学の質は、明治維新以降に欧米文学を移入して出来上がった、日本の近・現代小説や自由詩のそれとは明らかに違う。
俳句には五七五に季語という形式がある。俳句形式と言うと即座に高柳重信を思い出してアレルギーを起こしてしまう方もおられるだろうが、重信の記憶をいったん消してそれを俳句形式と呼ぶことにすれば、俳人たちの〝詩精神〟とはまずなによりも俳句形式の継承と探求のことだろう。認めないとおっしゃる俳人も多いだろうが、アンチキリストが広義のキリスト教の一部でありキリスト教の発展に大きく寄与したように、俳句形式に揺さぶりをかける自由律や戦後の前衛俳句も、詩精神=俳句形式の継承・探求には欠かせない要素である。ただ俳句の場合、詩精神が「形式」という、ある程度スタティックなものであることが問題を複雑にする。
形式は学習できる。学習しなければ身につかないと言ってもいい。特に俳句のような短い形式は敷居が低い。自由詩は形式的にも内容(思想)的にも一切の制約がないから、作家が自分独自の形式を作り出さなければならないうんと敷居の高い文学である。小説はある程度形式を学べるが、評価されるのは圧倒的にその内容である。面白い内容、衝撃的内容を思いつかなければならないという意味で敷居が高いだろう。それに対して俳句は単純だ。少なくとも単純に見える。たいていの人が名句で思い浮かべるのは「古池や」や「柿食えへば」といった何の変哲もない作品なのだ。実際に名句を詠むことができるかどうかは別として、入り口の敷居は低く見えて当然である。
この少なくとも入り口の敷居が低く見える俳句に、俳句が大好きだから、退職して時間ができたから、人に誘われたからetc.の理由で多くの人が参入してくる。結社や商業総合俳句誌の主な役割は、これら俳句初心者の指導である。過去の俳人や俳句に関する基礎的な知識を教え、添削や投稿欄によって作品指導を行う。それがシステマティックに機能するようになると、「利権がある」と思う人が出てくる。人間の世界のことだからそういう面もある。しかしたいていの結社主宰は面倒見の良いお人好しである。商業雑誌編集にしても、強い使命感がなければ長く続けられない。
つまり俳句を文学中心に考えれば、俳壇にはびこる利権を含めた様々な現世的問題は相対化できる。初心者指導が次第に結社員の争奪戦になり、隣の結社と数を競い、大結社となって日に影に俳壇で力をふるうようになるというのは、初心者指導が俳句文学振興のための使命感に基づいている限り、言葉は悪いが一種のお駄賃として容認できる。それを必要としている人はたくさんいるのだ。嫌なら一人で俳句文学を探究すればいい。メディア露出や賞などからは遠ざかるかもしれないが、俳句が本当に好きならそんなものはキッパリ諦めれば良い。
ただこういった現実に基づく俳壇の内情は、オープンにされているとは言いがたい。俳壇内の人間にとってすら、時に談合のような形で様々な事柄が決まってしまうから問題なのだ。ただ言い添えておけば、暗部に見えないこともない俳壇のシステムを自浄せよと言っているわけではない。現在の情報化社会は絶対に後戻りすることはなく、それどころかますますその度合いが進んでゆくのだから、従来型の結社にとっても俳句総合誌にとっても、さらなる発展のためには情報公開が必要不可欠だということだ。これはインターネット上で活動する俳人が増えているということとは関係ない。世界的な情報化社会化に対応するための必須要件である。そういう意味でも今回の姜氏と石氏の対談は良い企画だった。
今から生まれてくる子どもたちはすべてネット世代なのだから、あやふやに隠されているような情報を嫌う。俳句は作品を発表するにも句集を出すにも金がかかる、結社はこういう役割を果たすがその維持には皆さんのお金が必要だ、利権に見える役職などはこういった理由で評価された作家が務めている、といった形で情報公開が為されれば「なるほど」で終わる。
石 これからの俳句は二つに分かれてゆくでしょうね。「紙媒体」と「ネット媒体」。(中略)
姜 でもネット俳句を見たことありますか? 僕は正直つまらないと思いましたよ。
石 確かにネット俳句は全体的に軽いというか、薄いというか、言いっぱなし・・・・・・。そういうところはあります。
(「結社の未来、総合誌の未来」石寒太vs姜祺東)
お二人のおっしゃる通りだと思う。しばらくはどの文学ジャンルでも「紙媒体」と「ネット媒体」の並存が続くだろうが、今さらネットを超新しいと思っている人はいないだろう。紙媒体に加えネットという新しい表現・発信媒体が新たに登場して来たわけだが、新しい媒体だから即座に新しい文学が生まれ、新たな文学動向が生まれるわけではまったくない。現状を言えば、多くの人が近い将来ネットメディアは紙メディアに比肩する大きな力を持つようになると予感しながら、さて、どういう形でそれが起こるのか、整備されるのか、ちっともその像が見えて来ないと困惑している。
簡単に言えば、ネットメディアが力を持つためには、従来型の紙媒体とは違う理念を社会に向けてはっきり提示しなければならない。現在のように、句会や投句、添削など、結社や俳句総合誌が行っているのと同じことをネット上で繰り返していてはダメなのである。たとえばだが、従来型結社は初心者のtake careには強いが、俳句を徹底して文学として捉えるという側面は弱い。ネットメディアがアイデンティティを確立したいなら、従来型の俳壇システムを一切排除した上で、俳句の文学的価値だけを誰の目にも見えるように提示するのも一つの方法だろう。不思議なことにしょっちゅう顔突き合わせるわけではないネットの方が馴れ合いが多いように感じるが、原則顔が見えない、つまり作品でのみ勝負という特性を最大限に活用するわけだ。
もちろんその場合、俳句文学主義という理念を揺るがない形で持ち、可能な限りリベラルに俳句の文学的価値だけを評価する作家が現れなければ実現は難しい。また昔から俳句文学主義メディアは経済的に苦労してきた。しかし紙媒体に比べてコストを低く抑えられるネットではそれを回避できる。一昔前の、いわゆる伝統俳句と前衛俳句の意識的対立構造は、少なくとも俳壇外の文学者の興味を惹いたという意味で俳句界を盛り上げていた。要は役割分担である。それなりに大量の俳句初心者が今後も俳壇に流入してくるだろうから、結社や俳句総合誌はその方針を簡単には変えられない。様々なしがらみも残るだろう。ネットメディアが、小難しくても俳句を文学として探求すれば、紙媒体と相互に良い影響を与えながら共存できるはずである。それが現状の俳壇システムを少しずつ変えてゆく力になるかもしれない。
ただはっきり言えば、現実社会を冷静に見渡せば、紙媒体の結社誌や総合俳句誌で活躍する方が、社会的認知や経済面でも圧倒的に〝お得〟である。そこに目端が利いた優秀な人材が集まるのは当然のことだ。いつの時代でも俳句文学主義の作家や前衛俳人は冷や飯食いである。強い精神力と高い知性を持っていなければそれをやり抜くことはできない。そういう意味ではネットメディアのアイデンティティ確立はうんと敷居が高い。
ネット時代になって、そこそこ力のある俳人が結社に所属しないで活動することが多くなった。しかし結社での人間的しがらみや苦労を嫌い、同じような嗜好の俳人たちの溜まり場としてネットを活用していることがほとんどである。だけど立場を明確にしなければ、現実は容赦なく襲いかかってくる。気がつけば、大結社で様々な苦労を重ねて編集や主宰になった同世代俳人が俳壇で力を持つようになっている。結社は結社であること自体がアイデンティティである。それを嫌うなら自分たちのアイデンティティを明確にして独自の強い力を持たなければ、共存など夢の夢である。どっちつかずの若手として大目に見てもらえるのは、せいぜい五十代前半までだ。
かげぼふしこもりゐるなりうすら繭
朝夕がどかとよろしき残暑かな
端居して濁世なかなかおもしろや
南都いまなむかんなむかん余寒なり
さみだれのあまだればかり浮御堂
十二月号の「魅惑の俳人」は阿波野青畝(あわの せいほ)で、久しぶりに読んだがこんなに平仮名表記の美しい俳人だったのかと改めて感嘆した。また青畝は実に骨格のしっかりとした句を詠んだ俳人でもあった。
梅天と長汀ありうまし国
月の山大国主命かな
山又山山桜又山桜
蝶涼し一言主の嶺を駈けくる
葛城の山懐に寝釈迦かな
魂ぬけの小倉百人神の旅
高柳重信は「青畝作品は、たしかに巧い俳句だが、単に巧いとだけ言って済ませてしまうことは出来ないのである」と評した。重信の『山海集』などは、青畝の「月の山大国主命かな」「葛城の山懐に寝釈迦かな」といった句に大きな影響を受けている。
青畝は言うまでもなく「ホトトギス」の四Sの一人であり、俳句結社「かつらぎ」主宰でもあった。ただそれはもう遠い過去の話であり、文学史的な興味を惹くに過ぎない些事である。「やっぱり青畝はいいねぇ」と思いながら、ふと俳句を文学として論じる基準を、最低でも没後三十年経ってもまだ読まれている俳人に限ったらどうだろうと思った。もちろん冗談である。
岡野隆
■ 石寒太さんの本 ■
■ 阿波野青畝の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■