中学生になって/洋楽を聴き始める、という流れは音楽体験としてあまり珍しくはないのかもしれません。私自身もそのクチでした。1980年代後半の話です。所謂ヒットチャートに一切興味は無く、自分の好きなミュージシャンやバンドが紹介するアルバムを聴く、という形でした。
小学生の頃に唯一、自らの意志で聴いていた洋楽はビートルズ。となれば、当時のお気に入りのアルバムを挙げたいところですが、私が聴いていたのは、母の友人の旦那による、独自の編集テープ/46分×二巻です。後年、オリジナルアルバムの曲順に違和感を覚えるくらいには聴きこんでいました。
中学生になっても一、二年の頃はほとんど洋楽に接触していません。経済的な事情、というヤツです。簡単に言えば「日本のバンドを聴くだけで手一杯」。
転機が訪れたのは三年になってから。経済的な事情が改善されたわけではありません。品揃えの良いレンタルショップを発見したのです。そして手元には、敬愛するバンドが推薦する洋楽のリストがありました。そこに掲載されていたのは半世紀、1950~90年代のアルバムが百枚近く。
とにかく一心不乱、闇雲、我武者羅に聴き漁りました。そしてリストの半分程を聴いた頃でしょうか、ふいに不安になったのです。
――あまり面白くないんだけど……。
口に出すどころか、思うことすら憚られるような感覚が奥底にありました。アルバムのセレクトに問題はありません。ストーンズ、フー、キンクス、ドアーズ、ボブ・ディラン、レッド・ツェッペリン……。
こんなビッグネームの「名盤」を楽しめないなんて、自分には音楽的な才能が欠如しているのではないか、と中学三年生は不安になったのです。
もちろん、何を聴いてもつまらないわけではありません。ただ、期待していたような感動は一向に味わえませんでした。
今なら理由は分かります。音楽を楽しむのに理屈や経験は要らない、という言葉に嘘はありません。でも、理屈や経験があれば更に楽しめるのもまた事実です。つまり、私の耳が貧弱だったのです。
繰り返しますが、音楽を楽しむのに理屈や経験は要りません。ただ、どの程度楽しめるかはピンキリですし、ピンに近付くほど数は減るのが世の常だと思います。だからこそ、そんな音楽に出会うと嬉しくなるのでしょう。
求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。とうとう、不安な気持ちで洋楽を聴き続ける私にも、素晴らしい出会いが訪れました。そのアルバムが、今回取り上げるスライ&ザ・ファミリー・ストーン(以下、スライ)の四作目『スタンド!(Stand!)』です。
一曲目「Stand!」のイントロのドラムロールに続く旋律の美しさ、音色ひとつひとつの躍動感は、明らかに理屈や経験が無くても楽しめる音楽でした。そしてこのアルバムを聴いてからは、他の洋楽も少しずつですが楽しめるようになったのです。
収録曲の魅力についてはこれからお伝えしますが、アルバム全体を通して印象的なのは「ファンキー」であるということです。とても雑な結論で恐縮です。
さあ、とにかく聴いてみましょう。
1.美しい旋律
スライの音楽がファンクであることは知っていました。ただ、ファンクに関して私の貧弱な耳は多くを知りませんでした。「ファンクの帝王」JB、ジェームス・ブラウンは聴いていたので、尖ったリズムのダンスミュージックか、情感たっぷりのバラードを予想していたはずです。
だからこそ表題曲「Stand!」に大きく予想を裏切られ、一発で気に入ってしまったのでしょう(当時、私の貧弱な耳にはJBさえ面白く響かなかった!)。
特に私を興奮させたのは、所々で聴こえる奔放なシャウトです。ファンクはよく知りませんでしたが、その自由さを「ファンキー」と呼ぶことは理解できました。
美しい旋律に引き込まれていくうち、いつの間にかダンサブルな曲調になっているのが本当に不思議で何度も聴いた覚えがあります。
四曲目「Somebody’s Watching You」も同様に、歌唱部の愛嬌ある旋律と、間奏のやや不穏な緊迫感との移り変わりが魅力的です。
分析など到底出来ませんが、美しい旋律の上で自在に跳ね回るファンキーな歌声/シャウトが、「ポップス」の枠には収まらない要因のように思います。
同様の構造の楽曲を得意とするジャクソン5。彼等のデビュー作『帰ってほしいの(Diana Ross Presents The Jackson 5)』に収録されたカヴァーは、可愛らしい歌声が飛び交う微笑ましい仕上がりになっています。ちなみに当時、マイケル・ジャクソンは11歳。本当に素晴らしい才能です。
【Stand! / Jackson 5】
2.メッセージ
人種問題や戦争をあまりテーマに取り上げなかったスライですが、公民権運動やベトナム反戦運動といった時代の流れから、反戦歌など直接的なメッセージを発信しているアーティストたちの側と見做されます。
確かにあまり取り上げなかったとはいえ、二曲目のタイトルは「Don’t Call Me Nigger, Whitey」。ずいぶん直接的なメッセージに思えます。ただ、ヴォコーダーという初期のシンセサイザーを使い、不気味に処理された声はこう続けます。”Don’t Call Me Whitey, Nigger”。
人種・性別混成バンド(!)というスライの特徴を考えると、単純に両方の対立を煽る為のメッセージとは考えづらい気がします。そこまで言い合える親密さを表現している、と受け取るのは楽観的すぎるでしょうか。
ちなみにこの曲は約6分ですが、音色の特異さのせいか時間の感覚が少々狂ってしまいます。
ミクスチャー・バンドの先駆、ジェーンズ・アディクションとラッパーのアイス-Tによるカヴァーは、アルバム収録曲ではなく、映像作品『ギフト(Gift)』に収められたものですが、私が予想するメッセージの意図と近かったので紹介いたします。
【Don’t Call me Whitey, Nigger/ Jane’s Addiction】
3.単純な旋律
旋律の美しさについては前述しましたが、ここではもう一つの旋律の魅力に迫りたいと思います。
六曲目「Everyday People」の旋律は、まるで童謡のように単純です。構成も「男性パート」と「女性パート」を繰り返すのみ。リズムも単調だし、ベースは同じ音程を奏でているだけ(それはそれで凄いアイデアですが)。そう、使っているコードはたった一つなのです。
実は当時、真っ先に覚えてよく口ずさんでいたのはこの曲でした。反復(ループ)することの心地よさもあったのでしょう。本来の長さは2分20秒ですが、飽きずに延々と繰り返していました。
でも自分で口ずさむ旋律は、決して間違えているわけではないのにどこか物足りなく、幼稚に響くのです。その原曲との落差は絶妙なアレンジによって生まれるのですが、当時はさすがに分かりませんでした。
極端に強弱をつけたファンキーな歌声のインパクトもさることながら、「女性パート」の際に管楽器が奏でているのは「男性パート」の旋律……。道理で口ずさんでいて物足りないわけです。
その他の収録曲にも、単純な旋律は多用されています。例えば、五曲目のその名も「Sing a Simple Song」では、「ドレミファソラシド」という歌詞がその音階のまま歌い込まれています。もちろんパンチの効いたファンキーな歌声で。
理屈や経験を持たない当時の私にとって、童謡めいた単純な旋律を/思いっきりファンキーに歌う、という組合せはとてもインパクトがありました。向こう見ずに熱くなり過ぎず、トボケたような仕草を垣間見せる捉え所のなさに惹かれたのです。
その影響でしょうか。いまだに私は、シリアスな二枚目よりも、どこか飄々とした二枚目半の方に魅力を感じます。人間でも、音楽でも。
父と娘、息子によるファミリー・ゴスペル・グループ、ステイプル・シンガーズのアルバム『ウィール・ゲット・オーヴァー(We’ll Get Over)』に収録されたカヴァーは、整然としている分、旋律そのものの単純さを堪能しやすくなっています。
【Everyday People / The Staple Singers】
4.昂揚感
当時、このアルバムを聴いている最中、一番気分が昂揚するのは三曲目「I Want to Take You Higher」でした。段々と、ではなくイントロからいきなり最上階に引っ張り上げられるのです。もちろん最後まで降ろしてはくれません。それどころか、更に上へと昇れる気分にさせられるのです。ハイ、音楽の話です。
それぞれの音色が勝手に暴れながら、隙間なく重なり合う感触。ファンクでもなくロックでもなく、遠くの国の大規模な祝祭のように感じるのは、いつまでも途絶えないハイなテンションのせいかもしれません。
キレのいい音色が最終的には絡まり合い、粘度が増してドロドロになる様子は正に圧巻。混沌の度合いを深めているのは、曲の端々で唸りをあげる暴力的なベースの音色です。この無軌道さもファンキー。
……締めでもまた雑な結論になってしまい恐縮です。
最後は、今やベテランバンドとなったデュラン・デュランのカバー集『サンキュー(Thank you)』から。疾走感を強調しているせいかロック寄りの雰囲気です。
【I Wanna Take You Higher / Duran Duran】
寅間心閑
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■