六月号は「第120回 文學界新人賞発表」号である。大衆エンターテイメント小説誌に比べ、純文学誌の新人賞選考はとても難しいだろうと思う。エンタメ小説作家には、まずプロット(面白い物語)を組み立てることができる能力が求められる。原稿を量産できる筆力も必須である。時間と労力をかけて渾身の一作を書くのではなく、そこそこの作品だろうと書き続ける必要がある。
大衆文学界では一作ごとの出来不出来は厳しく問われない、と言うよりも、時間と労力をかければ良い作品になるわけではなく、書き続け、絞り出し、アイディアが出尽くしたハードワークの先に秀作・傑作は生まれるのだという暗黙の了解がある。もちろんプロット立案能力や筆力があっても、本が売れなければエンタメ小説家は成り立たない。もしエンタメ小説家がどうしても表現したい個人的主題を抱えているなら、書き続け本を売り続け、その上で固有の主題を表現しなければならない。
これに対して純文学作家は、最初から文学の最も〝純粋〟な部分を表現することを求められる特権的作家たちである。もちろん純文学と大衆文学の区別など便宜的なものである。洋の東西を問わず生前は大衆作家だったのに、死後になって純文学と認められた作家は大勢いる。しかし二十世紀初頭以降の文学ジャーナリズム史を検証すれば、ほとんど厳然とした形で純文学と大衆文学の敷居はある。作家と雑誌ジャーナリズムが不可分に結びついた形で、純文学作家と大衆文学作家が生み出されている。
商業出版である以上、純文学作家といえどもあまりにも本が売れなければ、じょじょに文学界から消えてゆくのは当然だ。ただ純文学界では本が売れること、つまり商業主義はやはりその最も重要な要素ではない。売り上げは低調でも、文学の最も純な核心を表現した作品を世に送り出すのだという気概がなければ純文学出版などやっていられないだろう。極論を言えば漱石、鴎外、龍之介、川端、谷崎に比肩するような作家を生み出すのが純文学の目標である。
ただ優れた純文学作家を輩出するためには、当たり前だが〝純文学とはなにか〟〝文学の最も純粋な部分とはなにか〟〝文学の核心とはなにか〟という問いへの答えを持っていなければならない。必ずしも本の売り上げで優劣を計れないわけだから、これはなかなか難しい問題である。ただ優れた純文学作品は未来へと伸びたヴィジョンを有しているだろう。過去の古典でわたしたちが思い起こすのは、たいていは明治・大正期の純文学作家の作品であり、当時の風俗はとっくに古びている。にもかかわらずそれらは現在でも読むに値する。古典作品は作家が過去の歴史を踏まえた上で的確に現在を認識把握し、そこから未来へと伸びるヴィジョンを表現しているのである。
俺は男友達の主夫をしている。子供はまだない。(中略)
主夫とは言ってみたものの、婚姻関係にもなければ恋人関係ですらない。すなわち婚前交渉も当然ない。純粋な同性交遊だけがそこにある。その意味では家政夫に近い。(中略)
亮介が住む三階建ての3LDKに転がり込んだのはこの春前だった。(中略)
亮介は休日はほとんど家にいる。平日は遅い。家にいる時は基本的に一階の自室に引きこもって『いかにして問題をとくか』『アフリカ 苦悩する大陸』など難しそうな本を眉をひそめながら読んでいる。(中略)自宅の自室で何をそこまで苦しまなければいけないのか。俺にはさっぱり分からない。(中略)
「まだ時間かかりそうだね」高そうなグラス二つにベルギービールを注いでケーヤに渡す。(中略)ケーヤにビールの好みは無い。(中略)「お前本気でアサヒとキリンの違い分かるって言ってんのか」と言って憚らない。「迷ったとき、俺は市場を信じることにしている」外資の銀行で働くとはそういう生き方をすることらしい。(中略)「高い奴だよ」ランビックを手渡すと実にうまそうにケーヤは飲む。
(「サバイブ」加藤秀行)
作家紹介によると、加藤秀行氏は一九八三年生まれ、千葉県出身の三十二歳で、東京大学経済学部を卒業後、会社員をしながら現在はベトナムで暮らしておられる。第120回文學界新人賞受賞作「サバイブ」は、外資系企業に勤める亮介とケーヤの家に居候するダイスケが主人公である。亮介が借りているお茶の水にある三階建ての一軒家である。家賃は当然高い。亮介の部屋は一階、ケーヤの部屋は三階で、ダイスケは二階のリビングで寝起きしている。といっても遊んでいるわけではない。有楽町のバーでアルバイトをしている。通勤はケーヤ所有のジャガー製高級自転車だ。バイトから戻るとダイスケは、買い物や掃除、三人分の料理や洗濯をする主夫として暮らしている。高給取りの二人はダイスケに、家事負担分の金も出してくれる。
作者加藤氏の実体験か取材によるものなのかはわからないが、亮介とケーヤのように外資企業に勤め、若くして高給を得る若者は増えている。将来の保証はないが、営業成績によっては日本国内の一流企業ですらあり得ない、桁違いの報酬を得ることができる。また日本企業の魅力は終身雇用制で、給与はそこそこだが、退職後には企業年金なども出ることにあった。しかしそれが崩れつつある現在、生存競争は熾烈でも能力に応じて高給が出る外資に勤めたいと思う若者が増えている。実際、ダイスケのバイト仲間の後輩は、「亮介の事を「神」と仰いでいる」。ただ〝神たち〟の心は揺れている。
〝グローバリズム〟を身近な問題に置き換えれば、それは賃金格差のことである。スポーツ選手の年俸などを見れば一目瞭然だが、アメリカはとてつもなく裕福な国だ。ティピカルな外資というのは、アメリカ式ビジネススキームで動く企業のことである。そこで働く日本人はまだ一握りに過ぎないが、グローバリズムの観点から言えば、彼らは自分たちの高給など微々たるものであることを知っている。また外資に勤めるということが、ほんの少しの発想の転換と偶然に過ぎないことも彼らは自覚している。
貧富の格差が社会問題になっている昨今、勝ち組である外資エリートがそれを気に病むかどうかは個々に異なるだろう。金を稼ぐことが善なのだと信じることもできる。ただそれが、戦後一貫して続いてきた日本の総中流指向とかけ離れているのは確かである。当然だが外資エリートの精神は従来とは変わらざるを得ない。「サバイブ」の、豊かだがどこか空虚な外資エリートの描写には強い説得力がある。
皇居前の広場で立ち止まってイヤホンを外す。思いっ切り息を吸う。東京駅の上、夜空が広く見える。息を整える。
最近たまに分からなくなる。「このままではいけない」気がしてくるのだ。そのことに気づくたび、下腹の辺りからふくらはぎにかけて、急に力が抜けていく気がする。(中略)
この気持ちの原因を考える。自分のせいか? 彼らのせいか? 分からない。俺は2000年代に入ってから、何かが無かった感覚だけがある。俺は一体何をしていたのか。果たして正しい努力をしていたのか。
俺には90年代が確かにあった感触がある。80年代もあったのだろう。チョビ髭の店長を見ていると確信する。じゃあ00年代って何だったのだろうか。聞いたことがない。呼びづらいから皆呼ばないのか。それとも本当に無かったのか。俺には分からない。いつか何かの目次に総括されるのだろうか。『日本における00年代は誰もが浮き足立っていて、大人はきまずく、若者は諦めたような、どうにも中心のない、白けた年代でした』
何であろうと今の俺は自分で走るしかない。痣になるくらい背中と尻を両手で思いっきり叩いてくれるチームメイトはもういない。
(同)
主人公ダイスケの心理描写だが、それは外資エリートである亮介とケーヤにも共通している。80年代や90年代は比較的輪郭のはっきりした時代だった。しかし00年代の日本は今のところ、失われた十年だろう。ダイスケが考えたように、後になって『誰もが浮き足立っていて、大人はきまずく、若者は諦めたような、どうにも中心のない、白けた年代』だったと総括される可能性は高い。00年代になると、どの社会領域でも過去の遺産が見えにくくなった。大人はそれまで築き上げてきた智恵と実績を誇ることができなくなった。若者は新たなヴィジョンを切り開くことを期待されながら、ちっともそれを掴めない空虚に苛まれている。年長者を見ても、同世代を見渡しても、「チームメイトはもういない」のである。
ダイスケはジョギングしながら、YouTubeにアップされていたカンボジア内戦を生き延びた人の証言を何度も聞く。その人は父親と姉を殺され、母親が用意したなけなしの金で一人ベトナムに逃げた。親戚を頼ってパリに行き、大学を出て国際金融の仕事に就いた。その間に母親は殺された。その人は虐殺を引き起こした人間すべてへの復讐を誓う。しかしポルポトの虐殺を生き延びた叔父から、母が復讐を望んでいなかったと聞かされる。「この話を聞いて以来、私の魂は永遠に行き先を失いました。私は自分のことを割れたガラスのようなものだと思っています。かけらを見つけ、元通りにすることが出来るのは、結局のところ自分しかいないのです。これはお互いを許すとか和解するとか、そういう類の話ではなく、犠牲者一人ひとりの、心のうちにある責任と義務に関わっていることだと思うのです」とある。
ダイスケがポルポト虐殺を生き延びた人の話を聞くようになったのは、もしかすると亮介とケーヤ以上のビジネスエリートかもしれない恋人のレナが、一緒にカンボジア旅行に行かないかと誘ったからだった。ナショナルグラフィック誌に掲載されていた半裸で裸足の少年たちが、天気雨に打たれる写真に魅了されたのだ。あえて冒険を求めるわけではないが、生死の境に曝された場所を見たいという思いは、ビジネスセレブの亮介やケーヤやレナにも、彼らから見れば落伍者のダイスケにもある。外資エリートのケーヤと亮介は「俺たちの生活は雲の上だな」「いつ底が抜けるか分からない、って意味か」と会話する。ほとんど物のないレナの部屋には、亮介が読んでいたのと同じ『アフリカ 苦悩する大陸』がある。
ただ加藤氏の「サバイブ」は、高度資本主義のマネーゲーム社会を舞台としながら、そこから昔ながらの文脈での、意義ある生活に戻ることを紙一重でこらえている。グローバリズムに浸食され切っていない新興国に行っても、極端に言えば農業に従事するようになっても何も変わりはしない。決定的に変容した新たな社会を〝見てしまった者〟は、もう後戻りできないのである。またその新しさは、過去の叡智を頼りにできない未知のものだ。社会の変容によって犠牲者になるのは途上国の人間だけではない。先進国でも同じだ。従来の私は「割れたガラスのようなもの」であり、「かけらを見つけ、元通りにすることが出来るのは、結局のところ自分しかいない」のである。そこに「チームメイト」はいない。
亮介は「俺にはむしろお前のような奴が必要なんだ」とダイスケに言う。「俺はダイスケのことがうらやましい」とも。レナは彼氏であるはずのダイスケを「息抜き相手」だと言う。「サバイブ」という小説において、主人公のダイスケは負の中心だ。社会的に言えばビジネスエリートとフリーターという大きな差はあるが、彼らは同じ時代を生き、同じ時代精神を感受している。亮介やケーヤ、レナが属する熾烈なビジネス社会は今後ますます社会全体に広がり、一般化してゆくだろう。一度そこに身を置いてしまえばもう降りられない。ダイスケがビジネスエリートたちを惹きつけるのは、負の彼こそがこの閉塞した時代精神を〝サバイブ〟できる可能性を持っていることを示唆している。もちろんその具体的方法はまだ見えない。しかし作者の加藤氏にとって、サバイブのための武器は小説なのかもしれない。
加藤氏は新人としては破格なほど上手い作家だと思う。純文学新人作家によくありがちな、奇矯なテーマの小説を書き、やたらと文体を弄ることで斬新さを表現しようともしていない。オーソドックスな小説作法で自らのテーマに迫ろうとしている。高い知性をお持ちの作家だと思う。ただそれゆえに、今後の道筋は様々な可能性として伸びているのではなかろうか。
端的に言えば純文学小説や自由詩がどうしようもない不況産業になってしまってから、作家の質は落ち続けている。社会全体の大きな変容とは無縁に、十年一日の文壇・詩壇にしがみつき、あるかないかの利権に固執する作家が目立つ。自分たちの表現ジャンルが危機的状況にあることすら自覚していない。現在、文壇・詩壇の中堅となりつつある五十代くらいの作家は、過去の戦後文学的な文学神話・文学フレームを知っている最後の世代である。またそれゆえ既存の権威はまだ存在するのだ、あるいはいつまでも存在していてほしいとどこかで願っている。しかしそれは近い将来大きく変容し、彼らは取り残されるだろう。
そういった作家たちと比べれば、加藤氏ははっきりと現代精神を捉えた有望な新人である。ただそれゆえに、彼には小説作家とは別の道が開けている、あるいは見えているはずである。加藤氏は選ばれるべくして選ばれた優れた新人である。しかし純文学界の魅力が褪せきっていることに気づくのに、そう時間はかからないはずだ。彼がしばらくであろうと純文学界に留まり、サバイブの道筋を探求してくれることを切に望む。「サバイブ」は秀作である。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■