僕の通っていた小学校は木造二階建てで、もちろん冷房などなく、冬は教室の真ん中に石炭ストーブがドンと据えてあった。冬になると石炭当番といって、生徒二人が組になって、雪が降っていても学校裏の石炭山からスコップで石炭をバケツに入れて運んでいた。トイレも水洗じゃなく汲み取り式だった。昭和四十年代のことである。小学校は今も昔と同じ場所にある。もちろん鉄筋コンクリート造に変わっているが、建ってからもうだいぶ年月が流れているので、昔の小学校と同じようになんだか古ぼけて見える。
「これ、すごくいいんだよ」。ある日同級生が、体操着などを入れる布袋の中から一枚のレコードを取り出して見せてくれた。カーペンターズの『ナウ・アンド・ゼン』というタイトルのレコードだった。リリースは一九七三年だから、僕たちは小学六年生の十二歳だったことになる。小学生が洋楽を聴くような時代じゃなく、そういったませた子は、たいていお兄ちゃんやお姉ちゃんの影響だった。
「見せるだけだから」と言って、その子はそそくさとレコードを袋に入れてしまった。きっと自慢したいだけで、お兄ちゃんかお姉ちゃんの部屋からこっそりレコードを持ち出したのだろう。当時のLPレコードは高価だった。子どもにとってはなおさらである。今ほど音楽情報が世の中に溢れていなかったが、カーペンターズはすでに大スターだった。その親しみやすい音楽のせいか、テレビで歌っているのを見たこともあった。
しばらく手に取って眺めただけなのに、そのアルバムジャケットは長く目に残った。赤いスポーツカーと白い二階建ての家が写っている写真である。今見ると、車(フェラーリ)の中にカレンとリチャードのカーペンター兄妹が座っている。しかしだいぶ長い間、それに気づかなかった。赤いスポーツカーと白い家だけが印象に残った。どちらも僕の町にはなかったのである。
僕の家の近くには、平屋建ての広大な社宅が広がっていた。社宅は一軒家で、雪国ということもあってぜんぶ三角屋根だった。屋根が平らな家は珍しかった。外壁が白い家もなかった。社宅には医者が住んでいて、古ぼけたフォルクスワーゲンのビートルに乗っていた。真っ黒な排気ガスを吐き出しながらノロノロと走っていた。まだ道路は舗装されていなくて、いつも砂埃を巻き上げていた。それが僕が見たことのある唯一の外車だった。
When I was young
I’d listen to the radio
Waitin’ for my favorite songs
When they played I’d sing along
It made me smile.
子どものころ
よくラジオを聞いていた
お気に入りの曲を待って
曲が流れたらいっしょに歌い
笑っていた
(『イエスタディ・ワンス・モア』作詞ジョン・ベティス 作曲 リチャード・カーペンター)
ティーンエージャーにとって、ラジオが音楽を聴くための大事なツールだった時代が確かにあった。忌野清志郎はリチャード・カーペンターの五歳年下、カレンとは一歳違いのほぼ同世代だが、『トランジスタ・ラジオ』という曲を作っている。僕らも中学生くらいになると、新しいヒット曲を求めてラジオにかじりつくようになった。布団を頭からかぶって深夜までラジオを聞いていた。だから〝When I was young〟というのは十代の頃になる。でも十代を懐かしいと思う気持ちは、何歳くらいから芽生えるものなのだろう。
『イエスタディ・ワンス・モア』を作詞したジョン・ベティスは一九四六年生まれだから、七三年当時二十七歳だったことになる。RCサクセションが『トランジスタ・ラジオ』をリリースしたのは清志郎二十九歳の時だ。ビートルズのジョン・レノンは二十五歳の時に、〝When I was younger, so much younger than today(僕が若かった頃、いまよりずっと若かった頃)〟という歌詞の『ヘルプ!』を書いた。若くしてハードワーカーになったミュージシャンたちは、どうやら二十代の後半には、十代を遠い過去と感じるほど老成していたようだ。しかし十代の僕は洟垂れ小僧だった。二十代になっても、社会のことを何も知らない洟垂れ小僧のままだった。
Lookin’ back on how it was
In years gone by
And the good times that I had
Makes today seem rather sad
So much has changed.
昔がどんなだったかを振り返ると
月日は流れ去って
楽しかったわたしの日々は
今のわたしをうんと悲しくさせる
たくさんのことが変わってしまった
人間の記憶は三歳くらいからだそうで、僕も幼稚園に入った頃からの記憶がある。朝は母親か父親に幼稚園に連れて行かれ、帰りは祖母に連れられて親戚の家に行った。両親が共働きだったので、迎えが来るまで預けられていたのだった。幼稚園は古いお寺の敷地の中にあった。そこから祖母の家までの道を、今でもはっきり辿ることができる。
途中に図書館があって、そこで絵本を借りてもらった。小学校の中を突っ切るのだが、イチョウ並木で秋にはギンナンの実がいっぱい落ちた。祖母の家の数軒手前にランプ屋という駄菓子屋があって、そこでいつもハズレのクジを引いた。僕は大人しい子ではなかったが、やんちゃな子でもなかった。子どもっぽい大きな自我意識を抱えていたが、それをストレートに発散することができなかった。要するにどこにでもいる普通の子どもだった。
ただ僕には過去を美化して懐かしむという感情が欠落している。自分でも意識的に封印している気配を感じるのだが、ある場所に立つと、あるいはそうしなくても、ある年齢の過去の瞬間をいくつも思い出すことができる。そうするとその時の光景と感情がまざまざと蘇ってしまう。
精神治療の方法の一つに催眠治療がある。だいぶ前にその手の本を読んで寝た夜に、過去の自分にタイムスリップしてしまったことがある。僕は中学生で、夏の朝、目覚めるところだった。ひんやりとした夏の朝の気配の中で、思春期で反抗期の僕の心は重かった。それをほとんどリアルタイムのように感じられたのは驚きだった。もちろん楽しかった思い出もたくさんある。しかし純粋に楽しかった思い出は、過去のどの時代を探しても見当たらない。
だから僕はいつの頃からか、昔の話をされても「そうだったかなぁ」、「忘れちゃった」と言うのが口癖のようになっている。しかし本当はそんなことはない。その気になれば細部まで思い出すことができる。しかしそうするのがなぜか好きじゃない。幼少期から青年期にかけて、いわゆるトラウマになるような衝撃的な出来事があったわけではぜんぜんない。でも多分、僕は過去のどの時代の自分も嫌いなのだ。未来でこそ、僕は本来の僕になれるのだとどこかで夢想している。しかしそれはやはり世間知らずの馬鹿な詩人の夢に過ぎないだろう。僕はもう少し過去の自分と和解すべきなんだろうと思う。
It was songs of love that
I would sing to then
And I’d memorize each word
Those old melodies
Still sound so good to me
As they melt the years away.
あれはみんなラブソングだった
あの頃わたしが歌っていたのは
歌詞のひと言ひと言を覚えている
その懐かしいメロディもすべて
それらは今も優しく響いてくる
過ぎ去った月日を溶かすように
カレン・カーペンターの声は特別で、知らない曲でも「ああカレンが歌ってる」とすぐにわかる。女性としては少し低めの声で、シャウトすることもないし、どちらかというと地味な歌い方なのだが耳に残る。ヴィジュアルとして強烈なインパクトを与える歌手ではなかったから、やはりラジオ時代のシンガーなのだろう。
よく知られているように、カレンは兄リチャードがやっていたバンドでドラムを叩きながら歌っていた。カーペンターズとして活動し始めてからボーカルマイクの前に立つようになった。ボーカリストとしては珍しく、あまり目立ちたがり屋ではなかったようだ。カーペンターズは絶頂期に『トップ・オブ・ザ・ワールド』や『スーパースター』といった曲をリリースした。ラブソングだが、カーペンターズがポップス界の頂点に立ったことを強く意識させるタイトルだった。しかし決して嫌みではなかった。カレンのはにかんだような歌い方が、それを感じさせなかったように思う。
『イエスタディ・ワンス・モア』の歌詞をちゃんと読んで理解したのは、大学生くらいの時だった。漠然とラブソングだと思っていたのだがそうではなかった。正確に言うと〝あなたとわたしのラブソング〟ではない。ラジオから流れてくるラブソングに恋していた頃の私を、いとおしく眺めているような歌詞だ。純粋に歌に恋していたティーンエイジャーの私を懐かしんでいる。だからこの曲にはラジオと歌と私しか登場しない。その恋情は、どんな表現者も心の奥底に抱いている純な心だろう。だから僕は『イエスタディ・ワンス・モア』が好きなのだと思う。
鶴山裕司
■ カーペンターズ イエスタディ・ワンス・モア ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■