於・サントリー美術館
会期=2015/10/10~11/29
入館料=1300円(一般)
カタログ=2500円
久隅守景は以前からまとめて作品を見たいと思っていた絵師である。これだけの守景作品が集められたのは今回が初めてではなかろうか。研究はそれなりにされているが、ちゃんとした画集もない画家である。それは守景の代表作『納涼図屏風』を見ればすぐにわかる。この作品は国宝指定されているが、国宝の中で最も地味だと言われる。しかし『納涼図屏風』はなんとなく目に残る。ちょっと妙な感覚を与える作品である。こういった作品はたいていの場合傑作だ。描いた守景も偉いが、この作品を代表作と認定し、国宝指定した美術界の先人たちも偉いものである。
守景の出身地や生没年はわかっていない。江戸初期の慶長年間に生まれ、元禄年間の末に八十代の長寿で没したようだ。江戸という新しい時代の息吹を伝える最初期の絵師の一人である。若い頃に狩野探幽の門下に入り、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義とともに探幽門の四天王と呼ばれた。探幽は狩野派の勢力を拡大し盤石のものとするために、弟子たちと自らの血縁者を結婚させていた。守景も神足常庵の娘で探幽の姪である国と結婚した。
狩野探幽は京都出身で、慶長十七年(一六一二年)に徳川家康に謁見し、幕府の御用絵師となった。元和七年(一六二一年)には屋敷を賜り活動拠点を江戸に移した。守景は前半生は探幽門の絵師として活躍し京都で没したので、おそらく西日本出身だろう。作品を見れば守景が古典に精通していたことがわかるが、江戸初期にそのような知識を蓄えていたのは京周辺の文化人にほぼ限られる。江戸初期は探幽を始め尾形光琳や松尾芭蕉など、政治・経済の中心となって繁栄し始めた江戸へ、当時の先進文化地域だった西日本から多くの文人が移住した時代だった。
守景は国との間に一男一女をもうけた。二人とも探幽に師事して絵師となった。長女は清原雪信である。詳細はわかっていないが、雪信は探幽門の男と通じ、駆け落ちしたと伝えられる。それを契機に探幽門を離れたようだ。許婚があったのに、好きな男と逃げたのかもしれない。気性の激しい女性だったらしい。駆け落ち後は売り絵で生計を立てた。
井原西鶴の『好色一代男』に遊廓の島原太夫の衣裳について、「白繻子の袷に狩野の雪信に秋の野を書せ」とあるので、その画が高く評価されていたことがわかる。父の守景と同様、京か大坂で暮らしたのだろう。また西鶴は「狩野の雪信」と書いているので、狩野派を名乗るのはタブーではなく、雪信は探幽一門の優れた女流作家として遇されていたらしい。女性なので仕官はできず民間で活躍したが、雪信は数少ない江戸の女流画家である。
長男は彦十郎でこれも腕のいい絵師だったが、悪所通いが問題となり狩野派から破門された。また同僚の悪口に激高し、討ち果たすと口走ったことから罪に問われ佐渡に配流となった。寛文十二年(一六七二年)のことである。二十年後の元禄五年(一六九二年)に罪を許され江戸に戻ったが、その後再び佐渡に渡っている。そのため佐渡地方を中心に彦十郎の作品が残った。また元禄四年に狩野探信、探雪、常信といった狩野家の大物が彦十郎の赦免嘆願書を提出しているので、完全に狩野家から見捨てられたわけではないようだ。
娘息子の不祥事が続いたせいか、守景は延宝年間に狩野派を離れ加賀に赴いている。師の探幽が亡くなったことも狩野派を離れる原因になったのかもしれない。守景は六十歳くらいだったはずである。加賀には六年間ほど滞在した。ただ狩野派を離れたといっても、破門ではなかったようだ。守景は加賀滞在中に領主前田家の菩提寺・瑞泉寺(富山県高岡市)の襖絵などを描いている。狩野家の口添えなどがあって、加賀藩前田家のお抱え絵師の一人となったのだろう。先に述べたように守景は晩年に京都に住みそこで没した。京都時代の作品には貴族好みの雅な絵が多いので、京でも守景は貴顕と交流し絵を描いていたらしい。
『山水図』
紙本墨画淡彩 二幅 縦一二一・六横五二・七センチ、縦一二二×横五一センチ 東京国立博物館蔵
『山水図』は守景が探幽門下の絵師として働いていた時代の作品である。元々は六曲一双の屏風だったがその後軸に改装され、世界中の美術館に所蔵されるようになった。狩野派らしい作品だが、師の探幽が幕府お抱え絵師の矜持なのか、自信に満ちた豪放で荒っぽいとも言える大作から、繊細な小品まで手がけたのに対して、守景の絵は清新ですっきりしている。探幽のように墨線の肥痩が目立つことはなく、線の輪郭は初期から晩年まで、ほぼ一貫してくっきりと鮮やかである。そのため守景の、特に山水画では余白の美しさが目立つ。
また『山水図』の真ん中あたりに墨で描かれた縦線が見える。これは畳目の跡である。江戸時代の絵師は宴席などで筆を振るうこともあり(席画と呼ばれる)、そういった作品にはときおり畳目が残ることがある。しかし守景の『山水図』はその生真面目な作風から言って、宴席で描かれたものではあるまい。畳目の効果を面白がってこの作品に活かしたのだろう。
こういった創意工夫は他の狩野派の絵師たちには見られない。狩野派は代を重ねるごとに先人の作を忠実に模倣するようになり、じょじょにそのダイナミズムを失ってゆく。守景は狩野派の主流から離れざるを得なくなった絵師だが、その作品を見ると、初期狩野派が様々な技法や画題に取り組む裾野の広い絵画動向だったことがよくわかる。
『耕作図屏風』
紙本墨画淡彩 六曲一隻 各縦一四九・二×横三三四・八センチ 千葉市美術館蔵
同拡大図
守景は金沢時代にかなりの数の『耕作図』を描いている。中国発祥の画題で、為政者が常日頃接することのない庶民の生活を身近に感じ、政治の糧にするための鑑戒図である。守景の『耕作図屏風』は元は一双(二つで対になっている作品)だったが、現在のところ左隻(半分の一作品)しか確認されていない。ただ加賀藩御用絵師の梅田家に、この作品の写しが残っている。絵を制作する際の粉本にするために模写したのだろう。また別の『耕作図』が藩主前田家の姫の嫁ぎ先に伝来している。守景は前田家とその周辺の高級武士たちのために絵を描いていたのである。
金沢時代から守景作品の特徴はより明瞭になる。展覧会のサブタイトルにもなっている「親しきものへのまなざし」が感じ取れるようになるのである。『耕作図屏風』の画題は中国であり、和様化されているが描かれている風景も人物も中国風である。しかし雨を避けて破れ傘に入ろうとする人々を見れば明らかなように、守景の人間の描き方は生き生きとしている。こういった人物の描き方は本流の狩野派の絵にはほとんど見られないものである。
よく知られているように、狩野家は東山文化を築いた室町八代将軍・足利義政の御用絵師となり、徳川の世に幕府お抱え絵師になった。織田信長や豊臣秀吉が義政の茶道具・東山御物を蒐集したことはよく知られている。政治だけでなく文化面でも室町幕府の正統後継者であることをアピールする必要があったのである。それは徳川幕府も同じだった。徳川家は室町幕府以来の絵師や職人を数多く召し抱えている。
また江戸までの日本は中国文化をその規範としていた。中国に倣うことが文化の王道だったのである。狩野派はそれを代表する絵師集団で、中国由来の唐絵を絵の基本とした。そのため中国山水画に倣って風景を描くのはもちろん、人物も中国風に描くのが常だった。それに対して『源氏物語絵巻』などの、いわゆる大和絵の伝統を継承したのが土佐派、住吉派といった絵師たちである。
守景が狩野派でありながら、土佐派や住吉派の画法をも取り入れているのは明らかである。狩野派の本流を離れたことで、より自在な表現を試みることができるようになったのかもしれない。ただ守景の土佐派や住吉派の画法の吸収は通り一辺倒のものではなかった。そこには彼独自の解釈と昇華がある。
『納涼図屏風』
国宝 紙本墨画淡彩 二曲一隻 各縦一四九・一×横一六五センチ 東京国立博物館蔵
『納涼図屏風』は守景と同時代人の木下長嘯子の戯れ歌「夕顔の咲ける軒端の下涼み男はててれ女はふたの物」を画題にしていると言われる。「ててれ」はふんどしで、「ふたの物」は腰巻きを意味する。農家のあばら屋の庭に筵を敷き、瓢箪棚の下で半裸の親子三人が夕涼みをしている。同時代の京都の画僧、古礀明誉が同じ趣向の絵を描いているので、当時しばしば取り上げられた画題のようだ。ただ明誉の作品が一種の戯絵であるのに対し、守景作品は写実的である。初期風俗画といって江戸初期には職人図などがたくさん描かれたが、庶民の日常を描いた作品は少ない。守景の『納涼図屏風』はそういう意味でも貴重である。
『納涼図屏風』はかなり大きな作品で、余白が多く左上に月が淡く描かれている。見る人に文字通り〝涼〟を感じさせるための工夫である。画題から言っても高級武士のために描かれたのではなく、裕福な町人の求めに応じて制作された作品だろう。またこの絵については瓢箪は隠棲思想を表しているのではないか、男と母子には血縁関係はなく、子どもは女の連れ子ではないかといった解釈も為されている。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。ただこの作品が見る人の〝解釈〟を誘うのは確かである。
物語の挿絵ではないから『納涼図屏風』の解釈は、絵によって喚起されながら決して一つの結論に収斂しないものにならざるを得ない。ただ様々な解釈が生まれる原因はその描き方にある。あばら屋と瓢箪棚がざっくり描かれているのは、言うまでもなく風通しの良い涼を感じさせるためである。ただそれとは対照的に三人の親子の描写は精緻だ。男は何か難しげに考え込んでいるように見える。女と子どもは涼しげな目をして、ただ夕涼みを楽しんでいる。写実的に描かれた人物たちによって、風流な月と瓢箪棚の下に、現世の人間の苦悩と生活が広がっているように見える(読める)のである。このような描き方は他の守景作品でも確認できる。
『鴨長明像』
紙本墨画淡彩 一幅 縦八六×横二三・七センチ 個人蔵
『人見四郎図』
紙本墨画淡彩 一幅 縦一一二・六×横五二センチ 神奈川・馬の博物館蔵
『薬山禅師図』
紙本墨画淡彩 一幅 縦九五・八×横二八・七センチ 個人蔵
鴨長明は鎌倉初期の歌人・随筆家で『方丈記』で知られる。当時最高の知識人の一人だったが厭世思想の持ち主で、あまり人を寄せ付けぬ狷介な性格の人だったようだ。人見四郎は『太平記』に登場する武蔵野国の老武者である。元弘の乱(後醍醐天皇による鎌倉府倒幕の乱)の折に、最初に討ち死にして後世に名を残そうとした。薬山禅師は中国唐時代の禅の高僧である。雲が切れ月が昇ったのを見て禅師が大笑した(悟りを得た)という故事を守景は絵にしている。
狩野派は中国風の唐絵の描き方を踏襲し、人物を描く時も粉本に倣った定型的表現になりがちだった。土佐・住吉派の絵師たちは人物画を得意としたが、顔の表現はいわゆる引目鉤鼻で、これも定型表現に終始した。大和絵の絵師たちは顔ではなく、着物や背景で人物の貴賎や状況を表現していたのである。
これに対して守景は、狩野派流だが明らかに人物の〝内面〟を咀嚼(理解)して絵にしている。守景と文人らとの交流はほとんど残っていないが、彼が和漢の書に通じた知識人だったからそれができたのだろう。同時代に存在した絵の描き方(流派)にきっちりと沿いながら、人物の内面表現――つまり守景自身の内面を絵で表現したのである。それが狩野派本流を離れた群小画家の一人でありながら、守景の画業が今日非常に高く評価されている理由である。
『都鳥図』
紙本墨画淡彩 一幅 縦八六×横二八・四センチ 個人蔵
『都鳥図』は単に都鳥(ユリカモメ)を写生した作品ではない。当時の文脈から言って、『伊勢物語』第九段東下りの和歌「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」を踏まえている。身を用なきものと思いなして東(関東)に下った在原業平が、隅田川あたりで都に残した女性を思って詠んだ歌である。つまり『都鳥図』には守景の『伊勢物語』(業平の心情)の解釈が反映されている。はかなげで淡い都鳥の描き方は、業平の思いがもう遠い過去の叶わぬ思慕になっていることを示唆している。
もし守景に「あなたの代表作は?」と聞いたら、彼は加賀藩御用絵師時代に描いた大作の『四季山水図』や京で貴顕のために描いた『鷹狩図屏風』などをあげるかもしれない。しかしいつの時代でも画家の代表作が、時間と労力をかけた作品になるとは限らない。気楽に描いた作品が代表作と認知されることも多い。守景の場合もそうである。『納涼図屏風』が代表作になっていると知ったら彼は驚くだろう。しかし思い当たる節もあるはずである。
画家は思想家ではない。画家の内面に渦巻く感情や思考が長年の習練により、筆の先から無意識的に溢れ出た作品が傑作になる。また長い時間をかけてでも、後世の人間は必ずそのような優れた表現を見抜く。凡百の駄作とほんの一握りの傑作を的確に見分けるのである。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■