新宿梁山泊『少女仮面』
於:ザ・スズナリ
鑑賞日:2015年10月7日
作:唐十郎
演出:金守珍
出演:
李麗仙
金守珍
三浦伸子
渡会久美子
広島光
小林由尚
申大樹
島本和人
加藤亮介
松山愛佳
鴨鈴女
照明 泉次雄+ライズ
美術 宇野亜喜良
舞台装置 大塚聡+百八竜
劇中歌作曲 小室等、大貫誉
音響 N-TONE
振付 大川妙子
殺陣 佐藤正行
美術助手 野村直子
宣伝美術 宇野亜喜良 / 福田真一
主催 新宿梁山泊
制作協力 J・S・K
1969年に鈴木忠志演出の早稲田小劇場公演のために書き下ろされた本作が、作者・唐十郎の主催する状況劇場で初演されたのが1971年。往年の宝塚トップスター春日野八千代役を演じたのが李麗仙だった。劇世界の舞台である1969年の地下喫茶店「肉体」は、宝塚の重役となっていた彼女の経営する隠れ家である。実在の春日野八千代は1915年生まれであるから、このとき54歳か。しかし劇世界で春日野が独白する満州平原の追憶には「頃は昭和十六年二月、あたしは十九、皆から才能をねたまれながら、満州で一人、ゾースイを食べていたの」とあるから、劇中では48か49だ。ちょうど女性の一般的な閉経時期と年齢が重なるのは、経血が重要なモチーフである劇のテーマに照らして意味深長である。そして李麗仙は、初演時27歳、2015年現在は73歳。
女優の年齢についてあれこれと無遠慮に述べ立てるのは、本作においてどうしようもなく現前化されるものが「老い」そのものであるからだ。一回性の上演においては、俳優の実年齢などはほんとうはどうでもいい問題のはずだ。観客が幻視したものが老婆であれば、それを演じたものが老いた俳優であろうが若い新人俳優であろうがかまわない、演じたものと演じるものの年齢差などは俳優や美術スタッフの技量を測る以上のものではないだろう。しかし老いた李麗仙の演じる春日野は明らかに老いていた。戯曲と同じ台詞が淀みなくほとばしるなかにも、その歯切れ、呼気に老いが混じる。役者とともに役が老いる。これは演技術とは範疇を異にする問題であり、またキャスティングの功罪でもない。唐十郎の提唱した「特権的肉体」の範疇にある問題である。
唐の言う「特権的肉体」とは、俳優の肉体を演劇の「下部構造」とした戯曲の受肉のシステムであるが、戯曲の要請に従って俳優の肉体を変形することを良しとしない。
役者というものはけっして、その五体を作家及び作品に奉仕しはしません。
作品を自分の生きながらえる術として、常に盗んでゆく存在なのです。
(唐十郎『特権的肉体論』p.44)
俳優の肉体はもはや変形も彫塑もできない一個の「瘤」のような素材として捉えられる。彼らの肉体は、社会生活や時代の遷移や性癖などで、すでにぎゅうぎゅうに変形されている。各人の、のっぴきならない来歴によって矯められた肉体は、それに見合った役を着せられるためにあるのではなく、むしろ役をその肌の裏側に閉じ込めようとして、役と衝突するようなエネルギーの形態であろう。そしてそのような正面衝突に後ろから光を当てて観客の待つ舞台幕に映し出した影法師、それが「特権的肉体」なのだという。
特権的肉体という劇的なイリュージョンは、即、時代的肉体の影法師をかい間見せる筈だ。劇的な想像力は、このように肉体を通しての現前化という回路をもたなければ、可視的に形象されることはない。
(同 p.32)
「特権的肉体」はすなわち観客の幻視のなかではじめて可視的に生じ、しかもそれは一人の観客、一人の俳優、一つの役の出会う交差線上で明滅するものである。ここで三人を三つの言語に置き換えてもいいだろう。役は書かれた言語である、俳優は語る言語となる。観客は聞き取る言語か。それぞれが別言語、のっぴきならないコンテクストを内包する。ある種の翻訳(摩擦)を持って「特権的肉体」は語られ、聞き取られる。
したがって、李麗仙の「老い」は「特権的肉体」のシステムにあっては、役を合わせる理由にも役に合わせる理由にもならない。李麗仙とともに劇中50歳前後の春日野の「特権的肉体」もまた老いるのである。老いずにあるのは書かれた春日野の言語ばかりか。書かれた言語と、語る言語のギャップをさらけ出したまま、李麗仙は着実に精確に春日野八千代を演じる。観客の目にはそのギャップがまるで焦点ブレのように像を結ばない瞬間もあっただろう。それでも全体において、春日野八千代は舞台上に現前した。
劇中の春日野の苦しみは、自分の青春を捧げ、そして奪われた宝塚の「永遠の処女」の舞台の幻と、舞台の外では満たされることのない肉体とのギャップにあった。春日野が「観客に奪われてしまった」と怨んでいる、青春を謳歌したはずの肉体の象徴が経血だった。男役の「特権的肉体」は純白の衣装に身を包んで、経血の赤黒い汚れなどは言語道断である。舞台上の幻を生き長らえさせるためだけに肉体を奉仕した春日野は、満州で出会った甘粕大尉への慕情を追憶に変え、大尉に捧げる肉体を失ってしまったがために、愛の亡霊へと変化した。終盤、春日野に肉体を返しにやってきた熱烈なファンである三人のお皿娘たちが、彼女から奪っていったものを差し出す。幻視した春日野八千代の姿を思い出す機縁となったであろう衣装の切れ端や風呂の残り毛。残酷な思い違いに、春日野は絶望する。「あたしはもう何でもないんだ」という最後の台詞を残し、終幕。
春日野八千代の失われた肉体は、地下室という舞台空間によっても暗示されている。もともとは戦中の防空壕だったという地下喫茶店「肉体」では、ボーイが「給仕する靴」となってタップダンスを踊り、春日野の入浴する処女の涙を沸かした風呂が用意され、その風呂の蓋の上が宝塚の由緒正しい舞台となる。この地下室は、春日野八千代が「特権的肉体」として生き永らえるための舞台空間であり、最後の逃避先とも言える。かつては戦火が地上の幾多の肉体を焼き滅ぼした。いままたボーイ主任の手で地上の地下鉄工事の現場が火の海となっている。この地下室の存続がこれ以上望めないところにきていることを、観客は知ることとなる。両肩が隣とひっつくほどの満席だったスズナリは、観客席まで含めて防空壕内部の美術が凝らされていた。この防空壕が決壊した日には、舞台もろとも春日野八千代という「特権的肉体」もまた消滅するのだろう。「あたしはもう何でもないんだ」とは舞台を去るものの言葉である。彼女を舞台から追い立てるものは「老い」である。
李麗仙の老いた肉体が生み出した春日野八千代は、戯曲に書かれた「老い」といまそれを語る言語の「老い」の、二重の時間を受肉化する。観客が目撃するのは、「老い」と「老い」の間に横たわり、春日野八千代の亡霊が彷徨していた丑三つ時の現前である。唐十郎に倣ってそれを時間の影法師と呼ぶならば、時間の肉体にあたるものは、李麗仙の状況劇場での初演から本公演に至るまでの個人史となる。スズナリの観客席には、年配の観客の姿も数多くあった。71年の公演を目撃した人もあったであろう。しかしその人の目を持って現前するのもまた、春日野八千代の二重の「老い」であったことだろう。つまり「特権的肉体」のシステムは健全に働いていたのである。
「老い」に対して、松山愛佳演じる緑丘貝の「若さ」はいっそう鮮やかに、残酷になる。春日野が『嵐ヶ丘』のキャサリンを幻視した少女は、春日野の「老い」の苦悩にその誤りを突きつける。三人のお皿娘たちは防空頭巾の下に春日野八千代の貌を模したマスクをつけていた。「春日野、ほら、見てごらん。とうとう自分の貌を見つけたじゃないの」貝の最後の台詞は、本作において「若さ」が「老い」に下した勝利の言葉となった。宝塚スターを夢見る少女に過ぎなかった貝のほうが、あるいはその観客性によって、「特権的肉体」が幻であることを心得ているのである。
春日野 そのドレス、ぬれて冷たいだろう? ぬぎたまえ。
貝 でも、ぬぐと、あたし、キャサリンでなくなっちまうわ。
(唐十郎『少女仮面:唐十郎全作品集 第2巻』pp.27-8)
春日野の亡霊の彷徨する「老い」の現前に、貝の「若さ」は終始観客の立場を取る。春日野が甘粕大尉の幻想を相手に汚物缶を振り回すときの足運びの「老い」。あるいはそれは春日野登場の場面から書き込まれていたのかもしれない。そこには次のようなト書きが付されている。
永遠の処女春日野はどこかを病んでいるふうに吐気を催す程ゆっくり歩いてくる。(中略)この間、絶対に貝を見ない。
(同 p.19)
宝塚の重役となったいまでも私設の地下舞台でヒースクリッフを演じなければ生きられない哀れさを踏みしめる、このゆっくりとした歩みの幾度繰り返されたかしれない「老い」を、貝が観客として目撃する。だからこそ貝は「老い」を憐れみ、「老い」に勝利する。春日野の「老い」が永遠の処女として永遠の観客を求め、そして恨んだ時間ならば、観客である者にはまるで縁のない「老い」なのだ。春日野に突きつけられたマスクはお皿娘の眼に見られた自分の貌だった。彼女らが目に焼き付けたのはその「特権的肉体」、一回生の受肉、影法師だけである。観客には俳優の肉体など見えない。俳優もまた、観客に肉体を見せる術はない。
しかし、李麗仙がやって見せたように、書かれた言語と語る言語のギャップをさらけ出す「特権的肉体」の現前によって、俳優の「老い」が現前化されることがある。それによって、春日野八千代は、戯曲誕生以来はじめて年を取ったとも言えるだろうか。あるいは「俳優が作品を奪い取る」という通り、俳優によって春日野八千代は奪い取られてしまったのであろうか。少なくとも、スズナリに詰めかけた満員の観客が目撃した「老い」が、俳優の肉体の回路を通して変形した幻であったことは疑いようがない。俳優に直接触れ合うよりもはるかに強烈なコミュニケーションである。俳優の個人史を、登場の足取りだけで語り尽くしたぐらいに。そして自分自身の過去の上演も含めた他所の『少女仮面』を思い浮かべることもできないところまで、観客の眼を奪いさってしまったこともたしかであろう。そこは書かれた言語、語る言語、聞き取る言語が出会う「老い」の深みであった。春日野の絶望はこの深みまで落ちてくる。その深度はおそらく過去のどの春日野八千代よりも深い。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■