「月刊俳句界」四月号では磯貝碧蹄館の特集が組まれていて、これが面白かった。碧蹄館は大正十三年(一九二四年)に東京巣鴨で生まれた。晩年まで巣鴨で暮らしたようだ。平成二十五年(二〇一三年)に八十九歳で没したが、俳人・書家として知られる。碧蹄館門弟の朝吹英和さんは、「二十三歳の頃、風呂敷に包んだ二千六百句を携えて川柳大会に参加し(中略)川柳界を驚かせた碧蹄館は、同時期に感動主俳句の萩原蘿月、内田南草両氏に師事して自由律の俳句を始めたものの、より内なるものを追究する俳句に憧れ、二十八歳の時(中村)草田男の「萬緑」に入会した」と書いておられる。なお書の師は金子鷗亭である。
南瓜煮てやろ泣く子へ父の拳やろ
秋刀魚一匹二匹三匹ぼくの空
白くなりたい石の願望雪降れり
一人樂隊噴水の穂を愛しけり
愛は楕圓に秋の女と飛行船
啜り泣く浅利のために燈を消せよ
一人だけ死ぬ冬空の觀覧車
羨道や鰾膠なき水の時間かな
克明に撃たるる兵ら麥の秋
ガラス箱の中に尼僧と曼珠沙華
三月の犀を石切場に放つ
ただ一枚の玉音盤に蟲集く
死者へ炊く飯は雪より白く炊く
特集に掲載された「磯貝碧蹄館*句セレクション」から十三句抄出した。自在な詠みぶりで、川柳や自由律俳句を学んだ形跡が俳句にも見てとれる。ただ写生的に生活実感を詠んだ句は意外に少ない。現実世界の具体物は碧蹄館の自我意識のフィルターを通って観念の世界の抽象的物体になる。つまり碧蹄館という俳人が抱いていた観念の強度が試されるような書き方をしているのだが、ではその観念はというと、なんともおぼつかない。ただその孤独でいて、一方で人なつっこいような碧蹄館の観念世界が、希薄であることが魅力の「死者へ炊く飯は雪より白く炊く」といった秀句を生んでいる。
碧蹄館の俳句は自由ということについて考えさせられる。政治体制に抑圧された状態は別として、自由主義世界での人間の自由はもちろん相対的なものである。なんでも自分勝手にできる自由など存在しない。人間は大人になるにつれて、自らの意志で自由の可能性を狭めてゆく。それによって広い社会の中では点のような領域で、自由に活動できる場を得るのである。その場所を失えば途端に人間は不自由になる。自分とは縁遠かった思考と技術を持った人々に囲まれて、激しい疎外感を味わいながら、一から自由を獲得してゆかなければならない。
門弟の朝吹英和さんによれば、昭和四十二年に碧蹄館が第六回俳人協会賞を受賞した際に、祝辞に立った師の中村草田男は「碧蹄館は、わ~たしの息子で~す」と言ったそうだ。しかし翌四十三年に碧蹄館が「碧蹄館個人誌」を発行したいと草田男に願い出たところ、「やるのは勝手だが萬緑(草田男主宰誌)としてはそういうものはやってもらいたくない」「やるなら萬緑をやめるしかない」と拒絶されたのだという。草田男は息子の自立を許すことができなかったようだ。これは草田男の狭量を示す出来事というよりは、碧蹄館の甘さ、甘えを示しているだろう。
草田男は「降る雪や明治は遠くなりにけり」で知られる優れた俳人だが、現代俳句協会幹事長時代に権力闘争となり、新たに俳人協会を設立して初代会長になった人である。草田男は碧蹄館よりも俳壇を良く知っていた。碧蹄館が「萬緑」に残ったとしても、草田男が彼を後継者に指名したとは考えにくい。「萬緑」の俳風の幅広さを誇示するための異彩の息子として遇したのではないかと思う。
俳壇はモノポリー・ゲームの世界である。言うまでもなくMonopolyは〝独占〟の意味で、大結社が新聞・テレビ・俳句雑誌の投稿欄選者などはもちろん、俳句界の主立った賞を支配している。それはもはや揺るがしがたいほど強力にできあがってしまったシステムである。このシステムに意義を唱える者は結社を作り、それを大結社にまで育て、やがて前任者と同じ権力システムを継承してゆくことになる。俳壇外の人間は、小説家や詩人を含めて、俳壇がそういった力学で動いていることをほとんど知らない。また俳壇内で「馬鹿げている」と声を荒げても、それはすぐに権力者たちの沈黙の中に消えてゆく。「俳壇の現実を直視せよ。それは当面、もしかすると未来永劫変わらない」ということである。では碧蹄館は何を求めて主宰誌「握手」を創刊したのだろうか。
句誌「握手」の標旗は「愛・夢・笑い」である。碧蹄館は門弟に「自己の根底に哲学・思想を持て」、「魂を串刺しにして遊ぶ」、「季語が一句の中で生命を持っているか」、「独善を排し、対象とその向こうに存在するものを追究する」といった自己の俳句観を語ったようである。いずれも抽象的な物言いである。どういう哲学・思想なのか、魂を串刺しにする方法は何かといった具体的指示はないだろう。それは一人一人が勘考えるべき事柄であって、碧蹄館の俳句観はやはり「愛・夢・笑い」に尽きる。ストレートに言えばその甘さが碧蹄館俳句の魅力であり、その人間的魅力であったのではないかと思う。
碧蹄館の俳句を読めばわかるように、その作風は抽象的である。ほとんど結社ごとの秘伝のようにして守られている、些細な季語や切れ字や写生の法則は存在しないということだ。碧蹄館の俳風では俳句添削はほぼ不可能である。作品を読む限り観念的中心も指摘しがたい。「克明に撃たるる兵ら麥の秋」は反戦句として読むこともできるが、それは「一人だけ死ぬ冬空の觀覧車」の孤独により近い。
碧蹄館の俳句にあるのは、ほんわかとしてとらえどころがない、だがヒューマニスティックな「愛・夢・笑い」である。ただ息苦しい俳句界の中で、碧蹄館的な自由の在り方は貴重である。それを主張し自己の考えを実現できる自由な場を持てたのは、やはり碧蹄館の俳人としての実力だと思う。
昭和四十九年三月「握手」を創刊
一誌百人手は握るべく春の雪
鐵骨を組む白桃の内部かな
死者の語を積み重ねては今日の月
泉を一枚剝がして歸る此岸かな
外套を脱ぐバルザック富士が立つ
筆にたつぷり墨つけてから天の川
碧蹄館は百人くらいの賛同者がいれば良いと考えていたようだ。「鐵骨を組む白桃の内部かな」「外套を脱ぐバルザック富士が立つ」は意味的にはわかったようなわからない句で、評釈しろと言われたら困ってしまうが、それが碧蹄館の魅力だろう。碧蹄館の俳句は、言葉の面白さを求めて表層的な表現をするりと通り抜けてゆく。宵越しの金は残さず、恋情はあっても執着はない江戸っ子の俳句かもしれない。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■