男性と女性の違いについては論じ始めるときりがないところがある。一番大きな違いは女性は子供を産むことができる点だろう。それに沿って、長い時間をかけて男女の社会的役割分担が作り上げられてきた。いわゆる男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくというヤツである。しかし社会構造が変わればそういった役割分担は変容するのであり、実際変わりつつある。
ただ小説の世界では、そういった生物学的、社会学的差異をひっくるめた「男性性」と「女性性」が大きな役割を果たしている。それは小説が現実には簡単に解消できない現世の矛盾や葛藤を描く芸術だからだが、その場合、むしろステレオタイプな男性や女性を登場させた方が作品は書きやすい。現実社会はいまだ厳然たる男社会だが、その足元をすくうような力を女性登場人物に担わせる方が効果的なのである。男なら容易に近づけないような社会的地位ある男の懐に、すっと若い女が入り込んで掻き回といったストーリーが典型的である。大衆小説でしばしば使われる手法である。
しかし内面描写中心の私小説を規範とする「文學界」などの純文学誌では、男性性と女性性の扱いが微妙に異なっている。生物学・社会学的な男女差を援用するのはもちろんだが、それを通過した個の内面にまで達しなければ私小説にならないのである。この内面探求を徹底すれば、少なくとも社会学的な男女差は霧散するはずである。あるいはその逆に、言葉がなければわたしたちの内面は存在せず社会も存在しないように、人為的コードであるはずの生物学・社会学的な男女差と人間の内面の癒着が露わになるのである。
「わたくし、こまどり会から参りました。突然の訪問をどうぞお許しください。
深々と頭をさげた。(中略)
わたくしどもが行うのは、妊娠を望む女性の卵巣から卵子を取りだし、それを、抱卵をうけおうべつの女性の卵巣に移し、そこで成熟をうながすという手法でございます。これは産婦人科学会などで公式に承認されておりません。社会的に認知もされておりません。(中略)
酒匂さん、数ヶ月前に、お母様と一緒に産婦人科を訪れましたでしょう。(中略)あなたがまれにみる卵巣の持ち主であること、見事なまでに抱卵に適しておいでのこと、そのときに判明いたしました。(中略)
抱卵の仕事を引き受けてくださる際に、ひとつだけ条件がございます。
抱卵期間中は、ひととの交渉を一切断ち、できうるかぎり無言を通していただきたい、ということです。(中略)
抱卵は十月十日かかります。酒匂さん、そのあいだ一言も発さず、他人の卵のため、徹底的に沈黙を守っていただけないでしょうか?
(『抱卵期』栗田有起)
『抱卵期』の主人公は酒匂蔦子で、物語冒頭では十七歳の高校三年生で受験目前である。蔦子は学校帰りに見知らぬ女性に呼び止められる。「こまどり会」から来た四辺という名の女性である。こまどり会は不妊に悩む女性の救済事業を行っている。不妊女性の卵子を取りだし、それを抱卵に適した女性の卵巣に移して十月十日、卵子の成熟をうながすのである。医学界では承認されていないが、この方法が不妊女性の最後の頼みの綱らしい。秘かなルートから蔦子の卵巣が抱卵に適しているとわかったので、四辺は抱卵者になって不妊女性を救ってほしいと頼みに来たのだった。
四辺の話しは一応聞いたが、受験で頭がいっぱいの蔦子はそれどころではなかった。G学院合格を目指して勉強に熱を入れた。しかし試験の手応えはかんばしくない。受験に失敗したのはほぼ確実だった。蔦子は絶望感にとらわれる。その時、「酒匂さん、選ばれし卵巣をお持ちの酒匂蔦子さん」という四辺の声が蘇る。「灰色の雲間からわずかに光が射し、枯れ葉が足元でのたうちまわった」とある。蔦子は家族宛てに「大学へ行くよりもやらなくてはいけないことができました。わがままをお許しください」という手紙を書き蒸発してしまう。四辺の元で抱卵者の仕事をすることを決意したのだった。
さしてもののない部屋は、照明を落とすとますますそっけなく感じられる。壁も天井も、私がここにいないものとみなしているのではないか。私はこの部屋に守られている気がしない。他人を遠ざけて暮らしていると、住んでいる部屋からも干渉されなくなるのかもしれない。
そしてそれは、まさしく望むところだった。頭のさきから手足の爪先、さらには魂のはてまでも、何にも感知されず関係されず、まるで自分が消えてしまったかのような感覚は抱卵の仕事をはじめてから覚えたもので、快楽にちがいなかった。
私のものでない卵。私のものでない物欲。部屋も夜の闇も私から遠く離れている。
(同)
四辺が言ったように抱卵にはルールがあった。卵子は母親の卵巣にある時から父母や近親者の影響を受けるのだという。だから抱卵者は自分の影響を与えないように暮らして卵子を元の母親に戻してやらなければならない。四辺はできるだけ静かにしていればいいと言ったが、蔦子はストイックなまでにルールを決めて静かな生活を送った。抱卵中は誰とも顔を合わせず独り言すら発しなかった。毎日判で押したような規則正しい生活を送った。ときおり強烈な物欲に襲われることがあったが、蔦子はやがてそれが自分のものでなく、卵巣に預かっている卵子が発しているのだと気づいた。出卵するときれいさっぱり物欲が消え失せてしまうからだ。
自分自身の欲望を持たず、四辺しか居場所を知らない蔦子は社会的には存在しないも同然である。しかし「まるで自分が消えてしまったかのような感覚は抱卵の仕事をはじめてから覚えたもので、快楽にちがいなかった」とあるように、それが蔦子の望みなのだ。そういう意味で『抱卵期』は一種の絶望小説である。また蔦子が自殺などに走らないのは、抱卵者としてわずかに社会とつながっているからである。それは人助けのための仕事だが、次のステップでは子供を産むとはどういうことであるかが問われる。
短大を卒業してすぐに結婚した。相手はお金持ちだし、ほかにやりたいことはないし、なんでもよかった。家を出てしまいたかったし。私はもう、この人生をあきらめたんだよ。ぜんぶばかばかしくって。生きるってうんこだよ。
だけどずっとすねていられないほど、旦那とその両親がいいひとたちだったの。(中略)私も彼らのために、前向きに生きるふりをしてみようかなと思うようになったの。私、けっこう悪い人間じゃないし、何をやったってどうせ、死ぬまでの時間つぶしに変わりはない。
ただし、私の根の根はとうに死んでしまったのかも。いつもやっぱり、どうでもいい、って思うもの。私の大事なものは、ずっと踏みつけられたままな気がする。
子供を産んだら、変わるんだろうか。価値観ががらりとかわって、希望にあふれ、きらきら輝く人生を送るようになるんだろうか。もう何も欲しいものはない。何を持ってても私は幸せを感じない。子供だって、本当に欲しいんだか、どうだか」
(同)
気がつくと十年が経っていた。十一個目の卵子を預かった蔦子は、下腹部に今までにない違和感を覚えた。その矢先、マスクで顔を隠した若い女性がアパートを訪ねてきた。妹の花梨で、不妊に悩む彼女はこまどり会を通じて抱卵を依頼し、なにかのきっかけで実の姉が抱卵者であることを知ったのだった。十年ぶりに再開した花梨は姉を抱きしめ、「勘違いしないでよね。この何倍も恨んでるよ」と言ったが、それ以上蔦子を責めなかった。花梨は夫との間に子供をもうけることがなによりも重要だったのである。
ただ花梨もまた蔦子と同様に絶望の人である。「生きるってうんこだよ」、「何をやったってどうせ、死ぬまでの時間つぶしに変わりはない」と言う。蔦子が抱卵者の仕事で生を支えているように、花梨の生きる目的もまた夫とその両親のために子供を作ることにある。預けた卵子を見守るために花梨は平日は毎日蔦子の部屋を訪れるようになる。土曜日には別の女が部屋に来た。蔦子は寝たふりをしていたが母親だった。母は台所で料理を作りながら、「抱卵中ってさ(中略)たったひとりで革命起こしてる気分だったね。血筋とか親子愛とか、母性とか、くそくらえって感じで。爽快だったな。あんたたち妊娠してるときはつわりとか腰痛とか大変で、まさに天国と地獄。なんでふたりも産んだんだろ」と呟く。母もまたかつて抱卵者の仕事をしていたのであり、姉妹と同様に絶望を抱えた人である。
『抱卵期』は男が登場しない小説である。蔦子らの父親は健在だが姿を現さない。花梨の夫も同様である。蔦子はこまどり会の四辺から、セックスが抱卵者の身体にいい影響を与えると聞き、十九歳の時に自分から男を誘った。愛の喜びも性の快楽もない「ホルモン調節」のためのセックスだった。中には蔦子に執着する男もいた。「彼らはさびしいだけなのだ。もしかしたら、あわれまれているのは私のほうかもしれないが」とある。
異性との愛や性、温かい家庭への欲求はもちろん、物欲すらない蔦子は生きる喜びとは無縁の憐れむべき人間だろう。ただそのほぼ純粋な絶望は母と二人の娘たちの間で共有されている。またこの作品では出産にまつわる母性愛のコードが剥ぎ取られている。蔦子が十月十日抱卵するということは、生物学的な事実は別として、女だけによる単純生殖を示唆している。抱卵は女たちのためにあり、それゆえ蔦子ら母子の絶望は女性たちすべてのものである。女性性の最後の拠り所である妊娠がいわば脱構築されているのだ。それが女性作家によって為されたことには一定の意味がある。
私は今、とってもしあわせです。(中略)
でもね、考えちゃうんです。(中略)
日中ブラ~っとしていながら(あ、家事はいちおうやってます)、
欲しいものぜんぶダンナさんのお給料に頼るのって、どうなんだろう?(中略)
それで、ダンナさんとも話をして、
結論、ペロンピ、外でお仕事はじめようと思っています。(中略)
ブランクがあるし、すっごく緊張してしまうけど、
まずは一歩踏みださなくちゃ。
たとえアリンコみたいにちいちゃい一歩だとしても。
(同)
蔦子は抱卵中にペロンピという名前でブログを始めていた。二十八歳の専業主婦という設定だが内容はすべてフィクションである。女性作家が妊娠・出産を巡る特権的とも言えるコードを手放せば、それは漠然と存在する社会的・生物学的要請に過ぎなくなる。妊娠・出産は誰かの、あるいは社会のためにその役割を果たすだけの絶望的行為かもしれない。だが同時に蔦子を始めとする『抱卵期』の女性たちは、妊娠・出産を拠り所に絶望の底に達するのをこらえている。ならばペロンピの「ちいちゃい一歩」は、表向きの言葉とは裏腹に、本質的にはさらなる絶望を確認するためのものだろう。この先にさらなる「一歩」があるのかどうか、とても興味がある。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■