三崎亜記の新連載「メビウス・ファクトリー」は、まずチェックされる。今回はタイトルからしても人名なども、SF色が明白だ。つまりそれはカタカナだ、ということなのだが。そのカタカナの持つ一種のそらぞらしさを SFらしさと感じてしまうところが、このジャンルの難しさだろう。
SF作家と呼ばれる人たちの闘いは、それを排除することではなくて、消化して血肉にしてしまうことかもしれない。三崎亜記はそのことを意識的に、しかも高い確率で失敗することなく達成できている有数の書き手だと思われる。それを意識することはしかしプロとして、あるいはプロを目指して書くことに向えば、比較的誰でも可能なことではあるだろうが。
問題はその消化のしかたで、たいていはある種のあざとさが目につく。SFらしいそらぞらしさを逆手にとる、という戦略になってしまうのだ。それは最低限の知性をアピールする結果にはなるが、あくまで最低限でしかない。それが最低限であるとき、ないのと同様なのは言うまでもない。
我々の感覚は、日常的な温度や匂いに対するのと同じく、テキストに対しても鋭敏であり、そのリクワイヤメントはみるみる切り上がってゆく、ということなのだ。そらぞらしい異物を排除することなく、我々の心地よい環境に消化吸収する。その器官たるべき作家の知性は常にバージョンアップを求められるが、もとよりそれに耐えるモデルとそうでないモデルがあるわけだ。
異物を消化吸収する器官として優れているのは、まず対象の異物を知覚する能力が高いものだろう。何が我々にとって異和なのか。日常の、あるいは制度のコードを当てはめて平気でいるといった鈍さを知力や社会性、経験値と考えるのは作家の自由だが、魅力のあるなしを決めるのは読者だ。
三崎亜記のテキストの魅力は、そういったコードから微妙にズレているところにある。コードの存在を知覚していないわけではない。その存在の知覚をもって知性とすることをしない。それは書くことではないからだ。三崎亜記の消化吸収器官は、我々にとっての異物を、そしてそれを見えなくさせるコードそのものをも咀嚼するが、その消化液は “ 現実感 ” と呼ぶべきものだ。
名付けようのないものこそが現実であり、それと同じ手触りで異和を描いてゆくこと。現実が異和を溶かし、吸収するまでそうやって待つしかない。読書とは本来、そういう時間なのであり、読書の時間が終わって現実に立ち返る、というつかの間のエンタテイメントは虚しい時間潰しだ。テキストによってわずかだが、確かに現実が変容していなくてはならない。
三崎亜記の描く “ 組織 ” は、だから最もチャレンジングなものだ。それはまさに現実にもつかみどころがない。そしてそれ自体、現実を変容させる装置だ。社会性のコードを注意深く避けながら、組織というものを消化吸収すること。それが三崎亜記に課されたテーマだと思われる。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■