鶴山裕司さんの荒木経惟論『【荒木経惟論 2】 猥褻と無』をアップしましたぁ。前から荒木さんの写真がお好きだったとはいえ、「荒木論書いてちょ」、「あいよ」でぱっと25枚×2回の評論を書いてしまえるから鶴山さんは重宝なんだなぁ。ま、書いてれば幸せ~の典型的な物書きさんなので、こりからもじゃんじゃか書いていただこうと思いまふ(爆)。鶴山さんは、
写真が・・・絵画や彫刻と同じアート作品として扱われるようになったのはそう昔のことではない。またその動きは欧米の美術市場から始まった。そのような作品として、アンセル・アダムス・・・らの作品がすぐに思い浮かぶ。・・・そこには神の視線を我が物にしようとする欧米文化の伝統が息づいている。しかし荒木の写真は違う。・・・荒木作品はどこまで行っても〝写真〟である。荒木には写真を思想表現の道具に使う姿勢が一切ない。・・・常に写真に基づいている荒木の思想は写真そのものの思想である。彼の芸術にはほぼ全ての写真の可能性が表現されている。
と批評しておられます。鶴山さんの批評を読むと、荒木論が書きにくい理由も、荒木芸術が日本より欧米で評価されている理由もよくわかります。荒木芸術は欧米美学・哲学を主軸とする従来の美術批評メソッドでは読み解けないわけです。しかし東洋哲学を西洋哲学(美学)と同質の汎用的な知の基盤にできる文学者は少ない。鶴山さんはあっさりそれをやっておられますね。じっくり読んでお楽しみください。
■ 鶴山裕司 荒木経惟論 『【荒木経惟論 2】 猥褻と無』 ■