他の文芸誌でも行われていることだが、「文學界」でも外国文学を定期的に紹介している。日本に限らず世界中のあらゆる文化が、外国から到来した未知の文化によって新たな可能性を見出してきた。ただそれには疎密がある。ある文化共同体では時には数十年、数百年も外来文化の洗礼を受けない時代があり、それが一種の〝国風文化〟を生み出すと同時に、急激に外来文化が流入した際に大きな社会的混乱を引き起こしてきた。外国に飲みこまれて植民地化されることもあった。そんな場合でも底辺には固有の国風文化が残るのが普通であり、それが外国文学を読む際の醍醐味になっている。
ただ二十世紀後半に始まった高度情報化社会以降では状況が大きく変わっている。外国の動向は瞬時に、しかも極めて正確に伝達される。マスメディアが流すニュースは部分に過ぎず、情報収集のための方策はネット上にいくらでもある。二十世紀半ば頃までは、外来文化の衝撃によって創出される新たな可能性は、幸福な誤解に基づいていることが多った。しかしあえて誤解・誤読しようとしない限り、現代の高度情報化社会では幸福な夢を見ることができない。特に先進国同志の場合、それぞれの文化の微細な差異を読み取ることが外国文学受容の面白さになっている。
南極には、身元確認のできるものはなかった。何も残っていなかったからだ。(中略)弟の名残りといえば、ステンレスの腕時計だけだった。(中略)救助隊は誰のものかわからない脛骨を一本見つけていた。弟の骨かもしれないし、別人のものかもしれない。ベルグラーノ第二基地の冷え切った窓のない部屋で、私はそう説明を受けた。(中略)ブラジル基地の主任研究員だったルイス・カルドーソは、骨について話しながら私の肩に触れた。その情報が心の慰めになるとでも思っているようだった。
(ローラ・ヴァンデンバーグ 藤井光訳「南極」)
訳者・藤井光氏の解説によると、ローラ・ヴァンデンバーグは二〇〇九年にデビューしたアメリカの新鋭作家である。「南極」は地震学者の弟が事故死したという報せを受け、姉の私が南極に駆けつけるというプロットである。氷に閉ざされた南極が舞台であるのは意図的だ。引用は作品冒頭だが、「身元確認のできるものはなかった。何も残っていなかった」とあるように、この作品はある虚無を描いている。また「救助隊は誰のものかわからない脛骨を一本見つけていた。弟の骨かもしれないし、別人のものかもしれない」という記述は、謎はあるがそれは決して解くことができないものであることを示唆している。
アメリカはその建国理念である自由・平等を世界中に発信し、それがもたらす明るい社会を喧伝している。また実際アメリカはとてつもなく豊かな国である。一般庶民の暮らしは日本の平均的家庭とあまり変わらないが、富裕層が独占している富は他の国々とは比較にならないほど莫大だ。スポーツ選手の年俸などを見ても、アメリカの富裕層が動かすことのできる富の大きさがわかるだろう。その豪奢な生活ぶりが、良くも悪くもアメリカのイメージを形作っている。
しかしアメリカ文学は、ほとんど伝統的に恐ろしく暗い。アメリカ人のパブリック・イメージは社交的で明るいものだが、ある調査では半数近くの国民が自分は内向的人間だと答えているのだという。ハリウッド映画やポップ・ミュージックからはうかがい知れない、内面に沈み込むような暗さがアメリカ文学の基層を為している。その暗さは、ときおり日本の私小説にも通じるような側面を見せる。
それは見知らぬ男だった。(中略)叫んだり飛び出そうとしたり、妙な真似をしたら心臓を刺すからな、と彼は言った。車はアクトンに入り、舗装のない道路沿いの小さな家に着き、彼女はそこで三日間を過ごした。(中略)
イヴがその男の行方を見失ったというのは嘘だった。コンコードにいるいとこの一人が弁護士補助員をしていて、探偵に連絡を取れたから、その助けを借りて、彼女はしっかりと男の消息を追っていた。(中略)
「彼は病院にいる」とイヴは言った。「ケープコッドの。退院できないかもしれない。肺の病気よ」(中略)
「それで」(中略)
「それで、彼に会いたいのよ」
「イヴ、会っていいことは何もないでしょう」
「たぶんね」彼女は紅茶に息を吹きかけた。(中略)
「五分経っても出てこなかったのはなぜ?」(中略)
「話をしてたのよ」(中略)
「じゃあ、彼は目を覚ましたの?」
「そうよ」と彼女は言った。「意識を取り戻して、それからまた失った」(中略)
ケンブリッジに入ると、彼女はレパートリー・シアターで降ろしてほしいと言った。リハーサルには出られないと監督に言わなければならないから。家には早めに戻る、と彼女は約束した。(中略)
でも違った。すべては狂ってしまった。イヴは監督に話をしなかった。家にも戻ってこなかった。
(同)
私は弟とそれなりに仲の良い姉弟で、学生でお金がないこともあり一緒に暮らしていた。広い家で、弟がイヴという演劇専攻の女優と結婚することになった時も弟夫婦と同居した。弟が研究に没頭するタイプだったので、私はイヴと急速に仲良くなった。ある日、イヴが秘密を打ち明けた。十七歳の時に男に拉致されて三日間監禁されたのだという。その男にイヴは会いたいという。居場所も調べ上げていた。私はイヴといっしょに男に会いにゆく。イヴは男と二人にして欲しいと私に頼み、病院を出て出演予定だった舞台の稽古を休むと監督に伝えると言って車を降りたきり、私と弟の前からいなくなってしまったのである。
イヴは三日間に何が起こったのかを私には語らなかった。イヴは男に会う理由を「私は潰されなかったと言うため」だと説明したが、私はそれを信じていない。また弟とイヴの関係がどのようなものであったのかを、私はほとんど把握していなかった。弟はイヴの失踪後、「僕よりも姉さんの方が彼女をよくわかっていたと思う?」と聞く。私は「いいえ」と答えるが自信はない。何もわからないのだ。弟は勤勉な地震研究者だが、子供の頃からの吃音で、それもあって無口だった。イヴの失踪後、弟は自分から志願して南極基地での地震研究職に就く。弟の名前は作品中で明かされることがない。単に弟と記述される負の焦点である。
南極で、私が去ってから一か月後にルイスがホワイトアウトにはまり、凍傷で指を二本失うことになるとは、わたしにはわからなかった。脛骨が弟のものだとわかり、金属の箱に入ってアメリカに送り返されてくることになるとは、私にはわからなかった。ある日、私は消えてしまい、私を愛した人たちにそのわけを話せるのは、行方不明の女と死んだ男だけになるとは、私にはわからなかった。
(同)
「南極」は私もまた、夫と子供を残して失踪することを示唆して終わる。理由はない。あるいは説明できない。恐らくそれがアメリカの、豊かで平穏に時間が過ぎてゆく社会が抱える不安である。戦禍や貧困に悩む国ではこのような不安はない。明確な目標があるからだ。しかし先進資本主義国では何かを変えなければならない、あるいは変わらなければならないはずなのに、進むべき道が見当たらない。このような不安は日本社会にも存在する。
イヴの身に起こったような出来事は、これからの日本でさらに増えるだろう。アメリカで起こることはやがて日本でも起こるというのはある程度は本当だ。またアメリカは驚くべき大量消費国であり、その意味でいまだに資本主義国家の最先進国である。日本の純文学作家たちが〝書くことがないこと〟をひたすら書き綴っているのに対して、ヴァンデンバーグの「南極」は虚無の底に達しているように思う。ただ小説である限り、常にそれは物語として語られるのが正しい。どんな形であれ、小説によって問題の底の底まで表現し尽くさなければ新たな展開は見出せない。
なお今号には蓮見重彦氏の講演「『ボヴァリー夫人』余話」が掲載されている。筑摩書房から八百五十ページの大著『「ボヴァリー夫人」論』が刊行されたのである。僕はそれを蓮見氏の重要な仕事として楽しく読んだ。しかしかつてのような興奮は覚えなかった。一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、先行きが見えず停滞と足踏みを繰り返すような時代状況の中で、蓮見氏の仕事は僕らに強く訴えかけるものがあった。真面目でありながら過去の文化的遺産すべてを茶化すような鋭い批評の切れ味が、なにか新しい動向を生み出すのではないかと期待していた。しかし停滞が決定的になった現在、氏の遊戯的高踏思考は、もはや蓮見重彦論の枠組みでしか有効ではないような気がする。
また今号には東浩紀氏と阿倍和重氏との対談が掲載されている。編集部の文章には「同時期のデビューを果たしたものの、一時期疎遠になっていた二人は、3・11以降の世界と文学をいかに見ていたのか」、「二人の「確執」を超えて」とある。東氏、阿倍氏はともに優れた作家である。しかしその確執を把握しており、彼らの文学から多大な影響を受けている作家がどれくらいいるのだろうか。どのジャンルにもスターはいる。スターはメディアが作り出すものでもある。しかし純文学界のスターで、多くの読者を納得させられるだけの力を持っている作家はほとんどいないのではあるまいか。
文芸誌はかつて、作家を志す者たちにとっての窓だったと思う。文学への窓であり、付随的に文壇への窓でもあった。しかし現在の純文学系の文芸誌を読んでいると、窓のない部屋に閉じ込められているような気がする。次々にスターと呼ばれる作家たちがステージに登場するが、そこで上演される寸劇は部屋の中での出来事で閉じて〝外〟には通じていない。難しい時代になったものだと思う。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■