さよなら私
NHK
火曜 22:00-(全9回・放送終了)
アナ雪の影響だろうか。この手のドラマが多くなった。姉妹か、姉妹ではないものの女性同士の深い友情、関わり合いを中心に描いたもの。もちろん、これまでにもなかったわけではないが、メインは男女関係で、女性同士の関係はそこから派生する感情のカスのようなもの、要は刺身のツマだった。
それはつまり、現実がそのようなものとして認識されていたことを指す。そしてもし、本来は刺身のツマであるはずの女性同士の関係に埋没しようとする女性がいれば、その女性自身が刺身のツマ。ただ、誰にとって刺身のツマかと言うと、もちろん男性にとっての、ということに違いないのだ。
で、現実認識に基づく従来のドラマはこうだ。どこから見ても非の打ちどころのない、かっこいい男性がいる。その男性をめぐって、ヒロインと恋敵の女性が摩擦を起こす。恋敵が性悪女なら単なるラブストーリーになる。まあ、これが基本の三角関係である。
様々なドラマにおいて、この三角関係にバリエーションが加わる。恋敵が可愛い妹なら、とか、親友なら、とか、赤の他人だがどっか憎めないとか、同情の余地があるとか。さらにレズビアンだったりすると、実は男の方の恋敵だったのでした、とか。この最後のパターンはなかなかラディカルだが、三角関係の構造そのものは壊れていないし、ヒロインと男性との男女関係が軸になっていることに変わりはない。
アナ雪以後の、最近のドラマでは、この三角関係そのものが崩れている。女-女の関係において、男はその関係を成り立たせる要の位置にはおらず、本当のところ居てもいなくてもいいみたいな刺身のツマそのものなのだ。そういった作品が、一部のマイナーなレズビアン作家による限られたマーケットをめざすのではなく、大ヒット作を経て、文字通りのメジャーな文脈にのるという、これはテレビなどの大衆的な映像文化史を超えて、文学史的にも事件なのではないか。
コミミにハサんだミミ学問だが、かつて小林秀雄は、「ひまわり」という少女雑誌に掲載されていた少女同士の友情物語について、「風俗撩乱」と激怒したそうな。およそ男の立ち入る余地のないものは認められない、ということか。大人気ないと思うが、まあ、エライ先生もある視点から見たときにエラくなるに過ぎないので、だからといってエラくないってわけじゃないけど。
それだから男の作家がこういうものに挑戦しようというのは実際、なかなか大変だと思う。「さよなら私」は女性同士の機微をじっくり描くのかと思いきや、二人のヒロインの身体と心が入れ替わるという「入れ替わり」モノで、なんでこんなことを、と思う。が、これは「あなたは私」という女性同士の親密感をヴィジュアル化すると同時に、男性の作家自身がそれを捉えるために必要な装置なのかもしれない。女ならば実際に入れ替わらなくたって、普段から入れ替わっているのに近い感覚はわかるのだが。
またヒロインの一方の肉体が、実は死の病に冒されている、というのも、従来的な文学やドラマの文脈に引きつけた「意味」を探しているように思える。作家や制作者の多くが男性である以上、受容者の大半が女性である現在のニーズやトレンドは理解しても、ニーズやトレンドとしてしか捉え得ないという限界は付き物だろう。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■