Nのために
TBS
金曜 22:00~
映像、特にテレビと小説との間に、いまだ横たわっている決定的な違い、というものについて考えざるを得ない。そして、それがあるからこうしなくてはならない、というものでもない、ということも。たぶん少し、母国語と外国語との関係にも似ている。ネイティヴであれば常に優位、ということでもないのと同様に。
テレビから、最終的には決して排除できないものは現在性だ。どんなに時代がかったものであっても、またどんなにフィクショナルな夢の国であっても、視聴者はその世界に埋没することはできない。CM が流れる隙にトイレに行ったり、NHK であっても 45 分や 1 時間後には次回の予告を観ることになる。テレビドラマは分断され、その合間に現在が入り込む。45 分や 1 時間がロードショーと比べて短いから、というわけではない。分断されることを前提に作られている、ということだ。2 時間の完結ドラマであっても同じだ。前後に別の番組があり、皆くつろいで何かしながら観ている。見落とされるような微かな仕草などを、緊張感をもって拾い出す映画の観客とは異なる。
一方で小説、文学とは「遅れ」てくるものだ。リアルタイムに起こったことを総括し、「思想」にまとまってくるのを待たなくてはならない。出来事を右から左に流してゆくのはせいぜいリポートであって、ノンフィクションですらない。
そうなると「文芸作品」という言語で書かれたものが「テレビドラマ」という別の言語に翻訳されたときに、奇妙な齟齬が生じることがある。よい悪いということではない、ずれの感覚。湊かなえの小説を原作とする「Nのために」には、とりわけそれを強く感じさせる要素がある。
高層マンションに住むセレブ夫妻が殺害され、現場には大学生の希美(榮倉奈々)、成瀬(窪田正孝)、安藤(賀来賢人)、西崎(小出恵介)が居合わせ、その場で西崎が逮捕される。10年後、元警察官の高野(三浦友和)が事件の真相を追いはじめる。すべては15年前の夏、瀬戸内海のある島で、希美と成瀬が起こした別の事件から始まっていた、というミステリードラマである。
過去と現在が交錯するのは、ミステリーの場合はよくある。因果、ということを辿るのがミステリーのテーマなのだから、当然といえば当然である。安楽椅子ミステリーでは、その因果が昨日起こった事件を今日、(安楽椅子に座ったまま)解決するわけだが、数十年に渡る因果を引きずる事件というのは、やっぱりドロドロ系ということになる。
そのドロドロに、現在とはかけ離れたリアリティのなさがあるとき、テレビドラマの視聴者としては正直、戸惑う。父親が突然、妻子を家から追い出し、若い女を連れてくる。家はもともと妻の両親が建てたものだが、婿養子に入った父親には、今まで表に出さなかった鬱屈があったとか。それで金に困った娘が訪ねて行くと、愛人の女に土下座させられ、食べ物だけを与えられるとか。
小説であるなら、15年前の島での出来事として完結し、納得できる世界が広がっているに違いない。が、それぞれのリビングでの今現在と接続しながら観ているテレビドラマでは、まさか、という気分にどうしてもなる。それを、まあ、これはドロドロ系ミステリーなんだから、というジャンル分けで自らただ納得させてしまうのは、視聴者としてはもったいないような。ずれの感覚から、新しい表現が生まれることはないのだろうか。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■