悪女について
スペシャルドラマ 4月30日(月) 21時~ TBS
有吉佐和子原作が跡形もなくなっていた。これで原作者と呼ばれることは、有吉さんが存命なら拒まれたことだろう。予想されたことではあったが、沢尻エリカのプロモーション映像を2時間半に渡って見せられただけだった。でも、どうしてそんなことをしてあげなくちゃならないの?
船越英一郎宅で、妻の松居一代が沢尻エリカとのラブシーンに嫉妬して家出騒動があったと、ワイドショーでやってるあたりでほぼ絶望した。もちろん番宣のための茶番なのだが、そもそもあの「悪女について」に、船越の妻がやっきになるほどの重要な中年男の役なんかあったっけか、という話なのだ。
有吉佐和子の「悪女について」は富小路公子という死んだ女について、様々な人々が証言し、はて彼女は悪女だったのか聖女だったのか、謎のままに終わる、という小説だ。タイトルが「悪女」であることからわかるように、まあ、どちらかと言えば悪女だったに違いない。善行はいくら積み重ねたところで、一度の悪行を覆い隠してくれるものでもないからだ。読後感としては、聖なるところがあったように思える悪女、というものだった。その「聖なるところ」を表現するなら、多少なりとも有吉文学を理解しようとしなくてはなるまい。
有吉佐和子の小説に出てくる女性たちは、善女も悪女もただひたむきに生きようとしている。その意志の前に、善も悪もない。言いかえると、悪女が悪であったとしても、そのひたむきな生への執着によって浄化される。それを聖なる瞬間として表現できるかどうかが、「悪女について」のドラマ化が成功するかどうかの分かれ目だろう。
小説では、富小路公子について一番悪しざまに言うのは、彼女に大金を騙し取られた人々だ。確かにそれは彼女を悪と決めつける、揺るがぬ根拠となり得る。這い上がるために、あらゆる手を使ったのだ。が、はかなげな風情で、消え入りそうな声で話し、男が耳を寄せる (ように仕向ける) という。これについては、昔の連続ドラマ「悪女について」の影万里江がよく雰囲気を出していた。
連続ドラマだったものを単発のスペシャルとすれば、舌足らずになるところは出てくるのは致し方ない。それでも富小路公子の「悪女」ぶりがほぼ男関係だけに限られ、息子たちの父親が誰か、ということに謎が集約されてしまったのでは、悪女ならぬ可愛い小悪魔ちゃんぐらいのインパクトしかない。それが沢尻エリカ側の希望と合致したとしても、せっかくの主役がその程度にしか演れないというのは、実際にはマイナスだろう。
もちろん沢尻エリカは非の打ち所がない美女で、だいたい、これが富小路公子らしくない。キャスティングの段階で何かを読み違えている。沢尻エリカ主演の方が先ならば、原作を選びそこねたと言うべきか。
富小路公子の底なしの貪欲な「悪」は、そのはかなげな楚々とした風情とあいまって、戦後の泥沼から必死で這い上がろうとした彼女の、ひ弱なくせにしたたかな「生」、死の瞬間の「聖性」として表現される。弱いからこそ悪くならざるを得なかったのだ。
だけど沢尻エリカは憎々しいほど堂々とした美女で、さほど悪さをしたとも思えないのだから、手玉にとられた男たちが弁護したり、聖女かもと考えたりする必要はないんじゃないか。ただ、その男たちのアホ面が印象に残るだけである。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■