平清盛
NHK総合 日曜日夜8:00~ NHK BSプレミアム 日曜日夜6:00~ 再放送 NHK総合 土曜日
午後 1:05~
ドラマはホン(脚本)だ。つくづくそう思う。
大河ドラマ 平清盛は素晴らしい企画だった。一本一億円以上といわれる予算から生まれた映画顔負けのセット、好みは見えないものの、それゆえに豪華なキャスト、様々なタイアップをほどこした鳴り物入りの宣伝。それらは大河である以上は特筆すべきことではないかもしれない。だがテレビ離れした重厚そのものの画像、時代考証を厭わないリアリティ、細部へのこだわりは、視聴者を真のあの時代へと連れてゆく力があった。・・・俳優がしゃべり出すまでは。
現代語をしゃべっているから興ざめ、というのでは無論ない。それなら吹き替えの外国映画を見て涙することはないだろう。ドラマ平清盛のセリフ回しやスピードが、我々を一気に平安の世から今ここへと引きずり戻す、というのでも必ずしもない。
ああ、と息を吐いてしまうのは、たとえば清盛(松山ケンイチ)が自らの出生を察してアイデンティティの悩みをおぼえたり、愛や平和を主張したりといったところだ。そこで父(中井貴一)に反発する有様はまさに現代のホームドラマ。しかし一本一億円もの予算のついたホームドラマは、今度はホームドラマとしてのリアリティを失っている。つまり我々は、何とも珍妙なものを見せられるはめになってしまう。
だから数字(視聴率)が伸びないのだ、などという気はさらさらない。どこかの知事が「画面が薄汚い」とか言ったそうだが、映像に対する一般人の感覚は、確かにそんなものだ。脚本の善し悪しに対する認識とて、同程度だろう。抜群の数字が出たドラマといえば、たとえばチャングムの誓いのように誰が見ても目を離せない緊密なプロットのものもないことはない。が、女王の教室をより一般向けに焼き直した家政婦のミタといった子供騙しが最高視聴率、などと聞くと絶望する。
しかし平清盛はNHKのドラマである。どれだけの金がかかっているにせよ、本当のところ視聴率は問題ではないはずだ。数字のことが騒がれるのは、かかった金の額と効果を示す数字のギャップによって露わとなったのがコンセプトの欠落、思想のなさだからだろう。それを埋めることは金の力でも、愛や平和のきれいごとでも不可能と確認できたのなら、一億円×一年間のドラマが失敗に終わってもいいんじゃないか。
ウッディ・アレンも言うように、最もエライのは脚本家、結局は脚本がほぼすべてを決めるのである。 なぜならどんな多額のコストをかけた映像作品においても、そのコンセプトを表現できるのはホンだけだからだ。そして素晴らしいホンを書くのも、つまらないホンを書くのもコスト的にはそんなには変わらない。ただ覚悟の違いがあるだけで。
平清盛は、これから視聴率アップのために脚本の手直しをさせるらしい。覚悟のないことだ。その覚悟のなさが露わになるのが不幸である。そんなことができない状態なら、まだ救われるのだが。
放映後の反応を受けての脚本の手直しが有効なのは、もともと視聴者の反応がよい場合にかぎる。視聴者を載せてゆく物語の土台がしっかりしていて、いくつかの展開パターンがあらかじめ想定されており、視聴者の反応をとらえてビビッドに対応する—-それがまた画面にリズムとして映し出される。こういった場合でなく、後手に回った状態でベッドシーンを増やすなどすれば、傷口を拡げ、見続けてくれている視聴者にまで見切られてしまかもしれない—-その覚悟のなさを。
数年前の大河ドラマ 風林火山は、特に視聴率が高くもなく、予算が莫大でもなかったが、じゅうぶんな佳作に仕上がっていた。キャストはよく役にはまり、それというのも人物設定に、役者がはまれるだけの人格が用意されていたからだ。現代語のセリフも違和感なく、その時代の思想として自然なものを表現していた。すでに何度も映像化されているが、しっかりした原作があるものはこうなのだ。評判がよかろうと悪かろうと、おたおたと変えることはできない。世の中はいずれ盲千人、目明き千人。作る側に確信さえあれば、よいと言う人々は必ずいて、その数が急に落ち込んだりもしないはずだ。NHKなら、胸を張って見せられさえすれば、本来それでいいのではないか。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■