マルグリット・デュラス生誕100年の特集が組まれている。組まれているはずなのだが、どこだ、と目次を探してしまった。そのぐらい目立たない。広告では一番に目に入るのだが、それは他の書き手が知らない人、馴染みのない名前が多いというせいもあるだろう。ビッグ・ネームとか大家とかいう概念は、少なくとも文藝誌上においては過去のものになってしまったのかもしれない。
それは一つには、この号がたまたま文藝賞の発表に当たったということもあるだろう。マーケットからして、文芸誌はいまや作家志望者、と言うより当該文藝誌の新人賞応募者とその予備軍の SNS と化したがっているかのようだ。ビッグ・ネームの特集より、新人賞の発表の方が読者の興味を惹くということに違いあるまい。
しかし文芸誌は、単なる SNS 代わりだけではなく、文化の高みとして存在しなくてはならない。教育機関として機能するのは、その結果である。教育機関とも違うのは、必ずしも “ 生徒 ” たちのレベルに合わせることなく、その関心を斟酌したり、それに媚びたりすることなく、ただ到達すべき頂点として聳え立ってもいなくてはならないのだ。
マルグリット・デュラスの翻訳作品については、ベストセラー『愛人 ラ・マン』を始めとして多くを河出書房新社が刊行している。その絡みから、組まねばならない特集だからやりました、というおざなりな感じが漂うことが残念でたまらない。河出書房新社は翻訳作品については独特のセンスを持ち、それによって日本で認知され、コアなファンを得た作家はデュラスだけではない。それは出版社としての価値観、文化の反映の結果であるはずだ。
文芸誌の売上げ不振が続き、自信を喪失するなり、読者の関心事にすり寄って行くことはある程度は仕方がない。自身を疑い、マーケットの動向に対して透過性を持つことはまず第一歩だと思う。しかし自分自身のアイデンティティを失ってしまっては、存在理由そのものが消えてなくなる。
文芸誌が発行されるのは、そのカルチャーに属する人々のコミュニティの中心になるためではなく、その人々を教育するためでも、厳密にはない。ただ、自身の信じる文化の最高レベルのものを黙って示すためのものだ、と思う。ただ、そこには「文化は高い方から低い方へ流れるはずだ」という確信がなければならない。その確信、信念は誌面からひしひしと伝わるものである。
しかし誰も彼もが自分の些事、昨日書き始めた自分の小説を読んでもらうことしか興味がないような世の中になって、最高のレベルが何事なのかなど一顧だにされないかもしれない、という不安に襲われるのもまた、事実ではある。そうだとしても出版社は、自身の過去の輝かしいコンテンツを汚すことだけは避けねばならぬのではないか。
もちろんそこには、単なる巡り合わせの不運というものもありはするだろう。年四回しか出ない季刊雑誌にとって年一度の新人賞の発表は、それを中心に一年が巡るイベントにせざるを得ない。あとの三回は流行に乗るかたちにしなくては同人誌と変わらなくなるし、その結果、物故した大作家の業績をあらためて振り返るなど、こういう顛末になるのは必然かもしれない。季刊文芸誌というものの意義そのものもまた、悩ましいところである。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■