太田垣蓮月作信楽焼水指 (著者蔵)
前回の連載で、最近では江戸は非・鎖国だったという議論があることを紹介して、「歴史解釈は絶対ではない。それは各時代の〝現代情勢〟によって変化する」と書いた。江戸を非・鎖国時代と断定するのは少し性急なのではというのが僕の考えだが、戦後揺るぎないものとされてきた歴史解釈が見直されている理由はよくわかる。現代情勢に呼応して人間の思考方法が変わってきたのがその一因だが、時間が経つにつれて過去をより客観視できるようになったためでもある。
明治維新から現在までに百五十年ほどの時間が経った。第二次世界大戦終結からは約七十年である。わたしたちが戦後史をまったくと言っていいほど相対化できていないことを考えれば、百五十年はそんなに長い年月ではないだろう。現代になって江戸がより客体化され、様々な思考方法(解釈)が現れるようになったのは自然な流れだと思う。
二千年以上に及ぶ日本の歴史において、明治維新が最大級の変革だったのは確かである。有史以来、日本は中国を文化的規範にしてきた。文字はもちろん、仏教・儒教などの思想もすべて中国から移入して来たのである。しかし明治維新を境に日本の文化的規範は欧米に変わる。政治・経済・文学といったあらゆる領域で欧米が規範になった。もちろん日本語は使われ続けているが、維新を境に新しい漢字の移入は止まる。明治期には欧米文化を受容するためにたくさんの漢字熟語が作られたが、それが一段落した後は、漢和辞典に基本的に新しい漢字熟語は加えられていないのである。増え続けているのはカタカナ語(外来語)だけだ。それは文化規範が欧米に変わったことを明確に示している。明治維新が日本の文化規範のパラダイム転換だと捉えれば、それは約千五百年間に一度起こった大変革である。
ただいくら明治維新が大変革だったとはいえ、当然、そこで変わってしまったものとほとんど変わらないものがある。従来は変化ばかり注目されていたが、最近では普遍的なものが見直されるようになっている。例えば維新以後の文学で最大の主題になったのは、ヨーロッパ的自我意識、いわゆる〝近代的自我意識〟である。維新後は家柄などにとらわれない自由な意志が人間の無限の可能性を保証し、社会の活力の源になると考えられたのである。明治の立身出世主義や恋愛幻想なども、近代的自我意識から生じている。
戦後ずっと、この近代的自我意識は維新後に新たに生じたものだと考えられてきた。しかし詳細に検討すれば、封建社会の厳しい制約があったにせよ、江戸後期にはその基盤が出来上がっていた。出自や身分の制約を超えて独創的仕事を残した江戸の文人は多い。江戸後期に基盤が出来上がっていたからこそ、日本人は維新後の近代的自我意識をスムーズに受け入れることができたのである。
ただやはり維新後に流入した自我意識は、封建制度下でのそれとは違う性質を持っていた。それを最も真摯に考えた文学者が夏目漱石である。漱石は自己の思想を「則天去私」と表現したが、これは古くて新しい思想である。「去私」の〝私〟は強烈なエゴを発揮する近代的自我意識を指す。漱石は『草枕』で、個々の人間が好き勝手に自我意識を主張すれば至る所で争いが起こり、世界は大混乱に陥るだろうと書いている。簡単に言えばヨーロッパ社会が混乱に陥らないのは、個々の自我意識を統御する上位思想としてのキリスト教があるからである。しかし日本にはキリスト教のような明文化された共通思想が存在しない。
漱石の則天去私は、〝私(の近代的自我意識[エゴ])を去って(捨てて)、天(の摂理)に則(のっと)る(従う)〟という意味である。漱石はそれを強烈な自我意識を持つ主人公を設定した『行人』、『心』の試みを経て、遺作になった『明暗』で表現した。『明暗』の登場人物たちは、いずれもわがままと言っていいほど強い自我意識の持ち主だが、エゴとエゴが激しくぶつかり合うことでそれは相対化される。一種の調和世界が生み出されるのである。
漱石はこの調和をもたらす摂理を「天」と表現したわけだが、天は漱石が近代的自我意識(エゴ)の上位審級にあると措定した思想である。漱石が自己の思想を批評ではなく小説で表現したことからわかるように、この思想は論理的には説明しにくい。しかし単純化すれば、それは「私を去っている」という意味で〝無私の思想〟に近似している。漱石の思想と禅との類縁関係が議論される所以である。
明治維新以降、私たちはできる限り厳密な用語定義と論理で思考を表現するようになった。それが文化規範を欧米に転換したことの意味であり、日本が欧米先進国の〝近代〟に追いつくための唯一の方途だった。しかし禅を含む東洋思想はヨーロッパ的論理化を阻む特性を持っている。禅は修行によって悟りに到達するが、そこには飛躍がある。漱石の則天去私思想も同様であり、だからこそそれは小説で表現されなければならなかった。
ただこの則天去私思想、つまり〝無私の思想〟は維新以前からずっと日本文化に内在していた。漱石の則天去私は新たに流入したヨーロッパ的自我意識を、日本古来の〝無私の思想〟に統合・昇華するための思想だったとも言える。
戦後の学校教育では、長い間道徳の授業が行われていた。人間は自由であり、個々の自我意識を思う存分発揮することで無限の可能性に満ちた明るい未来を拓き得ると子供たちに教えながら、一方で自我意識(エゴ)を抑えて社会のために尽くす必要を教えていたのである。この道徳教育は時間が経つにつれてその欺瞞ばかりが目立つようになった。虚構化された美談が鼻につくようになり、〝無私の思想〟など絵に描いた餅、空疎な観念に過ぎないと捉えられていったのである。
しかし現実に思想と行動を一致させた人々がいなければ、そもそも〝無私の思想〟は成立しない。戦後の道徳教育は現代に近づくにつれ、そのフィクショナルな欺瞞性が脱構築されていったわけだが、それによって〝無私の思想〟が完全に消滅したわけではない。時代によって歴史解釈が変わるように、現代になってようやく美談のベールを剥ぎ取った後に残る生身の人間の〝無私の思想〟がようやく検討できるようになったとも言えるのである。
漱石は様々な人間的問題を抱えていたが、大局を言えば創作者としてのエゴを優先するよりも、日本文学(文化)の将来のために仕事をした文学者だった。漱石と双璧を為す森鷗外も同様である。詳細に見ていけば、彼らのように〝無私の思想〟をもって社会に貢献する仕事をした人はたくさんいる。京都の太田垣蓮月(おおたがき れんげつ)尼もそのような一人である。鷗外晩年の史伝の人選に沿えば、激しい自己主張をせず、粛々と社会に貢献し続けたという意味で、蓮月尼は最も〝無私〟の人の一人だったと言えるかもしれない。
蓮月は寛政三年(一七九一年)に京都三本木で生まれた。誠(のぶ)と名付けられた。父親は藤堂藩伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)で、母親は芸妓であったとも、町娘で蓮月を生んだ後に亀岡藩士に嫁いだとも言われる。しかし正確なところはわからない。のぶは生後十日ほどで実父・良聖と親交のあった知恩院謹仕の太田垣光古(てるひさ)の養女になった。養父・光古には一子・賢古(かたひさ)がいたが二十一歳で病没したので、光古は岡銀右衛門の四男・望古(もちひさ)を養子に取ってのぶと結婚させた。のぶは望古との間に一男二女をもうけたがいずれも夭折した。また五年ほどで望古と離縁し、その直後に望古は死去している。詳細は不明だが、一説には望古の発狂が原因だと言われる。
離縁後、光古は彦根藩家中・石川広二光定の三男・古肥(ひさとし)を養子にして、再びのぶと娶せた。しかし古肥は結婚して四年ほどで死去し、古肥との間にもうけた一女も夭折した。のぶは夫の死後すぐに養父とともに出家して、蓮月という法名を授かった。光古六十八歳、のぶ三十三歳の時のことである。光古は知恩院譜代だったが跡継ぎがいないので、太田垣家の家督を彦根藩士風見平馬の義弟・古敦(ひさあつ)に譲った。養父・光古は天保三年(一八〇三年)に七十八歳で亡くなった。最初の夫、望古との間に生まれた次男・齋治は夭折しなかったが、望古の兄で儒者兼医者の田結荘天民の養子になったので、蓮月は生涯に渡って齋治と薄い交わりを結ぶに留めた。齋治は維新後、北海道漁業開拓の実業家として成功し、明治二十九年(一八九六年)に八十五歳で亡くなった。
たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ
つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとり残りてものをこそおもへ
蓮月は当時の中流家庭の娘の習いとして、八歳の時に丹波亀山城に奉公に出た。実母は亀岡藩士に嫁いだとも言われるので、その縁故を頼りつつ、密かに母と過ごさせる目的もあったのかもしれない。蓮月は十七歳で結婚のために帰郷するまでの十年間、女中奉公を続けた。この間に読み書きはもちろん、和歌、書、絵など当時の女性に必要な一通りの教育を受けた。特に和歌と書に優れた才能を発揮した。
引用の二首は養父・光古が亡くなった時に詠まれた歌である。蓮月は養父を実の父親のように愛慕し、光古が知恩院裏の山に葬られた後は、その近くに庵を建てて墓守として生活しようとしたらしい。また二首目にある「みつぐり」(三つ栗)は養父と二度目の夫・古肥、それに蓮月を指す。栗の殻の中に並んだ三つ栗のように仲良く暮らしていたが、自分だけが生き残ってしまったと嘆いている。「つねならぬ世はうきもの」という認識が蓮月にはアプリオリにあり、そこから身を守るために家族三人で棘で防備された栗の殻の中で暮らしていたのだとも読める。蓮月は養子に出した次男を除いて、一男三女すべてを失ってもいるのである。蓮月はかなり若い頃から出家を考えていたのではなかろうか。
蓮月は上田秋成とも親交があったようだが、幕末に一世を風靡した桂園派の歌人の一人である。桂園派は香川景樹が創始した歌の流派で、平明な詠みぶりを特徴とする。難解な言葉ややかましい規則をできるだけ排除して、その時々の風景や心情を素直に詠むという意味で、現代の口語短歌にも共通するような歌風である。当時は本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤(ひらた あつたね)らが活躍した国文学全盛期でもあり、古今・新古今を範とする彼らのペダンティックな和歌への対抗勢力でもあった。
桂園派の歌風を純粋化してゆけば、いわゆる〝文学意識〟が入り混じった時点で歌は濁る。その意味で今になると、蓮月が最も桂園派らしい歌人だったと言えるかもしれない。蓮月の歌には文学意識がほとんどない。また蓮月は詠み捨てだった。歌集『海人のかる藻』があるが、それは国文学者の近藤芳樹が蓮月作品を収集してまとめたものである。
蓮月は養父・光古が没した頃から生活のために陶器を作り始めた。轆轤を使わない手びねりで器形も無骨であり、誰かに入門して製陶技術を習った気配はない。手先が器用だったのを陶器制作に活かしたのだろう。また当時は煎茶ブームで京焼きの全盛期でもあった。奥田頴川(おくだ えいせん)、青木木米(あおき もくべい)、永樂保全(えいらく ほぜん)、仁阿弥道八(にんあみ どうはち)などの名工が次々に現れた。蓮月も煎茶碗を始めとする茶道具を作り、そこに釘彫で自作の和歌を書き付けた。蓮月の清貧な生活と心情が噂になり、人々がその人柄を知るにつれ、蓮月の焼き物は徐々に人気が出ていった。
(後編に続く)
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
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