骨董の焼き物好きは、図録を買っても写真ばかり見ていて解説は読まないことが多い。図録は一種の絵本なのだ。別に怠惰なわけではなく、物フェチにとってはごく自然な流れである。骨董といっても焼き物は茶碗や皿などの実用品が多い。手に取り使って楽しむ完全個人所有の愛玩物なのだ。そのため骨董好きの興味は、自ずと自分が買った陶磁器が、いつ、どこで作られ、どのくらい珍しい物なのかを知ることに集中してしまう。たいていの場合、「17世紀初頭 桃山時代 唐津窯」といった時代・産地表記や、「この作例は比較的珍しい」というような短い解説を読んでニヤリとするだけで事足りる。逆に言えば、そんな骨董好きでも思わず読んでしまうような文章の書き手は相当な骨董の達人である。小林秀雄や白洲正子、土門拳といった名前が思い浮かぶが、それほど多くない。文章が素晴らしいのはもちろん、彼らはいずれも大変な骨董の目利きである。
僕も気がつくと漫然と図録の写真を眺めている。ごく普通の骨董好きだから当たり前だが、文字と写真(物)では情報の質が違うからなのではないかとも思う。骨董の醍醐味は、なんと言っても物からある本質を直接的に感受できることにある。作者がわかっている絵や書なら、それをじっくり見ることで作家固有の精神を理解できる。作者がわからない陶磁器の場合は、物を通して各時代特有の精神を読み解くことができるのである。骨董を愛し、時には相当な金額を出して身近に置くということは、多かれ少なかれそのような直接的な時代精神に触れることを意味する。骨董を愛するという面から言えば、文字はあくまで二次情報なのである。まず物が伝えてくれる情報に素直に身を委ねなければ、骨董の魅力はいつまでたってもわからない。
また世の中には買えないばかりか、めったに手に取ることすらできない骨董もある。そういう物に興味を持った時は、ひたすら図録を眺め暮らすほかない。それに信頼できる図録の情報はいつだって有用である。これは僕個人の感想だが、陶磁器の真贋に関する情報くらいなら、図録をじっと見つめているだけで90パーセントくらいは体得できる。そういう知識を蓄積しておいて、本物を目の前にした時に、手に取らなければわからない質感や重さ、硬度などの情報を追加すればいいのである。骨董好きにとって、写真が与えてくれる視覚情報は文字以上に重要である。時には写真が、文字情報では決して得ることのできない示唆を与えてくれることもある。
もうだいぶ前のことだが、親しい骨董屋さんが、仕事で京都に行った時のお土産に一冊のパンフレットをくれた。カラー印刷だが16ページの小冊子で、財団法人京都埋蔵文化研究所が出版した『つちの中の京都-桃山文化の陶磁』という図録だった。主に三条通界隈から発掘調査で出土した、志野や織部などの桃山陶が写真掲載されていた。「これはすごいね」と少し興奮して骨董屋さんと一緒に図版を眺め、家に帰っても写真を見続けた。そのうち変だなと思い始めた。出土品は普通、使っているうちに壊れて捨てられた生活用品が多い。しかしこの図版に掲載されている陶器のほとんどが茶道具で、伝世していれば名品と呼ばれるような物も多いのだ。
ようやく解説文を読み始めると「出土状況は、三条界隈に桃山茶陶を商う焼物商があったことを物語っています。近年の調査では、裏庭と想定できる位置で、穴に投棄されたような状況で出土しています。一軒の商家が保持するには余りにも多く、これらの茶陶は商品として焼物商にあったものが何らかの理由で破棄されたと考えられます」とある。調べ始めると、この出土品を中心にした展覧会が各地の美術館で開催されていることがわかった。根津美術館開催の『洛中の発掘品と伝世の名品-桃山の茶陶』(1989年)や土岐市美濃陶磁歴史館開催の『三条界隈のやきもの屋』(2001年)などである。これらは単なる考古的発掘資料ではなく、美術的価値も極めて高い陶磁器なのである。
桃山時代は為政者を中心に考えると、織田信長が最後の足利将軍義明を奉じて入洛した永禄11年(1568年)から、豊臣秀吉の時代を経て、徳川家光が征夷大将軍に任ぜられた元和9年(1623年)頃までの約半世紀である。桃山文化というともう少し長くなり、元禄時代頃(1688~1703年)までその影響は及んでいる。この桃山時代に作れらた陶器は日本陶磁史の中で特権的な位置を占める。日本の焼物作りは縄文時代から続く長いものだが、中国文化の影響を受けるようになってからは、中国陶をお手本に焼物を作り続けていた。この状況は桃山時代に入ると一変する。陶器の制作技術が進歩したこともあって、日本人はようやく自分たち好みの焼物を作れるようになったのである。ポルトガルとの交易で生じた南蛮文化が中国の影響を相対化したことも、斬新な桃山陶を生み出した要因の一つだろう。また桃山陶を一貫して主導したのは千利休から始まる茶の湯(茶道)だった。
喫茶の風習は鎌倉時代初期の臨済宗の僧侶・栄西によって日本にもたらされたが、為政者で茶道を愛した最初の人は室町後期の将軍・足利義政である。織田信長や豊臣秀吉は足利幕府の正統後継者を自称したが、文化面で彼らの権威を補強したのは義政が残した茶道具類だった。足利幕府の瓦解後、義政遺愛の茶道具類、通称「東山御物(大名物)」は裕福な堺商人らの手に渡った。茶道の流行は富裕な町人の間にまで広がっていたのである。信長や秀吉は彼らから強制的に東山御物を買い上げる名物狩りを行っている。信長は本能寺の変で明智光秀によって殺害されたが、本能寺滞在の目的は、彼が蒐集した茶道具を京都の貴人たちに披露することにあった。この信長の文化政策を秀吉は正確に踏襲した。信長の茶頭・千利休を重用し、天皇を頂点とする貴人たちとの交流に茶会を利用したのである。
千利休は大徳寺で出家した禅僧だが、単なるお茶の師匠ではなく、堺衆の利権を代表する信長・秀吉政権内の影の権力者だった。利休は天正19年(1591年)に秀吉の命により切腹となるが、その背景には堺衆と博多商人との権力闘争があったと考えられる。秀吉は利休自刃翌年の文禄元年(1592年)に最初の朝鮮出兵を控えていた。それを経済的に支えたのが博多の豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)らであった。堺衆は秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討伐した直後に利休を茶頭とした茶会を開き、いち早く秀吉を支持し経済的に支え続けた。このとき急遽造られたのが茶室「待庵」であり、京都の妙喜庵に移築され今に至るまで当時の姿を伝えている。待庵は秀吉を「待つ」という意味と、秀吉の幼名「松」をかけ合わせた命名で、秀吉のためだけに造られた茶室である。しかし秀吉の朝鮮出兵の野望とともに、堺衆の政権内での力は博多商人らに奪われていったのである。
文化面での利休の功績は、言うまでもなく茶道を大系化したことである。それは日本文化にとってたいへん大きな意味を持っていた。利休から茶道が始まるとすれば、その歴史はたかだか450年ほどである。しかし茶道の源流はもっと古い。利休は平安・鎌倉の古代から徐々に育まれてきた日本的美意識を、茶道の形で初めて明確に様式化したのである。利休は茶道についてあまり書き残さなかったが、その美意識は遺愛の茶道具を通してうかがい知ることができる。利休はそれまで中国陶器(唐物という)中心だった茶道具に初めて国産品を使用した。それは革命的な変化だった。利休はまた、脆い物、なんの変哲もない道具を愛した。聚楽第の瓦職人だったと伝えられる長次郎に焼かせた楽茶碗や、桂川の漁師が使っていた魚籠を譲り受けたと言われる竹編みの花籠、銘・桂川などがその代表である。利休は当時は新しい道具に過ぎなかった楽茶碗を大名・豪商らに法外な値段で売り、それが自刃の一因になったと伝えられるが、あり得ることである。政治家でもあった利休が、新物の茶道具を高値で売ることの意味を意識してなかったはずはない。
利休の美意識は高弟の古田織部に受け継がれた。利休の茶道は脆く繊細な物を愛する侘び・寂びの精神と、従来の規範を打ち破る革命性に大別できるが、織部が受け継いだのは主に後者だった。織部は利休の草庵の茶の精神を踏まえながらも、時代の流れに合わせて広間の茶(大名茶)の様式を新たに創出した。また陶工に命じて、利休よりもさらに積極的に好みの陶器を焼かせた。織部は美濃(現・岐阜県)の小大名だが、美濃は古来窯業が盛んな土地だったのである。織部が指導して作らせた焼物は「織部焼(志野焼を含む)」と総称される。それは日本陶磁史上の金字塔と呼んで差し支えない斬新なものである。陶磁器の世界標準的美の規範は左右対称で優美な姿にあるが、織部焼はそれを意識的に逸脱している。茶碗は大きく歪み、大胆な絵付けが施され、高台(茶碗の底の部分)に至るまで繊細な工夫が凝らされている。このような陶器は世界的に見ても類例がない。完璧さを嫌い、自然の多様を最上とする日本人の美意識が生んだ作品である。織部焼は作為の多い陶器だが、そのいびつさには人工的洗練を排した自然への憧憬が込められているのである。
ただ織部焼の寿命は短かった。織部は信長、秀吉、家康に仕えた典型的な戦国大名の一人である。機を見るに敏だったわけだが、為政者にしてみれば油断できない家臣だった。特に徳川幕府の旧豊臣勢への監視は厳しかった。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の際に、織部は家臣の茶頭・木村宗喜が豊臣側と内通しているという嫌疑をかけられ家康から切腹を命じられた。これにより古田家は断絶した。それだけではない。織部は茶人としては徳川二代将軍・秀忠の茶頭にまで上り詰めたが、逆臣としての最期は長く尾を引いた。織部の業績は徳川初期において意図的に抹消された形跡がある。その人生の詳細は今に至るまで謎のままなのである。また利休から続いた茶道における変革精神は、織部の死とともに終わりを迎えることになった。豊家を滅ぼし安定期に入った徳川の世では、もはや革新的試みは不要だった。茶道は利休の侘び茶を厳密に踏襲するようになり、日本の多くの伝統芸術と同様、徐々に形骸化していったのである。
図録に戻れば、京都三条界隈から出土した陶磁器には高台に「天啓年製」と書かれた中国陶が含まれており、それにより廃棄穴が使われていた年代を推測できる。天啓は元年から7年まであり、日本の年号では元和7年から寛永4年(1621~27年)に当たる。廃棄穴は少なくとも寛永4年頃まで使われていたことになる。また慶長末期に作成されたと推定される『洛中洛外図』(富山県高岡市勝興寺伝来)には、三条通で陶磁器を商う「せと物や町」の商家が描かれている。しかし寛永14年(1637年)製作の『洛中絵図』からは「せと物や町」の名が消え、代わりに「中野町」と記載されている。つまり三条通の「せと物や町」は、慶長最後の年であり、織部が自刃した慶長20年(元和元年・1615年)から寛永14年(1637年)までの間に消滅しているのである。これは何を意味しているのだろうか。
織部焼が注目を浴び始めたのは最近のことである。江戸期を通じて黙殺され続け、幕末になり、ようやくその中でも比較的おとなしい作風の茶碗が茶道具番付などに記載されるようになった。ただ織部が指導した志野や織部などの焼物の産地はわからないままだった。織部の死とともに、織部焼きの火もまた絶えてしまったからである。昭和5年(1930年)になって、魯山人のもとで陶工として働いていた荒川豊蔵が美濃山中で窯跡を発見して、ようやく製作地が判明した。これをきっかけに美濃では志野・織部陶の一大発掘ブームが起こったが、それも一部の数寄者たちの間の熱狂だった。古田織部その人が注目され、本格的な研究が始まったのは戦後になってからである。
古田織部と織部陶の歴史からの抹殺は、江戸初期の徳川幕府の力がいかに強大だったかを語っている。それが織部自刃直後の茶道界に及ばなかったはずはない。三条界隈から発掘された織部陶はそのほとんどが未使用で、新品の商品を廃棄したのだと考えられる。商人が何の理由もなく売り物を廃棄するはずもなく、徳川幕府のお咎めを恐れてのことだったと推測されるのである。三条通「せと物や町」の陶器商は、二代将軍・秀忠の茶道として茶道具にも大きな影響力を持っていた織部指導の陶器を扱っていたのだろう。それが織部自刃によって暗転する。商人らは徳川の逆臣となった織部指導の陶器を廃棄し、庇護者を失った「せと物や町」も急速に衰退して消滅していったのではないか。
以上は図録を漫然と眺めていた僕の勝手な推理である。ただ文章で残された資料が常に歴史の真相を語っているとは限らない。歴史とは勝者である為政者が作り上げるものでもある。骨董は物を通して時代の息遣いを今に伝える。物を通しての歴史理解というものがあってもいいと思うのである。
志野鉄釉卍紋皿陶片(表) 縦24×横18×高さ3センチ(いずれも最大)
志野鉄釉卍紋皿陶片(裏)
『つちの中の京都-桃山文化の陶磁』(財団法人京都埋蔵文化研究所)より
*写真掲載した志野の陶片はだいぶ前に入手したが、『つちの中の京都-桃山文化の陶磁』を眺めていて同手の模様を持つ物を見つけた(下から2段目、右から2つ目)。図録の説明では単に「卍紋」となっているが、ちょっと形がおかしい。当時は別の意味があったのかもしれないが、調べてもわからない。この模様の桃山陶は伝世品では残っていないようである。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■