池田浩さんの『詩誌時評』『No.002 詩とファンタジー 2014年3月号』をアップしましたぁ。『詩とファンタジー』3月号は、2013年10月に亡くなられたやなせたかしさんの追悼号です。言わずと知れた『アンパンマン』の作者で、サンリオが出していた『詩とメルヘン』が休刊になったあと、かまくら春秋社から後継誌『詩とファンタジー』を出版して編集責任を務められました。今回は池田さんに時評をお願いしてみました。
池田さんは、『どんな組織・集団も、創業者個人を超えて存続することを一度は目指す。しかし、それがふさわしいものとそうでないものがある。・・・商品の製造ならぬ、理念の維持を目的とする集団では、第二世代以降は見る影もない、ということがままある』と書いておられます。
その理由を池田さんは、『継承者は創業者とともに働いて、その理念を理解していると思われていたはずだ。が、・・・彼がいなくなると、これほどまでに違う存在だったのかと唖然とさせられることが多い・・・つまり理念とは学習して身につけるものでなく、人の根本に最初から備わっているものが、さらに血肉となる経験によって確立されるものだ、ということだ。・・・純粋な理念は一代限りのものなのだろう』と考察しておられます。
池田さんは『詩とファンタジー』の存続を危ぶんでおられるわけではないですが、やなせさんという支柱を失った今、雑誌がその〝理念の継承〟を問われているのは確かでしょうね。
不肖・石川は『詩とメルヘン』も『詩とファンタジー』も読んだことがあります。詩誌として考えても、グラビア誌という側面から見ても、極めて特殊な雑誌だな、という印象を抱きました。やなせさんがお亡くなりになった今、それは〝やなせイズム〟に貫かれていたのではないかと今さらながら気づきました。池田さんが書いておられるように、『最初の理念はそれほどありきたりではなかった』わけです。
いわゆる現代詩人の中で、この〝やなせイズム〟を継承できる作家はいないと思います。谷川俊太郎さんでも無理でしょうね。もちろん雑誌ですから、号によって出来不出来はあったと思います。しかし全体として見れば『詩とファンタジー』は、ほとんどやなせさん以外には理解できていない、絶妙なバランスの上に成立していた雑誌だと思います。
やなせさんの死去によって、『詩とファンタジー』がなぜ特異な雑誌に見えていたのか、その理由が明らかになったように思います。やなせさんが責任編集だったから、やなせさんがいたから、『詩とファンタジー』はこういうものという漠然とした認知が存在していたように思います。『詩とファンタジー』を継承できるのは、詩人やイラストレータといった〝肩書き〟を持つ人たちではなく、やなせさんの〝理念の理解者〟たちでしょうね。是非この機会にその理念をもっと多くの人にわかるようにして、『詩とファンタジー』をさらに活気ある雑誌にしていただきたいと思います。
■ 池田浩さんの『詩誌時評』『No.002 詩とファンタジー 2014年3月号』 ■