萩野篤人 文芸誌批評 萩野篤人 文芸誌批評『No.013 石田夏穂「わたしを庇わないで」(すばる2025年10月号)』、書評『No.001 小説の〈声〉は誰が発するのか ―辺見庸「月」について―』、新連載評論『九鬼周造と「偶然性」をめぐって』(第01回)をアップしましたぁ。辺見庸さんの「月」に関する書評は厳しいですが、萩野さんのテーマから言って当然でしょうね。新連載評論『九鬼周造と「偶然性」をめぐって』も萩野さんらしい評論です。
過去に起こった出来事や、たったいま目の前で起きている出来事から、わたしたちは原因に対する結果を読み取り、分析推理し、未来に起こるであろう出来事を予測する。(中略)それは、出来事が起きる根拠とみなしうる何らかの必然性をそこに認めることと、異なるものではない。必然性という概念がなくては鎖をたどるどころか、鎖すら見出せない。それどころか、わたしたちは出来事を出来事とみなすことさえできず、いっさいは無秩序と混沌の中へ没することだろう。
このとき、鎖を外れたり、秩序を攪乱したり混沌に陥ったりさせるアナーキーなものごとを、わたしたちは「偶然」と呼びならわしてきた。
古今東西、「偶然」をメインテーマに論じたひとはその逆に比べて釣り合わないほどすくない。その逆、つまりものごとの必然性を論じたひとに比べて、という意味だが、「必然」を論じるなら「偶然」の問題は避けられないはずで、この偏りはなかなか興味深い。ちょうど「存在(ある)」を論じるひとは多いが、「無(ない)」を論じるひとはすくないのとパラレルであると思う。そして、まさしくこの点に着目したのが日本の哲学者・九鬼周造(一八八八—一九四一)だった。
萩野篤人『九鬼周造と「偶然性」をめぐって』
出来事はどうしようもなく、取り返しようもなく起こってしまい覆すことができません。そのためわたしたちは結果に対応する原因を探す。過去のそれを援用して未来の結果を予測したりします。しかし実際に出来事が起こり、それが予想と違っていれば新たに原因が求められ、また新たな必然の道筋が見出される。世界秩序といったものはこの繰り返しで構築されています。しかし偶然は本質的に「秩序を攪乱したり混沌に陥ったりさせるアナーキーなもの」です。だとすると必然という秩序概念は消滅するのでしょうか。世界は無秩序で必然(秩序)は存在しないのでしょうか。恐らくそうではない。そうとは言い切れない。スリリングな評論の始まりです。
■萩野篤人 文芸誌批評 萩野篤人 文芸誌批評『No.013 石田夏穂「わたしを庇わないで」(すばる2025年10月号)』■
■萩野篤人 書評『No.001 小説の〈声〉は誰が発するのか ―辺見庸「月」について―』■
■萩野篤人 新連載評論『九鬼周造と「偶然性」をめぐって』(第01回)縦書版■
■萩野篤人 新連載評論『九鬼周造と「偶然性」をめぐって』(第01回)横書版■
■寅間心閑の肴的音楽評『寅間心閑の肴的音楽評『No.114 歌詞について』■
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