フェミニズム的なものと誤解されるかも知れないが、そうではなくて、「偉人の妹」というテーマで一冊の書物をまとめたら、と思うことがある。文学者であれ、社会運動家であれ、その妹たちはたいてい、ちょっとびっくりする情報を持っているし、社会が見ているその像とはまったく違う評価をする。
ドナルド・キーン氏の新連載「石川啄木」が始まり、あらためてそう思った。啄木は子規と違い、「現代」作家であるという。何をもって「現代」的であるかという定義は、少なくともこの第一回では明確にされてはいないのだが、そこに書かれている啄木の妹の言説に、その「現代性」を読むこともできそうだ。
啄木は母に溺愛され、さんざん甘やかされて育った。じっと手を見るような赤貧は、そんな啄木の分をわきまえない貴族的な贅沢がもたらしたものだ、という妹からの指摘は、ものを知らない私たち読者にはショッキングである。でも「働けど働けど」って、言ってるじゃない、いや、そうか、稼ぐ端から使ってしまうから、暮らしが楽にならないのか、稼ぐに追いつく貧乏なし、っていうもんね、と妙に納得してしまう。
そういう事情を知る者はしかし、妹以外にもいたはずだ。それを暴露する妹という存在、その言説の切っ先は、兄本人とともに、その兄の横暴を許した家族への憤り、それがそのまま社会の甘い誤解への憤りに繋がり、そこへまっすぐに切り込んでゆく。その “ 告発 ” 自体、兄妹が基本的に平等に扱われるべきという理念なり、希望なりを抱え得る「現代」のものだろう。
もちろん当時とて、男尊女卑の傾向は根深く残っていただろう。社会的に兄が大切にされ、その兄が、女でありかつ歳下である自身に対して横暴に振る舞ったとしても、それは社会の有り様としていたしかたなく思うということはあり得る。しかしながら母親、すなわち社会とは遠いところにあり、同じく腹を傷めて産んだ兄妹の兄だけに、通常は考えられないような贅沢な食べ物を与える、というのは、身体的なレベルで納得を越えるだろう。
その身体レベルで規を越えた溺愛によって兄の人格、その後の人生が形作られていったことを手に取るように実感する者として、妹という存在がある。そこでの妹の言説は憤りの形を取っているが、そのような歪んだ扱いの真の「被害者」は当然、兄の啄木である。つまり兄は報いを受け、支払いをしたのだ。
兄が報いを受けた以上、母もまた報いを受けたとするべきだろう。誤解をしている社会に対しては、教えてやればいい。知る者の優位によって、啄木ファンの無邪気な言説や、文学界の権威による甘い読解に憐れみを垂れることもできるはずだ。にもかかわらず妹の怒りの告発が向かうのは、どこか。
そのような視点から、連載を読んでゆくという愉しみもあろうか。貧困であれ、溺愛であれ、被った宿命によって業を背負ったなら、それを「文学」に成し得たかどうかだけが文学者の最終的な評価の基準である。妹の告発がどうあれ、そこは揺るがない。しかしそれは少なくとも、私たちの読解の「強度」を試すことにはなり得る。
長岡しおり
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