辻原登『寂しい丘で狩をする』刊行記念として、辻原登と滝田洋二郎が対談している。なかなか濃密で、落ち着いた雰囲気の話の流れである。
滝田洋二郎は、「陰陽師」や「おくりびと」など、文芸作品の映像化で評価を得てきた。めぐり合わせだろうが、文学者と相性がよいのではないか。一方の辻原登は、映画監督になりたくて家出したこともあるという作家だ。単なる映画ファンというわけではない。文学金魚で小説新人賞の選考委員を務めることから立て続けに論が出たが、確かにその執筆のあり方には本質的に映画に近いものを感じる。
映画に近いというのは、普通に思われるように映像的というのとは少し違う。むしろ音楽的で、出来事がするすると流れてゆく。それが物語というもので、そこに過剰な意味を持たせて説話的にしたり、重い内面をいかにも文学的に告白したりするのとも違うのだ。映画は映画である、としか言いようがないのと同じレベルで、物語は物語である、とされる。そのスタンスにおいて同格の息遣いがある。
それはまた、映画は映画である、と当然のように受け止められていた時代を知っている、ということではないか。映画人の滝田洋二郎は辻原登よりは若いが、地方によって文化のあり様、伝播は多少のラグがある。映画が娯楽の大きな部分を占め、したがって人の感じるロマンの大半だった時代があるのだ。今のように多くの人たちが、多くの映像を浴びるように観ている時代、ロマンについてはむしろ貧しくなってしまっている。
ロマン、などという大時代な言葉を持ち出したのは、辻原登がロマンという概念に似つかわしいところがある作家だからで、メタフィクションを書いても時代小説を書いても、普通に等身大の人間が、普通のロマンを纏っている。それは割り合いに幸せな光景と言えるので、この人は本当に悪い奴だとか、本当に残酷な出来事とかを描くことはないのではないか、と思える。そしてそれは時代がそうさせている、とも言える。
作家が登場人物を容赦なく追い詰めていく、というのは、追い詰める先が見えているからだ。それは多くの場合、神にも通じるような強い観念で、欧米のサスペンス、クライムノベルの秀作には、そういった観念性が欠かせない。それらの作家たちはとりわけ残酷なわけではなく、そうされることによってしか登場人物もまた救われないのだ、という信念を持っている。
日本の文化圏において、そしてまたこの時代、人が追い詰められてゆく先は曖昧な不確定性だ。不確定性の輪郭をつかむ、と言うと語義矛盾だが、水が入っている器の形を捉えるということはあるだろう。それが日本における “ 事件小説 ” というジャンルになるのではないか。それは時代小説というジャンルを確立したと言われる森鷗外の平明な手つきであり、ときにその方が欧米の観念性よりも見事であるという意味で “ 残酷 ” と言える。
『冬の旅』、『寂しい丘で狩をする』と、犯罪に関わる作品を続けて発表している辻原登にいわゆる残酷さは似合わない。ただ、普通のロマンを抱えた普通の人間が、ごく“ 映画的 ” に淡々と犯罪と呼ばれる「出来事」に関わる姿が見られる。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■