新潮では日韓中の三文芸誌、すなわち「新潮」、「子音と母音」、「小説界」の合同チームにより、合同文学プロジェクト「文學アジア 3×2×4」を進めている。
12月号はその第二回で、テーマは「性」。3国の文芸誌が各2名の作家にこのテーマで作品を書かせ、翻訳したものを同時に3誌に発表する、という試みだ。今回、日本からは河野多惠子と岡田利規。
この企画ページは一見、映画的である。アジア映画祭ふうに写真が配置されているせいでもあるし、それが意図されてもいるのだろう。
その(3編集部の)意図だが、6作品を見てまず思うことは、各国が妙に似通っている、ということだ。映画ならば風俗の差や、言語の差が画面から否応なく押し寄せてくる。共通の感情とともに、そのような差異を楽しむことで、国際映画祭の意義が伝わってくるのだが。小説作品の場合には当然、全部日本語に訳されているわけで、その結果、すべてが日本人作家によって書かれたものにも見える。
とすれば、この企画の意図を察すると、アジアはひとつ、ということなのだろうか。共通の雰囲気というものは、日本の純文学的状況にも通じていて、だとすれば金魚屋プレスの斉藤都氏のいう「ガラパゴス的状況」である日本の純文学界は、実は結構、グローバルなのかもしれないという安心感にも、納得にも結びつく。
では短編を寄せている6人は、どういう作家たちなのだろうか。作品それぞれの後に、作家紹介の文章が批評家の手によって書かれているが、それらはいずれも長い。長すぎる、と言ってもいい。作品があり、読者がそれを読んでいる前提ならば、作家の簡単な略歴ぐらいの方が、その作品がどういうスタンスで書かれ、作家の本質をどのように示しているか伝わりやすくはないか。
そしてそれら長い紹介文によっても、よらなくとも、それらの短編が各作家の全体像を指し示しているわけではないと察せられる。(だからこそ各作家への礼儀として、詳細な紹介文が必要だったとも言えるが。)この企画のために、それ向けに料理された短編だとすればなおさらである。
それが悪い、というのではない。しかし映画祭との最大の違いはここにある。映像であるなら、それがどんな断片であれ、全体像を指し示す。だから各国の差異がないように感じることは絶対にないのだ。だとすれば「アジアはひとつ」という印象は、「編集マジック」によって意図的になされたか、そうでないとすれば「活字なるものの宿命」として結果的にもたらされたに過ぎない。
それでもこの企画は可能性を秘め、興味深い。ただ、2年間で4回というペースは遅すぎはしまいか。一文芸誌を超えるような別の文学空間を出現させるには、その文芸誌の輪郭を曖昧にしかねないような勢いで、矢継ぎ早に打ち出していかねばなるまい。
三つの雑誌が情報を共有し、いわばクラウド化する。作品にかぎらず、そういうことが起こってくれば、それは状況の共有化であり、よりエキサイティングな「アジアはひとつ」が実現するかもしれない。
文芸誌の自己保存本能にとって、だが「クラウド化」は危機でもある。その危機を回避すべく、遠巻きで中途半端なところに留まろうとするなら、残念だ。そう見ると、選ばれた4つのテーマ「都市/性/旅/喪失」は、どこかしら核心を外している。
その中では最も求心的になり得るはずの今回のテーマ、「性」においても、「文學アジア」であれば当然、期待されるタブーに触れるものがない、性そのものに迫る作品もほとんどない、ということも残念である。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■