二本の特集が組まれている。大特集は「短篇小説」で、日本の作家六人と翻訳小説が二本、それに古井由吉と松浦寿輝の対談となっている。小特集は「戦後文学を読む――藤枝静男」というテーマの奥泉光と堀江敏幸、桜庭一樹の鼎談である。
金魚屋プレスの齋藤都氏は「群像とは」の総括コラムで、群像という文芸誌を日本のいわゆる文壇における「前衛」の役割を担ってきた、と定義している。が、今号を見るかぎり、それには首を傾げざるを得ない。
群像という雑誌が、戦後文学のシーンにおいて伝統と新しさを「いい感じ」にミックスさせ、一世を風靡するような話題作を出していたという時代のことを、僕は不幸にしてあまり知らない。時代とともに編集方針が少し変わるということもあるだろうし、それでも組織のものである以上、根幹は変わらず、編集長の交代で、また揺り戻されるということもあるだろう。一号、二号だけ、たまたま違う雰囲気だったということも、ないこともあるまい。
それでも群像12月号には、微かな「前衛」の残り香もない。だがそれは「短篇小説」という文學界=文壇のお家芸たるものを特集しているから、というのでも必ずしもない。そこにあるのは文學界の捉える、日本文学の粋を継承する伝統的な短篇小説の像とは、やはり異質のものだ。
端的に異質な点は、池澤夏樹、稲葉真弓、岡田利規、高村薫、長野まゆみ、中村文則という特集の作品ラインナップである。本来的に短篇作家とはいえない著者をあえて選んでいるような印象である。
「本来的な短篇作家」とは、これも端的に言えば、対談で登場している古井由吉のような作家である。小説をプロットでなくエクリチュールで読ませ、その文体の研ぎ澄ましに関して、玄人にしか味わえないような「芸」を見せるタイプの著者である。
群像としては、やはりそこからの距離は取っているということだろう。それは「短篇小説」を日本文化に固有の文体小説としてではなく、文字通り物理的に「短い小説」と単純に捉えているようである。日本の作家六人の短篇に加えて、外国人作家の翻訳小説を二本、加えていることからも察せられる。
そのような日本文化の伝統からの距離感を、しかし群像は「前衛」としての理論の果てに産み出そうとはしていない。演繹でなく、帰納=例示によって雰囲気を伝えようとしているようだ。特集に並んだ作家たちは、なるべく網羅的であることを心がけられた、その「例たち」ということであろう。
古井由吉の対談相手、松浦寿輝には古井にそっくりの短篇もあり、よい読者なのだと思う。だが古井のような徹底したエクリチュール作家ではなく、児童文学のような「低い」ところではプロット立てを見せるなど、あまり特徴がわからない書き手だ。そうであるがゆえに今回の特集では、古井の話の聞き役として、その立ち位置をエクリチュールに耽溺するところから、社会的なところに引きずり出すという役目をきちんと果たしている。
この対談でひとつ面白かったのは、古井由吉が自分のことを、日本特有の文芸誌という形態に向いた書き手だ、と述べていたことである。なるほどなぁ、そうかあ、と感慨深いものがあった。この「日本特有の文芸誌」とは、群像でなく文學界だと思えるが。
プロット立てが必要な長篇とならず、長くするには連作にするしかないというのは、いわゆる日本の純文学の宿命だが、それが「月刊文芸誌」という日本固有のメディアにぴったりはまっていたのだ、と考えると文学史的、日本文化史的にも興味深い。
藤枝静男についても、それを「戦後文学を読む」という特集の「例」として挙げるというのに、エッセイ的エクリチュールから、「戦後」という大きなプロットの方へ視点をずらそうという意図は感じられる。あまりぴんとはこないけど。
齋藤都氏にならって「我々が群像に期待することは」的に言えば、どのような立ち位置、意図や狙いであるにせよ、ランダムな例示に先駆けて、完全な理論武装で臨んでもらいたい。それが「前衛」群像の面目を果たすことになろうし、ともすると近い路線に陥りがちな新潮との差別化には、ぜひとも必要ではなかろうか。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■