第64回紅白歌合戦
NHK
12月31日 19:15~
視聴率が持ち直し、「半沢直樹」を抜き返したそうである。NHK が本気になれば、そんなものだろう。どのように本気になったのかは、よくわからないが、今年の紅白は事前から若干、盛り上がっている気配があった。その話題を耳にすることも、いつもより少し多かった。
紅白歌合戦によき刺激を与えたのは、もちろんその「半沢直樹」などをはじめとする民放的なるものだろう。それが紅白を意識にも視野にも入れることのないドラマ番組であったところに意味がある。
紅白歌合戦を仮想敵とするなら、売れっ子を集めた音楽番組なり、あるいは大晦日の裏にぶつけてくるバラエティやタイトル戦ということになるだろう。しかしそれらの健闘を伝える情報には必ず、紅白の衰退とマンネリ化ということが含まれていた。つまるところ顕著なのは、視聴者の関心の拡散化にほかならず、それを集中的に惹きつける勝者は不在であったのだ。
「半沢直樹」がただのテレビドラマでありながら、瞬間最大風速とはいえ、低迷していた紅白歌合戦の数字越えをマークしたことは、結局のところ人々を捉えるものは「文脈」であるということだろう。
通常、テレビドラマは回が進むほどに、そこまでの展開についていけない視聴者が増え、ふるい落とされてしまう。そんな不利をものともしないほど、噂が噂を呼んで視聴者がむしろ増えるというのは、尋常なことではない。
若い世代ならばネットで前の放送回をチェックするということができる時代でもある。それより上の世代にとっては、身につまされる共感によって「文脈」を捉えることができたのが「半沢直樹」だったかもしれない。「文脈」はいったんそこに巻き込まれれば、まるで当事者の一人であるかのように、人を捉えて離さない。ドラマの数字が上がってゆくとは言うまでもなく、次回は観なくてもいいや、と思わせないということでもある。
今回の紅白歌合戦もまた「物語」の力を取り込んで、能年玲奈が出ずっぱりだったという印象がある。それにしても「あまちゃん」というのはまた、何という紅白的なコンテンツなのだろうか。耳に馴染んだ挿入歌の数々は、音楽バラエティである紅白歌合戦と交わるのに、何らの違和感もない。
そしてドラマに登場する人々の再現は、まさしく地方地方で、そのとき「紅白歌合戦」を観ている人々そのものだ。観られる側が観ている側とすり替わる。このポストモダン性が NHK 的な土着性を失わずに獲得されている。
歌謡史・アイドル史を、AKB48 を、朝の連ドラの文脈を脱構築してみせた「あまちゃん」は紅白出場によって、「皆さまの NHK 」というものそのものを脱構築していることを気づかせた。その光景は、あの「ひょうきん族」全盛期のフジテレビを髣髴とさせる。が、もちろん NHK にはそれによってキー局の雄になるといった使命でなく、より国民的な、たとえばあの震災の記憶を総括するといった課題があるだけだ。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■