NHK スペシャル 魔性の難問・リーマン予想 - 天才たちの闘い
NHK BSプレミアム
12月11日(水) 0:45~(再放送)
NHKでは高度な専門的知識が必要な学問ジャンルを、わかりやすく解説する番組を定期的に放送している。『魔性の難問・リーマン予想-天才たちの闘い』もその一つで、見逃していた番組を先日BSの再放送でようやく見ることができた。もちろん僕に数学の専門知識があるわけではない。また番組はリーマン予想発表150周年記念として2009年に制作されたものだから、その後、さまざまな議論が積み重ねられている可能性もある。しかしリーマン予想についての大枠は把握できる良い番組だった。
リーマン予想は素数の謎を巡る数学の難問である。素数は1と自分自身でしか割り切れない数のことである。素数は〝数の原子〟とも呼ばれる。すべての数は素数のかけ算で表されるからである。たとえば255は5×51で51は3×17である。255は5、3、17の素数から構成されるわけだ。ただ素数は2、3、5、7、11、13、17・・・31397・・・と無限に続くが、現れるタイミングはまったく不規則である。この素数の並びになんらかの法則があるのではないかというユークリッド以来の直観を、数学の問題として整理したのがベルンハルト・リーマン(1826~1866年)である。
詳細は専門書にあたっていただきたいが、リーマンは素数の並びに規則性がないことから、その出現はある確率としてしか求められないと考えた。リーマンはそれをゼータ関数という式にまとめた。リーマンはさらにゼータ関数を立体グラフ化して、ゼロ点(グラフの高さがゼロになる点の位置)を求めた。当初リーマンは、素数の並びが不規則である以上、ゼロ点もバラバラのはずだと予測した。ところがゼロ点は一直線上に並んでいた。ゼータ関数は素数分布の法則性に肉薄していたのである。
しかしこれで素数の法則性が完全に解き明かされたわけではない。ものすごく単純化して言えば素数は無限にある。そこでリーマンは『ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるはずだ』という予想を立てた。リーマン予想である。リーマン予想が数学的に証明されれば素数の法則性は完全に解明されることになる。またゼロ点が一つでも直線上からずれていれば、リーマン予想は間違っていることになるのである。
リーマン予想はここ150年の間に様々な学者によって検討されている。番組ではアラン・チューリングとジョン・ナッシュの試みを取り上げていた。チューリングは計算機を駆使してナチス・ドイツの高度な暗号、『エニグマ』を解読した数学・論理学者である。コンピュータの生みの親の一人でもある。彼は一直線上からずれたゼータ関数のゼロ点を求めようとした。リーマン予想が間違っていることを証明しようとしたのである。しかし『エニグマ』解読の時と同様に計算機を駆使したが、例外を見つけることはできなかった。
ジョン・ナッシュはゲーム理論によりノーベル経済学賞を受賞した数学者だが、リーマン予想についての講演会の時に統合失調症を発症した。ナッシュの人生は、ラッセル・クロウ主演のハリウッド映画『ビューティフル・マインド』で描かれたので、ご存知の方も多いだろう。彼はリーマン予想の正しさを証明しようとしたが果たせなかったのである。リーマン予想とナッシュの統合失調症発症に因果関係があるのかどうかはわからないが、リーマン予想が数々の数学界の俊英の挑戦を跳ね返す超難問であることは確かである。
結論を言えばリーマン予想は、現在も正しいとも間違っているとも証明されていない。しかし大勢としてはリーマン予想は正しい――つまり素数の並びには何らかの法則性があるだろうという方向に傾いている。番組ではヒュー・モンゴメリーとフリーマン・ダイソンの仕事を取り上げていた。モンゴメリーは数学者でダイソンは物理学者である。学問的な交流はもちろん、個人的交流もなかった二人がたまたま大学で出会って話しをするうちに、学問ジャンルを超えた近似性がリーマン予想にあることがわかったのである。
モンゴメリーはシーケンシャルに素数を追っていくと、それが現れる間隔は不規則なのに、ゼータ関数のゼロ点の間隔はある程度規則的であることに気づいてそれを式にまとめた。ダイソンは原子核の研究者だが、原子核のエネルギーが飛び飛びで一定しないことに気づいて原子核のエネルギーの間隔を式にまとめた。ダイソンはリーマン予想を全く意識していなかったが、彼の原子核のエネルギーの式は、モンゴメリーのゼータ関数のゼロ点間隔を表す式と酷似していたのである。
これが示唆するのは素数の並びの法則は、原子核のエネルギー法則と一致するのではないかということである。つまり数の原子である素数と、物質の最小単位である原子の間には共通した法則性があると推測されるのである。驚きであると同時に、考えてみれば十分あり得ることである。ただモンゴメリーやダイソンらの研究によって、リーマン予想が単なる数学の問題ではなく、物理法則をも解き明かす問題であることが明らかになった。リーマン予想の研究は、数学者だけでなく物理学者も巻き込んで現在も続いている。
リーマン予想が数学者や物理学者を魅了するのは、その証明が神の意志を解き明かすことになるのではないかという予感があるからである。ホーキング博士のブラックホール理論や最新物理学のスーパーストリング理論もまた、宇宙生成原理の解明を目指す学問だが、そこで問題になっているのは、物質を構成する最小単位である素粒子の構造を完全解明することである。そこには神(あるいは神的な意志)が世界(宇宙)を創造したのなら、必ず法則があるはずだという直観がある。
最先端の数学や物理学の学問成果を文学などの人文学にそのまま導入することはできないが、それでもその試みは示唆的である。太古から続く優れた宗教者の直観が、ビッグバン理論に極めて良く似た面があることはよく知られている。彼らはある一点から世界が始まり、その生成は無秩序ではなく法則的だと主張している。つまり核のない生成はあり得ず、かつ生成には秩序が存在するということである。現象的には無限の多様性を示していても、それを原理的に考察すれば、現象の多様性は無矛盾的に説明できるはずなのである。
僕はテレビ批評などを書いていて文学の専門家ではないが、それでも最近の前衛小説を読んでいて呆れることがしばしばある。たいていは30年くらい前に一世を風靡したポスト・モダニズム理論を援用しているが、彼らは現代社会の本質を捉えきれないことの免罪符を、無秩序な記号の戯れといった初歩的なポスト・モダニズム理論に求めているのではないか。
しかしそれは大きな誤りだ。欧米のポスト・モダニストが模索しているのは従来の神的概念を外した上での世界を統御する原理であり、その原理探究が新たな神的概念(存在)を生み出す可能性は確実にある。新たな原理論であり神学である。しかし相も変わらず多くの日本の知識人は、外来思想をその表層でしか理解していない。
文学にも数学や物理学に比定し得るような原理はあるだろうと思う。人文学のジャンルでは数式や公式で表現することはできないだろうが、その探究は重要だと思う。文学金魚の一読者として言えば、このメディアには粛々とそのような原理を探究する文学者が多いようだ。地位や名誉といった文学ジャーナリズムにはほとんど関心がなさそうなところも、ペレリマンなどの数学者にちょっと似ているかもしれない。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■