新人賞発表の号を手にとると、ちょっと心がはずむ。
応募もしてないし、するつもりもないのに、そんな人もめずらしい、と言われる。でも、それなら文芸誌の読者というのは、どういう人たちなんだろう。自分がもし新人賞に応募しているなら、自分が受賞したのでもないかぎり、その発表の号なんか見たくもない。
新人賞発表の号がイイのは、たぶん、それが文芸誌のレーゾン・デートル(存在理由)だからなんだろう。いろんな人たちが記事や作品を載せているけれど、もしすばらしいものならば、それが単行本になってから読めばいい。本に収録されない記事もあるが、それは雑誌のためにある記事ということになるから、それも雑誌の存在理由じゃない。
新人賞は、それを取った人にとっては、それまでの人生における一世一代の作品、という部類だろうと思う。だけど新人賞作品は、単行本にはならないことが多いらしい。これこそ文芸誌ならでは、文芸誌でしか読めないものだろう。
新潮11月号で興味深いのは、その新人賞の選考委員による選評だ。ほんの短い文章だが、賞の選評というのは得がたい味わいがある。
桐野夏生による「もっと気分が悪くなりたい」という文章が特によかった。たとえば「マスダのために舌打ちを」という作品に対して、「身近に醜い異性がいたとしても、人は女主人公のようには考えないものだ。嫌悪という感情は、対象となる人物の本質的なものに根ざしてくるものだからである」と、また「病気と、醜さとはまったく異なるのではないか」。
言われてみれば当然で、常識的な言葉だが、清涼感がある。「ののの」という作品に対しては、「その(著者注・さまざまな思い出の)差異は、つなぎのない麺を食しているようで、うまく飲み込めない」。一方で、「選考会では、作者の誠実さも評価された」という端的な報告。
桐野夏生の選評は、「実感」に満ちあふれている。「もっと気分が悪くなりたい」という欲求はそのまま、あの桐野夏生の傑作『OUT』の冒頭へと繋がっていっている。
町田康の「自分丼」は、自我と他者という、今の文学の最大の問題点に収斂させた寸評だ。町田康が自我というものに対し、極めて客観的な理性の人だ、ということを表している。「(前略)ふたつのことをきっちりやらねばならない。ひとつは、観察者が徹頭徹尾、観察者であること。もうひとつは、その観察者としての立場が段階的に揺らぐこと」。「自分は自分にとっては自分であるが、他人にとっては他人である。そして自分が考えていることは自分なので一定程度、理解できる。ならば、その理解できることを書けば他人からすれば理解できない他人の謎を書いたことになるやんけ、という秘法である」。そのような方法に意識的で、「他人、を正確に描いていた」ものを評価した、という視界はクリアである。
対して松浦理英子は「善意も邪心も越える志」という、いささか古めかしい基準を提示している。「この善意で他人を救済するのは難しいだろう」。「このめったに見られない繊細さと純真さと志を見過ごすのはたいへんに惜しく、悩んだ末受賞作に推すことにした」。あるいは「デビュー作はこの程度のものであった方が二作目以降で乗り越えやすく成長にはずみがつくだろうから、受賞となってよかった。作者は実験的な作品も娯楽性の強い作品も書ける人だと思うので、私は何も心配していない」。松浦理英子こそが倫理的で誠実な、本当に善意の人なのだ、と初めて知った。
作家たちの選評に対して、批評家の選評はよくも悪くも熱が感じられないことが多い。自分自身の基準を示し、それに沿うことで義務を果たそうとする作家たちと違い、たまたま出会った作品への率直な感想を述べるのが批評家の仕事だ、という感じである。
浅田彰は「(前略)その退屈さ自体が裏を返せば小説としての面白さであり」、また「最初から最後までそれなりに一貫性をもって構成されていることを」といった言葉で、「私なりに納得することができた」と、学者らしい批評の誠意を示している。
つまりは新人賞選考とは、作家たち自身の熱い基準を押し当てることと、通りすがりの読み屋がどんなふうに感じるかとのせめぎ合い、ということなのだろうか。では、その中で満場一致ということと、なんとなく全員が了承した落としどころ、というのと、どう違うのだろうか。またその結果、受賞しても単行本にならない作品に対し、大向こうの読者たちによる第三の評価はいつ、どのように吸い上げられるのか。
疑問はつきないものの、選者それぞれの人となりが、これほどくっきりとわかる場はまたとない。それこそ雑誌、文芸誌の本領だ。
谷輪洋一
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