日本には純文学系の小説文芸誌が5誌ある。「文學界」「新潮」「群像」「すばる」「文藝」である。純文学自体は世界のどの国でも、その国の言語と精神風土を代表する文学作品のことである。いわば文学の中の文学だ。詩でも小説、評論、エセー、童話、演劇(戯曲)であってもいいわけだが、日本の場合、純文学は小説に限定され、かつ基本的には大衆文学と対立項を為す制度的カテゴリーである。
日本の純文学が制度的に見えるのは、日本のいわゆる小説文壇が、実質的に文藝春秋社主催の芥川賞を中核としているからである。芥川賞は文學界を中心として、文芸5誌で新人賞を受賞した作家に与えられる新人賞の中の新人賞だという不文律がある。文學界が最も評価する私小説系の作品に与えられることが多いため、日本では純文学は小説でかつ私小説系作品だという認知が一般化している。
ただ21世紀初頭になって、このような制度的純文学は激しく疲弊し始めている。一般読者にとって純文学は、ずいぶん前から「ちっとも面白くないが、文学的教養や感受性を養うために読まなければならない、小説の専門家によってオーソライズされた作品」のことである。しかし我慢して読んでもたいていはタメにならない。むしろどこかで以前読んだような作品であることが多い。純文学小説の書き方がステレオタイプ化しているのである。
21世紀の情報化時代では、あらゆる社会ジャンルで制度を含めた知の組み替えが起こっている。日本語と日本文化を作品化した純文学小説は今後もなくてはならないものである。しかし作家も文学関係者も、曖昧なままなんとなく純文学と呼ばれてきた小説のアイデンティティを再定義し、新たな姿に更新しなければならない時期に差しかかっているようだ。
■文學界(文藝春秋社 月刊)とは■
日本の文学には「文壇」というものがある。これが何かを理解するのに、私は数年を要した。「文壇」とは一般読者とは基本的に無縁であり、別の基準で作品を評価する「場」である。実際、無知な読者がちやほやするものばかりを評価すると、文学的に優れた作品が廃れてしまうかもしれないからだ。
このような保護を必要とする「文学的文学」を日本では「純文学」と呼ぶ。「文壇」とはこの「純文学」の保護システムであり、作家に多くの収入はもたらさないにせよ、一定の名誉と居場所を与える。
これは世界では類例のない文学ジャンルで、その本質は「私性」にある。「私」の感じ方をミニマルに(四百字詰め三十枚程度で)描くことが中心となり、「純文学」は別名「私小説」とも呼ばれる。
文學界は本来、そのような「純文学」あるいは「私小説」の牙城というべき存在である。極論すれば、「文壇」とは文學界のことだともいえる。それは外形的にも、新人賞の枚数規定や、文學界の版元である文藝春秋社が「純文学」作家の登竜門といわれる芥川賞を主催し、その自社ビルに作家たちのユニオンである日本文藝家協会が入っていることからもわかる。
金魚屋プレスが文學界に期待することは、このように保護して持続すべき「私性」の文学が、日本文学にとって、どのような本質を形作るのかを明らかにしてもらいたいということである。日本文学にしかない微細な「私性」へのこだわりは、その頂点においてほとんどガラパゴス化しているが、文學界にはその最も特異な、最良の部分が結集していると言いたいのだ。
文學界の中心となるべき代表的な作家は、古井由吉であろう。他に車谷長吉など「私小説」の系譜を継ぐ作家たちの姿を見たい。
「私性」へのこだわりということなら、女性たちとも相性はよいはずだ。金原ひとみ、綿矢りさ、最近では朝吹真理子といった若い女性作家たちが芥川賞を受賞したことを疑問視する向きもあるが、彼女たちには「私性」の担い手としての可能性がある。実験的なエクリチュール・フェミニンに過度に流れなければ、「私小説」の系譜を踏まえた日本文壇の構成員となる可能性があるのだ。
日本文学における「私性」の根源は、源氏物語のような物語文学にではなく、随筆文学にあるように思える。その意味で、古井由吉の提唱する「エッセイズム」は本質的である。
誇張を含んだエッセイ、これが日本特有の「純文学」であるのかもしれない。私達は文學界で、その頂点を読みたい。
■新潮(新潮社 月刊)とは■
戦前からある文芸誌三誌の一つで、文學界に継ぐ伝統的な立場である。新潮社は芥川賞の代わりに三島賞を主催するが、これは文芸評論も対象となっている。
新潮社は比較的、小さな会社であるらしい。しかし文学の世界では「大新潮」という言い方があると聞いた。何に対して「大」なのかは、文学における「小」、つまり私性としての文藝春秋社に対してだろう(文學界の項、参照)。新潮は文学の世界に「私」を超えるもの、「社会性」を持ち込んでいる。
金魚屋プレスが新潮に期待するものは、文学における社会性=セルフの発現である。徹底したエゴに耽溺することが日本の私小説の伝統であり、新潮はそれに少し斜に構えた姿勢で臨む。公明正大な社会的正義は、そこでは通用しないからだろう。文藝春秋社の評論が、文学と無縁の場である雑誌、文藝春秋で完全に社会的言説として行われるのに対して、新潮はあくまで文学において批評的態度を保ち続けようとしている。
そのような性格から、新潮はその宿命として、優れた文芸批評家を出さなくてはならないだろう。しかし出版不況の現在、批評は小説以上に売れず、規模としては中小出版の域を出ないという新潮社にとって、それは営業的に厳しいに違いあるまい。
新潮から出た批評家の福田和也が、かつての吉本隆明のような時代の思考を規定するような論説でなく、ミニマムな文芸時評と並行して社会時評を行うことで、やや斜に構えた「大」を実現しようとしていることは、このような新潮の立場とも重なってみえる。
今のところ現実社会は文士のコメントを必要とするほど単純ではなく、文壇もまた、ミニマムな文芸時評で賑わっていたかつての状況ではなくなっている。批評を出してゆく力を失った新潮が、「大」の雰囲気を保つには、小説において社会性=セルフを示唆する作品を集める必要があろうが、それもまたなかなか困難なことだ。
小説の書き手の意識も矮小化され、自分しか目に入らないという気風が続いている。それが徹底したエゴとして私小説化されるでもなく、中途半端な社会的欲望にのみ敏感となれば、どっちつかずの通俗作品に堕するしかなくなる。
現在までのところ新潮はこの困難を、対談企画や特集プロジェクトで問題提起を図ることで耐え忍ぼうとしていると見られる。社会を捉える視点を持った作品がなければ、それもあまり元気いっぱいにはできないだろうが、いつかそこから何か期待できるものが生まれるかもしれない。
なお詩のジャンルに最も接近し、長く関心を寄せてきたのは、伝統三誌の中では新潮が一番である。詩は一見、短い私小説に近いものと思われがちだが、ごく一部の抒情詩がそれにあたるに過ぎない。また小説の「前衛」は詩をヒントにしてきたかもしれないが、詩が小説の前衛から学ぶものはない。
日本の代表的詩人、谷川俊太郎氏も言うとおり、詩は本来、社会性=セルフのものである。優れた批評家は思想家に通じるが、彼らは多く小説家でなく、詩人である。新潮の詩との親和性は、この点からも興味深い。
■群像(講談社 月刊)とは■
戦前から発行されていた伝統三誌の中では、最も新しい。もともと文学に縁が深いとはいえない大出版社の雑誌ということだが、戦後の「新しい」文学の風潮を作った時期もある。
文学=精神の二つの要素であるエゴとセルフをそれぞれ、文學界と新潮におさえられ、群像の領分は必然的に「前衛」となった。その「前衛」性がほどよく通俗性を備えたとき、「新しい」文芸風俗を生み出す結果となってきた。
エゴに埋没する「純」文学をテリトリーとしない群像もまた新潮同様、批評という他者目線を必要とする。新潮において他者とは「社会性」であるが、群像にとっての他者とは「前衛」を正当化する第三者である。
群像にとって、それは多くポスト・モダンの批評家ということになる。それらの批評は創作に接近し、批評と作品との混交をもたらす場合がある。
金魚屋プレスが群像に期待するのは、そのような混交を今よりいっそう意識的に行うことで、よりスリングな誌面を見たい、ということである。しかし群像にお遊びは似合わない。無謀なまでに無益であれば、そこに新たな「純」文学の凄みがのぞくだろう。それが大出版社の一編集部にどこまで可能か、そこを見てみたい。
大出版社・講談社の社是は「面白くてためになる」だが、死ぬほど退屈で、何の役にも立たない作品をこれでもか、と出してゆく部署が一つはあるべきだろう。群像そのものがポスト・モダニストなら、「なぜ、売れないのか」ではなく、「なぜ、私の小説はつまらないのか」とロブ・グリエのごとく問い続けるべきだ。
金魚屋プレスが見る限り、そんな最も群像的な作家とは、高橋源一郎だろう。文学的価値、作品の善し悪しなど、もはや関係ない。「文学」を壊しかねないレベルの低さ、ここにしか新しい「純」文学は存在し得ない。たとえわずかでも、そのような「危機」を孕んだ作家は群像の周辺にもめったにいないようだ。真の意味でポスト・モダンの危機を体現する作家は、世界的にもポール・オースターが思い浮かぶぐらいだ。
営業的成功という意味で、最も群像的と思われている作家は村上春樹だろう。群像はこの作家によって存在意義をアピールし、この作家一人によって社員に多くのボーナスをもたらした。
実際には群像の戦略の成果ではなく、角川書店の編集部とやりとりしていた村上春樹が、その名が角川の当時の社主と同じだったためにペンネームを強要され、それを嫌がって群像新人賞に応募したという、群像にとって偶然の幸運な経緯がささやかれているという。
その真偽はともかく、たしかに村上春樹のポスト・モダン性は、群像よりは角川のエンタテイメント小説的である。ポール・オースター的な世界の破壊や再構築の意図は見られない。村上春樹のイメージする世界像は、我々アメリカン・カルチャーの住民には、ごくなじみ深い。
つまりはアメリカ的雰囲気で、日本文学を脱構築する、という意味のポスト・モダン性にとどまる。「前衛」まで行き着かないからこそ、多くの(大衆的な)読者を得てもいる。
かつて日本にはサリンジャー作品を下敷きとした庄司薫という作家がいたが、欧米文学の日本的カスタマイズという側面については、この作家を参照すべきである。村上春樹の時代には、カスタマイズの宛先となるべき、日本文学の像がすでになかった、とも言える。
■すばる(集英社 月刊)とは■
すばるに対して、小説すばるという別の雑誌がある。集っているのが純文学作家と大衆文学作家という違いがあるという。
日本におけるこの二つの文学ジャンルについては、定義しづらい。特に「純文学」は時に応じてしばしば意味を変える。
すばるが純文学雑誌だということは少なくとも、文學界と同じ意味ではない。私性=エゴに徹した日本文学の伝統としてのエッセイズム、また文壇を担うという役割ではない。芥川賞という純文学の新人賞を受賞、またはその候補に上がる作家たちが書いている、ということだろう。
すばるは、その純文学作家たちの、むしろエンタテイメント的な面を見せようとしているかのようだ。彼ら、彼女らに別の側面からライトを当てて、親しみやすい魅力を引き出している。今の日本のような状況で、小説を気軽に手に取れるようにする演出は、あり得る。
したがって、すばるは小説すばるに接近する立場であるが、一番の特徴は「若々しさ」だろう。必ずしも著者すべてが若いという意味でなく、若い読者をターゲットにすると同時に、作品内容も若々しい感性を主題としたものが多い。
これは小説すばるが、かなり古株といわれる大衆作家を含む、どっしりしたエンタテイメント雑誌であるのと対照的だ。純文学の文芸誌の中でも、すばるが自身の立ち位置を「若さ」に置いたことには、伝統三誌との違いを出さなくてはならない理由があっただろうが。
たとえば、戦前からの伝統三誌に執筆している女性作家が、すばるでは元気な若い女の子に見える。もっとも作品自体は、どちらに書かれたものも大差ない。つまりは同じ作品でも、すばるに掲載された状態で読むとエンタテイメント的に思えるということは、一種の編集マジックとして面白い。
金魚屋プレスがすばるに期待することは、このような「若さ」の文学を独立したジャンルとして、より先鋭的に打ち出してゆくことだ。世俗に塗れる前の、若々しい感性は文学の普遍的なテーマとなり得る。純文学の「純」が、ここではそのような若さの「純」であってもいいではないか。真の文学者は皆、感性のみずみずしさを失わない。
営業的にも、そういった作品はロングセラーになるものがある。青春まっただ中の人たちは一握りだが、その世代は下から次々と育ってくる。
すばるの公式ホームページは他誌に比べて充実しており、またその性格上、美術や映画への目配りもあり、金魚屋プレスには興味深い。
■文藝(河出書房新社 季刊)とは■
既成の文芸五誌のうち、唯一の季刊誌ということだ。その特徴として、リトルマガジン性が感じられる。
以前の誌面はすばるが二十代後半までをターゲットにするのに対し、さらにより低年齢路線であったようだ。文字通りの「ガキ」のもつめちゃくちゃさをポップな文藝カルチャーとしようとしていた。現在でも、版元の河出書房新社は中堅出版社のグループであるヤングアダルト出版会に属している。
文芸誌が読者層として十代を想定するのは、しかしやはり無理があっただろう。現在の文藝は、「書くこと」と前提とした読者に向かっているようだ。「書き手と読者を結ぶ」のではなく、「書き手と読者が重なっている」。書き手を目指す若者の指南書か、副読本としてでなければ文芸誌は成り立たないというのは、日本の文芸ジャーナリズムのひとつの現実だろう。
ときに書き手の舞台裏を覗かせるような教育的サービスを交えながら、文藝は、有力な同人誌=リトルマガジンであろうとする。一人の作家にスポットを当てる特集も、スターシステムというより、文学業界の仲間、バースデイ・ガールを取り上げるような手つきだ。
金魚屋プレスが非常に興味深く思うのは、このような同人誌=リトルマガジン化が、必ずしも商業主義に反してはいない、ということだ。
日本での特定地方の有力同人誌の発行部数は、商業文芸誌を超える場合があると聞いた。ならば日本全国の書き手を目指す人々を「同人」として迎え、互いの作品を読み合うようなスタンスで、佳作を届けるというあり方は可能だ。
書き手と読み手が重なるという状態は、日本における俳句・短歌、また世界のどこでも詩のマーケットではほぼ常態である。ときに多くの読者をつかむものが出るのは喜ばしいが、それを目指すばかりが文学でもない。
文学者は「文の学者」だとすれば、「書くこと」について研鑽を重ねる専門家でもある。その専門誌としての文芸誌の役割をもう少し思い切って打ち出してみるのも、面白い。
金魚屋プレスが文藝に期待するのは、リトルマガジン性を通して、文学とは本来、どういうものだったかを思い出させてもらうことだ。
中小出版として様々な専門書や実用書を束ねている河出書房新社の手堅い経営ポリシーが文芸誌に発揮されることは、大出版のメセナとしての文芸誌のあり方よりも示唆に富む。少なくともそれは今後の文芸誌や文芸ジャーナリズムの向かう方向を考える縁となる。
文藝のホームページでは、電子書籍などへのアクセス、他業者サービスとのリンケージがきめ細かく設えられ、文藝自身がそれを真摯に検討していることをうかがわせる。
斎藤都
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■