瀧口修造とマルセル・デュシャン
於・千葉市美術館
会期=2011/11/22~12/01/29
入館料=800円(一般) カタログ=2300円
評価=総評・90点 展示方法・80点 カタログ・90点
千葉市美術館(以下千葉美)は平成7年(1995年)開館で、財団法人千葉市教育振興財団によって運営・管理されている。千葉市中央区役所との複合施設だが、昭和2年(1927年)竣工の旧川崎銀行千葉支店の建物ファサードが当時の姿のまま残されている。旧川崎銀を包み込むように新しい建物が建てられているのである。初代館長は日本美術史家で現MIHO MUSEUM館長の辻惟雄氏で、現在は浮世絵研究の権威・小林忠氏が館長を勤めておられる。いわゆる地方美術館の1つだが、優れた館長を迎え入れたせいか千葉美の見識は高い。年に数回は「これは見に行かねば」と思わせる展覧会を開催する美術館である。
今回は『瀧口修造とマルセル・デュシャン』展である。先に評価を言ってしまいます。実に素晴らしい展覧会でした。あとあとのことを考えて、少し抑えめに総評90点、展示方法80点、カタログ90点にしましたが、個人的にはほぼ満点を付けたいくらいです。このくらい心躍る展覧会は全国でも年に数回しか開催されないと思う。千葉美の学芸員・水沼啓和氏を中心に、瀧口コレクションを収蔵する慶應義塾大学アート・センター、富山県立近代美術館、および瀧口の遺族や親交のあった美術家、各地の美術館の全面協力の元に展覧会は開催されている。決してたくさんの来場者を期待できないと思うが、企画対象への愛と理解に満ちた展覧会だった。
瀧口修造は明治36年(1903年)生、昭和54年(79年)没の詩人・美術批評家である(享年76歳)。慶應大学在学中にイギリス留学から帰国したばかりの詩人・西脇順三郎に師事し、西脇とともに日本で最初のシュルレアリスム運動(超現実主義運動)の主導者になった。ただ西脇がその後、シュルレアリスムとは距離を置くようになったのに対し、瀧口は生涯シュルレアリストを自認した。戦前の難しい時代を生きた芸術家の一人であり、昭和16年(41年)には危険思想の持ち主として、画家・福沢一郎らとともに特高に検挙され8ヶ月間も拘留された(起訴執行猶予のまま釈放)。特高が注視しただけあって、当時の本家フランスシュルレアリスムは極めて政治色の強い運動体だった。また福沢の戦前作品には確かに体制批判的な主題が認められる。しかし瀧口にそのような要素はなかった。瀧口はシュルレアリスムを純粋な芸術運動として捉えていた。もちろん瀧口に批判意識がなかったわけではない。だが瀧口の批判意識が政治に結びつくことはなく、美術流通システムや出版ジャーナリズムなど、芸術を取り巻く現実社会に向けられることが多かった。
マルセル・デュシャンは1887年(明治20年)生、1968年(昭和43年)没の前衛芸術家である(享年81歳)。むしろ前衛芸術はデュシャンから始まると言った方がよいだろう。現代美術史はデュシャン以前と以後に区分されるほど巨大な存在である。ヨーロッパ全土が戦場になった第一次世界大戦後に、その荒廃した精神風土を反映するように芸術の世界にダダイズム運動が現れた。ダダイズムは既存の社会・芸術システムを全て破壊しようとするアナーキーな芸術運動だった。このダダイズムの中から、悲惨な現実の上位にある超現実(シュルレアル)によって、より良い現実世界を再構築してゆこうとするシュルレアリスム運動が出現したわけだが、デュシャン自身は最後までダダの精神を保持し続けた。
デュシャンが1917年(大正6年)のニューヨーク・アンデパンダン展に出品した『泉』はあまりにも有名である。市販の男性用小便器にリチャード・マット(デュシャンの偽名)と署名しただけの作品だが、これがレディメイド(既製品を作品とする新たな芸術形態)の嚆矢となった。またデュシャンは18年には油絵制作を止め、ガラス板の上に様々な素材を使って幾何学的図像を描いた作品を制作した。『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』(通称『大ガラス』)であり、意識的に制作された世界最初のコンセプチュアル・アート作品である。コンセプチュアル・アートは現実世界を模写した油絵などの作品(デュシャン的に言えば網膜的作品)とは異なり、作家のコンセプト(概念・思想)が表現された芸術である。ただデュシャンは23年(大正12年)に『大ガラス』を未完のまま放棄してしまう。またデュシャンは第二次世界大戦の混乱を嫌ってニューヨークに移住し、戦後その名声は高まる一方だったが、レディメイド中心の小品を製作するだけで新たな創作活動からは引退したと思われていた。しかし死後、秘密裏に巨大な立体作品『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』(通称『遺作』)が制作され続けていたことが公表された。芸術作品・運動においても、美術展示・流通システムに与えた衝撃という点でも、デュシャンは「現代美術」の基盤を作り上げた作家である。
前置きが長くなったが、『瀧口修造とマルセル・デュシャン』は、日本を代表するシュルレアリスト瀧口と、ダダイスムとシュルレアリスムの祖であるデュシャンを取り上げた展覧会である。カタログ巻末年表解説で神奈川県立近代美術館の朝木由香氏が「両者は、相互に影響を及ぼしあったのではなく、その関係の本質は瀧口におけるデュシャンの受容、すなわちデュシャンに対する瀧口の眼差しにあったと考えられる」と書いておられるように、正確には瀧口におけるデュシャンの影響に焦点を当てた企画展である。瀧口に限らず、デュシャンは世界中の美術・芸術家に影響を与え続けた。しかし少なくともデュシャン生前において、その関係が完全な一方通行だったわけではない。デュシャンは瀧口らに素っ気ないが愛情のこもった視線を注ぎ続けた。彼らは共通の思想で結ばれていたのである。
瀧口は昭和33年(1958年)に、スペインのポルト・リガトにあったサルバドール・ダリの家で偶然デュシャンに会った。この時は少し言葉を交わしノートにサインをもらっただけだったが、翌年から断続的に書簡による交流が始まった。瀧口が夢想したオブジェの店のためのデュシャンの偽名・Rrose Sélavyの使用許可や、昭和43年(68年)に刊行された瀧口の著書『マルセル・デュシャン語録』関係の問い合わせが主だが、デュシャンは瀧口の要望にほとんど無雑作なまでの気軽さで応じ、時には無償で作品を提供している。そこには芸術を概念だけでなく流通経済価値まで含めて転倒しようとした、ダダイスト・デュシャンの一貫した思想がある。デュシャンが瀧口を、同じ思想を共有する同士と捉えていたのは確かだろう。それはデュシャン死後に、未亡人ティニー夫人が瀧口に示した厚遇からもうかがい知ることができる。
そのような2人の関係を、カタログ冒頭に寄せた文章で、仏文学者の巖谷國士氏は「デュシャンが透明なガラスに似ているとすれば、瀧口修造のほうはガラスのない透明な壁に似ていた」「デュシャンはほぼ完璧に自己完結していた人物であり、どんな作品も一種の自画像として制作した。瀧口修造は逆に自己完結をこばみ、たえず他者とかかわる私的で詩的な言葉とオブジェの遊びを選んだ」と的確にまとめておられる。デュシャン作品は光の加減で色や質感が変わるガラスのように多面的でとらえどころがない。しかしガラスは頑としてそこに在り、それを乗り越える(打ち破る)のは容易ではない。質は異なるがそれは瀧口も同様である。瀧口の仕事の全貌を理解するのも簡単ではないのである。
瀧口の仕事は『コレクション瀧口修造』(みすず書房・全13巻)にまとめられている。しかし彼は単純な文筆家(詩人・美術批評家)ではなかった。瀧口は文章のほかに絵やオブジェを作り続けた。それは小さな紙片から、プロの美術家を巻き込んだ完成度の高い大きな作品まで多岐にわたる。瀧口は「創作者」としか言いようのない作家である。デュシャンは作品を透明なガラスのように客体化(オブジェ化)することで、見る者にかえって強く作家を意識させる自己完結型の作品を作り出したが、瀧口は様々な人・モノ・概念が激しく出入りする部屋の中で、それぞれの出会いへの初々しい驚きに満ちた作品を作り上げた。透明(客観的)に見えるデュシャン作品は実は強い作家性に貫かれており、その多くが個人的贈り物として制作された瀧口の主観的作品は、彼のアウラで満たされてはいるが、奇妙に実存的存在格が希薄な透明な部屋の中から生み出されているのである。
展覧会は瀧口がデュシャンに会った昭和33年(1958年)以降の2人の仕事に焦点を当てて構成されている。瀧口は1960年代初頭からジャーナリスティックな文筆活動に疑問を感じ始める。やがて友人・知己の著書紹介や個展への短文に文筆活動を絞り込み、そのかたわら手作りの絵やオブジェを制作するようになった。シュルレアリスムは本来、現実世界では実現不可能な高次の現実(シュルレアル)を追い求める芸術運動だが、シュルレアリスト瀧口の中でついに制度的な「書くこと」と「描くこと」の境界が溶解し始めたのである。このような時期に瀧口が強い関心を示したのがデュシャンだった。瀧口は「私がデュシャンに惹かれる最大の理由のひとつは、彼が言語を一種のオブジェ化したことである。というよりも、それがオブジェをも暗に言語と化していることと関連しているからである」と書いている。当時の美術界では、デュシャンはもう終わってしまった大家だった、しかし瀧口はデュシャンを生きた可能性として捉え続けた。実際、デュシャンは『遺作』を制作し続けていたのだった。瀧口のデュシャンへの注視は作家の鋭い直感に支えられている。
僕はこの展覧会で、ようやく瀧口・岡崎和郎共作の『検眼圖』(デュシャンの『大ガラス』の一部分を立体化した作品)を見ることができた。また小品が多かったがデュシャン作品も素晴らしかった。この展覧会を見た多くの人は、展示作品に対して激しい所有欲をかきたてられたのではないかと思う。彼らの作品は時に奇妙な創作であり、時になんの変哲もないレディメイド(既製品)だが、なんとも言えない魅力を放っている。特に瀧口の個人的かつ抒情的作品は、実際に所有して眺め続ける時に最も魅力を放つだろう。瀧口作品は彼の豊かな内面を伝え続けている。しかしそれが、一種の美術館マジックであることも忘れてはならないだろうと思う。
美術館は清潔な墓場でもある。デュシャンはその名声とは裏腹の清貧に甘んじたが、瀧口の生活はもっと厳しかった(瀧口を知る人たちは、彼がどうやって生活費を工面しているのかいぶかしがっていた)。彼らの苦悩や苦闘は作品が美術館に展示される時にはすべて洗い落とされている。1960年代から70年代にかけて、瀧口の影響を受けたオブジェとテクストを合体させた豪華本などが日本で盛んに制作された。しかしそれらは一過性の流行で終わっている。瀧口やデュシャンのオブジェが魅力的なのは、それらがほとんど肉体と化した彼らの思想に貫かれているからである。表面だけ見ても彼らの本質は理解できない。
今回の展覧会は、文筆家瀧口ではなくアーチスト瀧口に焦点をあてたものである。その意味で最新瀧口研究の成果が発表されているが、期待を裏切らない質の高さだった。今回の展覧会カタログは、瀧口研究者・愛読者にはもちろん、シュルレアリスムやデュシャン研究者にとっても必携のものとなるだろう。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■