仮面ティーチャー
日本テレビ
土曜日 24:50~
ヤンジャンに連載されていた漫画が原作である。学園の悪、暴力と金による権力に立ち向かう仮面ティーチャーで、もちろんあの仮面ライダーのパロディでもあり、それへのオマージュでもある。
しかし、いわゆる仮面ライダーと見比べると、変身ものの正義の味方というのにはたいしてバリエーションは作れないことがわかる。変身してしまえば、あとは型にはまるしかない。せいぜい何かハンディキャップを負わせて、はらはらさせるのが関の山である。
平成仮面ライダーでは、もちろん主人公の仮面ライダーに変化をもたせようとしている。しかしその結果、たいていのそういう試みがそうなるように、正義の観念があやふやとなり、悪役との本質的な差異が失われてゆく。
現実の闘いというものは、無論そういうものであるから、正義と悪とにリアリティを与えている、という意味ではむしろ教育的であるとは言える。「悪との戦い」なんてスローガンを真に受けているようでは、少なくとも日本のように民度の高い国では、成人は務まらない。
だが、それを馬鹿馬鹿しくあり得ないと見切る大人になるためには、一度は正義という観念を教え込まれる必要があることも確かだ。観念である。観念にすぎない。現実に具現化することは極めて少なく、それを声高に叫ぶということには眉に唾をつけなくてはならない。が、その観念が出発点となり、社会的なバランス感覚が育まれる。
子供の内面の何事かを育むという目的においては「ヒーローを正義の象徴として措定する」ことは欠かせないが、表現することの現場においては、エネルギーを傾け得る対象とは悪役の方であり、結局のところ「何を悪と規定するか」しか表現者からのメッセージとなり得るものはない。
昭和の仮面ライダーをはじめとするヒーローものも、あるいは平成仮面ライダーたちも、その敵は時代々々の恐ろしいもの、憎むべきものとして人々に認識されていた何かの、やや抽象的な具現化である。ナチの残党であったり冷戦構造であったり、資本家という名の金の亡者、あるいは漠然とした不安感…。それら「敵」に対する時代それぞれの表現者の批評意識が、実際には表現の中心である。
仮面ティーチャーは、そのような悪として規定し得るものが、もはや学校にしか見出せない、という意味でパロディ的な批判意識が働いていると言える。それは疑問の余地のない絶対的な悪に近いものだ。 今の世の中で、反論される気づかいのないコメントとは、いじめを非難するものぐらいではないか。
学校の悪と戦う仮面ティーチャーという存在も、まごうことなき正義の味方になり得る。多少、間抜けであるというお約束もまた、彼の正義を際立たせ、生徒たちが渇望する教師への共感を呼ぶ。人物設定が正義の観念を脱構築することはないのだ。
恐るべき深夜に放送される「仮面ティーチャー」は、本筋の平成仮面ライダーよりも、かつての仮面ライダーを知る大人たちに、正義と学校の二つのノスタルジーを抱かせる。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■