江里昭彦氏の〈角川書店「俳句」の研究のための予備作業〉(以下「予備作業」と略す)は、初出が「夢座」という俳句同人誌でしたが、初出の翌年には「週刊俳句Haiku Weekly」というウェブマガジンに再掲出されています。そのいきさつはわかりませんが、おそらく「夢座」で読んだだけなら、このように時評というコンテンツで取り上げることはなかったと思います。それはなにも「夢座」が取り上げるに値しない雑誌だといっているのではありません。「夢座」に関する知識は不勉強ゆえ全くありませんが、掲載されたのが166号ということから、極めて活発な活動を永続的に続けている同人誌であることが伺えます。
しかも、このようなアンチ角川「俳句」というべき反主流派的な評論を掲載するからには、俳壇にけんかを売るぐらいの覚悟がなければやってられません。「夢座」はどうやらその名前とは裏腹に極めて硬派で熱気にあふれた、ということは「文学金魚」好みの同人誌ということができそうです。ではどうして取り上げようとしないのか。それは他でもありません。「夢座」が同人誌=結社誌であるからです。
全国に1000以上あるといわれている結社誌(同人誌)ですが、そのほとんどが結社の同人をはじめとした限られた読者です。それは雑誌というメディアの体裁はとっていますが、いわゆる商業雑誌が不特定多数の読者を想定しているのに対し、結社誌は結社内の「同好の士」に読者を限っている、という意味で「閉じたメディア」といえるでしょう。「夢座」にしてもおそらく、同人以外にも広く献本や販売をしているとは思いますが、たとえ商業誌に匹敵するだけの部数(ありえませんが)を発行しているとしても、同人誌という形態を「選択」している以上、本質的に「閉じたメディア」ということになります。
一方で「週刊俳句Haiku Weekly」はどうでしょう。こちらはインターネット上にサイトを立ち上げて以来、すでに6年以上に亘って定期的な更新を続けている、良心的且つ信頼に足るサイトであると思われます。掲載されている俳句作品や評論の執筆者は、どうしても若い世代が中心のようですが、結社や同人誌の垣根を超えて、不特定多数とはいわないまでも結構な数の執筆者が集っているようです。内容にしても狭い範囲の読者に限定された、内輪受けを狙った作品や評論とは見受けられませんし、そもそもインターネット上のサイトというだけで、それは読者を選ばない「開いたメディア」ということができるでしょう。
「夢座」と「週刊俳句Haiku Weekly」それぞれに掲載された「予備作業」のテクストに異同があるかどうかわかりませんが、仮に同じテクストだとしても、同人誌という「閉じたメディア」で目にした場合の第一印象はどうでしょう。とくに「予備作業」のような批判的な論旨は、結社という狭い共同体内でしか通用しないドグマとして、はなっから敬して遠ざけられるとしても不思議ではないでしょう。たとえ読まれたとしても、個人的なうらみつらみに発した体制批判などと訝しがられるのがおちです。
その点「週刊俳句Haiku Weekly」で目にすれば、ネットという誰でも閲覧可能な「開いたメディア」の特性から、外部の不特定多数の読者へ向けて広く自論の是非を問う、というアグレッシブなイメージで捉えられる可能性があります。こうした著者自身の積極性や熱意こそが、結局は読者をして十分な読解や共感へと向かわせるのです。このように同じテクストでも、掲載されるメディアによってその後の読者のコミットメントに差が出ます。もちろんこれはテクスト論としてではなく、あくまでもメディア論の立場でいっています。
「予備作業」の後篇は、角川「俳句」を俳壇における覇権を確立したメディアと捉え、覇権までの道筋を「総合誌」というメディアの特性に探っています。その背景には、いわゆる「総合誌の時代」という、戦後俳句史に初めて登場した「メディア」中心主義的な視点があります。そして角川「俳句」の未来を、メディアそのものの盛衰に追っていきます。
俳句ブームが去ったことで、かつての威勢を失い、落ちぶれてしまった「俳句」誌。しかしながら、依然としてこの誌は俳句商業誌のキングである。俳壇が角川「俳句」を中軸に動いていくという構図に、たいして変化は見られない。なぜかというと、「俳句」誌は単なる商業誌ではなく、唯一の〈格づけ機関〉であるからだ。
(「予備作業」より)
江里氏は「落ちぶれた」と「俳句」誌を評価していますが、ブームの頂点だった頃から比較すればという話であって、俳壇における一誌独裁体制は続いているようです。しかも、唯一残った〈格づけ機関〉として、「公器」たるべき地位はますます揺るぎないものになりつつある、といっても過言ではありません。「俳句ブーム」がもたらしたのが角川「俳句」の「数的優位」だとすれば、その「質的優位」は「俳句ブーム」以前にその端を発します。つまり角川「俳句」の〈格づけ〉そのものの質が認められてきた経緯を探るには、「俳句ブーム」と切り離して考えたほうがわかりやすいと思われます。前回もいいましたが、「俳句ブーム」にしろ「数的優位」にしろ、過ぎてしまえば「まぼろし」に過ぎません。
戦前の俳句史に大きく貢献した旧「俳句研究」が尊重されるのは尤もなことであるが、それでは、後発の「俳句」が、後発であるにもかかわらず、先輩格の「俳句研究」を凌駕するほどの〈格づけ機関〉としての威信を獲得できたのは、どうしてなのだろうか。この疑問への回答は、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての俳壇の動向のうちに隠れている。
(同)
江里氏の指摘どおり、「俳句」誌の〈格づけ〉が俳壇によって「格づけ」されたのは、1952年の創刊からほぼ10年間にあるようです。それは、日本が戦後の混乱期を抜け出し、高度経済成長へ踏み出す準備をしていた時期です。つまり戦後の日本人の多くが、自国の「文化」に対する欲望を回復し得たといえる時期です。もちろん「俳句ブーム」はまだその萌芽すら見せてはいません。そしてこの頃から「総合誌の時代」が始まったと江里氏は指摘しますが、その際に歌壇における角川「短歌」の創刊(1954年1月)を例として取り上げていることから、「総合誌の時代」が俳句ジャンルに限ったことではないことがわかります。
ではいったいなぜ「総合誌の時代」なのか。江里氏は、「時代はすでに総合誌を中心に動いており、これから地歩を固めたい多くの俳人は、『自分をどれだけ高く買ってくれるか』と、総合誌の意を迎えることに汲々としている」とか、「要するに、総合誌の時代は、その始まりにおいて、『俳句にとって資本主義とはなにか』という命題をそこに匿していたのである」というように、「総合誌の時代」を、角川書店という大資本の参入に対する俳人の期待感がもたらした「当然の成り行き」であり、資本の力が文学を操るまでに至った「当然の結果」として、あえてその発生理由を探ろうとはしていません。
前回も取り上げましたが、同じ「週刊俳句Haiku Weekly」に掲出された神野紗希氏による俳句メディア論「総合誌の時代の終焉?これからの俳句とメディア」から、時代が総合誌を必要としてきた理由と神野氏が考えている箇所をいくつか引用してみます。
俳壇において、ながらく公器の役割を果たしてきたのは、おそらく総合誌のほかにない。今、俳句の世界ではなにがポピュラーで、どんなことが話題になっているのか。その言説を作り出してきたのは、間違いなく総合誌だった。
総合誌に代わる公器は、俳壇にまだ存在しない。(中略)「俳壇なんていらない」「ただ好きで俳句をつくっているだけ」といってしまえばそこまでだが、俳句に関わる人間がみなそのようにひらきなおったとしたら、そこで俳句の表現史は頓挫し、ほんとうに、俳句は遊びの道具になってしまうだろう。外部から俳句を眺めたときにも、いったい何が起きているのかわからなければ、ジャンルとして取り残されていってしまう。
新人発掘・作家プロデュース、それから良質な評論の掲載。これは、まだ現在、「みんなが読む」可能性のある総合誌でしか、十分には実現できないことなのである。
(以上は全て「総合誌の時代の終焉?これからの俳句とメディア」より)
メインタイトルに付けられた「?」という疑問符からも伺えるように、神野氏はいまなお総合誌が必要だという前提のもとで、その理由をわかりやすく本音で語っています。神野氏も江里氏と同じく、なぜ時代が総合誌を必要としたのかについては触れていませんが、ここまで来ればそれも大方想像がつくと思われます。つまり、江里氏の「格づけ」にしろ神野氏の「公器」にしろ、「俳句は文学である」というアイデンティティ確立のための手段であるということです。「俳句は文学の一ジャンルである」と認識することが、「時代」が俳句に要求した究極の目的で、そのための方策が「総合誌」だったというわけです。
そうした「時代」の要求がどこに起因していたのかといえば、戦後間もなく俳壇を巻き込んだ「第二芸術」論争に行き着きます。仏文学者の桑原武夫氏が1946年に発表した「第二芸術―現代俳句について―」と題する論文によって、乱暴にいえば文学の地位に疑義を投げつけられた俳壇ですから、なんとかしてその名誉を回復したいと、振り返ればやすやすと、その挑発に乗ってしまったわけです。今から考えれば、それは俳句にとって極めて不毛な論争だったかもしれませんが、論争そのものはさておき、その過程で俳句は自分たちの「外部」に訴求するためのメディアの必要性を痛感し、「公器」を託すにより安定したメディアを求めたといえるでしょう。こうして「総合誌」は、現代俳句を「文学」として内外へ認知させるという、メディアとして重要な役割を果たしてきました。江里氏は、その功労者こそ草創期の角川「俳句」であるとし、特に俳人の大野林火と西東三鬼を編集長に据えた「俳句」誌を評価するため、飯田龍太の証言を引き合いに出しています。
彼(飯田龍太)は「俳句」誌が、新人発掘に際して発揮したその見識に、敬意を表しているのだ。(中略)総合誌は伯楽でなければならぬ。その見識と力量は、俳句の未来を担う力を汲みあげることができるか否かにかかっている――おそらく龍太はこういいたいのだろう。実際のところ、彼が列挙した錚々たる顔ぶれは、感動のあまり、膝がわなわな震えるほど素晴らしい。この一群の新人たちは、まさにその後の俳句を〈決定〉した。龍太の記述は過褒でも誇張でもない。そして、戦後登場した新人たちが「俳句」誌へ寄せる信頼は、この時期に不抜のものとなったのであろう。
(「予備作業」より)
江里氏が膝を震わせるほどの顔ぶれとはいかなる俳人か。龍太が50音順に挙げた23名あまりから数名をピックアップしてみるとこうなります。飯田龍太・桂信子・金子兜太・沢木欣一・鈴木六林男・高柳重信・野沢節子・野見山朱鳥、能村登四郎・原子公平・細見綾子・森澄雄・・・これは大野林火「俳句」編集長が、31年4月号で行なった「戦後新人50人集」に登場した俳人で、いずれもが戦後俳句をリードした点で異論の入り込む余地すらないでしょう。驚くべきはその多様な人選で、当時「俳句」は伝統俳句の俳人協会をバックアップしていたはずですが、にもかかわらず兜太・六林男・重信といった社会性俳句や前衛俳句にも目が向いています。もちろん角川源義も入っていますが、身内だからというだけの理由ではなく、俳人としても充分優れていることを評価したからに違いありません。
前出の神野氏も「総合誌」の役目に新人発掘を挙げていましたが、「総合誌」には俳句の未来がかかっている、といっても過言ではありません。そして大雑把にいえば、俳句の未来は角川「俳句」が敷いた路線どおりに進んでいった、といえるのではないでしょうか。それは決して偶然ではなく、また「資本」の力だけによるものでもありません。優れた「伯楽」がいて、優れた「仕事」を積み重ねた、それは当然の結果なのです。そしてそうした「伯楽」に「仕事」をさせた優れた「資本」が、たまたま角川書店だったというわけです。
草創期の優れた編集の成果と、冷戦期に守護神として後見した実績とを、まばゆい資産として、「俳句」誌は〈格づけ機関〉としてゆるぎない威信を獲得していたからである。「俳句」誌の優越は、まさに戦後俳句史にしっかりと根を張っている。
(同)
こうした結論だけでも充分「予備作業」の役目は果たされたといえるでしょう。が、江里氏が「予備作業」に託した本当の目的は、さらにこの先の「未来」にあるようです。それは、「総合誌」という既存のメディアが、「インターネット」という新たなメディアに凌駕される未来です。つまり江里氏は、「今後も雑誌形態で総合誌が発行されつづける必要性はない(同)」といい、ゆえに角川「俳句」という「雑誌」は消滅すると予測しています。
しかし、だからといって〈格づけ機関〉としての「総合誌」が不要になるとは考えていないようです。「格づけ」が俳句の「未来」を創り出すために不可欠なのは、ほかならぬ俳句史が証明しているからでしょう。であれば、角川「俳句」にはインターネットにそっくり移行して生き残る道があるとはいえないでしょうか。もちろんことはそう単純には運ばないようです。江里氏はインターネットの登場によって、メディアによる世代の分断が起こり、それは俳壇自体の分裂として深刻化するだろうと危惧しているからです。
高齢者はおおむねインターネットの操作が苦手であり、雑誌に依存せざるをえないからだ。対して、それより若い世代はインターネットを自在に駆使して活発に発信している。(中略)これは、考えようによっては、現代俳句協会と俳人協会の分裂よりも由々しき事態かもしれない。インターネットと無縁な高齢者層と若い世代とでは、接する俳句の世界が異なるのだから。(中略)つまり、共通の俳壇というものが成立しなくなり、割れていくのだ。
(同)
とはいえ、インターネットが高齢者にまで普及するのは時間の問題でしょうし、若くてもインターネットを利用しない俳人がいないとは限りません。ここまで来ると江里氏の論も、アンチ「角川俳句」の「アンチ」ばかりが目立つようになり、かなり一方的な感情論に走っているように見受けられます。「俳句」誌の創刊60周年記念特集を「生前葬」と呼ぶのは勝手ですが、その根拠をもう少し具体的に示す必要があるでしょう。インターネットというメディア力だけに角川「俳句」の葬送を託すのでは、いささか説得力に欠けるといえるでしょう。せっかく緻密な例証をもって展開してきた論だけに残念です。
前述したように、メディアには「開いたメディア」と「閉じたメディア」があり、いずれかに掲載することによってテクストの印象が微妙に変わってきます。その変化を見据えたうえでメディアを「選ぶ」ことこそ、ポスト「総合誌の時代」に課せられているといってもいいでしょう。いってみれば、戦後長きに亘って続いてきた「総合誌の時代」とは、「俳句ブーム」という偶然に支えられてきたといえます。ブームが緩やかに衰退しつつある今、いずれ「総合誌」は市場から駆逐されるかもしれません。が、だからといって別のメディアが取って代わり、新たな時代を創るかというとそうではないでしょう。
おそらくこれからは、雑誌だけ、ネットだけ、書籍だけでは、その影響力が限られてくる。(中略)企画に応じてメディアを選び、メディアに応じて企画をつくる。その中で、必要な資金を捻出できるように運営する。そうして作られた、できるだけたくさんの人が訪れる可能性のあるクロスメディアのプラットホームが、新しい時代のひとつのモデルになり得るのではないだろうか。
(「総合誌の時代の終焉?これからの俳句とメディア」より)
神野氏が指摘するとおり、「総合誌の時代」というひとつのメディアがジャンルの覇権を握る時代は終わり、メディアがその特性にあわせて利用者から選ばれる時代に自然と移行するのは確実と思われます。ここで「自然と」といういいかたをするのは、江里氏が「予備作業」の最後で提出した「俳句にとって資本主義とはなにか」という問題とは裏腹に、「資本主義」が俳句を動かし得るのは「まぼろし」ではないかと考えるからです。たしかに「総合誌の時代」において、「資本主義」が俳句に影響を及ぼしたのは事実かもしれませんが、そうした時代は確実に終わりつつあると思います。
「資本主義」にしろ「メディア覇権」にしろ「俳句ブーム」にしろ、そうした「文学外」ともいうべき力によって、俳句が本質的な影響を被ったと思えるような痕跡は、いったいどこにあるのでしょうか。俳句という長い伝統に立脚し堅固な形式を備えた文学にとって、「資本主義」とは「まぼろし」のような、通り過ぎれば消えてなくなるものなのではないでしょうか。俳句が本質的な影響を受けるのは、文学以外にありえないと思います。
極論かもしれませんが、優れた文学者がひとりでもいさえすれば、俳句はその影響を受けて本質的に変化する可能性があると思います。もちろん変化の振り幅はまちまちですし、必ずしもそれが伝統として定着するとは限りません。そのうえでひとつの例を挙げるならば、俳句を行分けで表記する多行形式俳句を創出した高柳重信がいました。戦後の前衛俳句の主導者であり、かつては角川「俳句」のライバル誌だった「俳句研究」の編集長としてこのコンテンツでもなんどか取り上げましたが、彼が俳句形式に及ぼした影響は、いっときの前衛=反伝統派として片付けるには惜しいと思われます。
こういうと「それは俳句形式に限った話ではないか」、と反論する方もいらっしゃるかと思いますが、それに対して即座に、「俳句形式こそ俳句の本質である」、と切り返す「確信」を重信は残してくれました。また、俳句の「俳」という、誰もが理論化し得なかった概念を、「詩」という「文学」に置き換えることで少しでも理論に近付け、俳句形式という可視の方法として論ずることを試みました。それは決して成功したとはいいがたいですが、にもかかわらず多くの後続世代に影響を与え、いまなお俳句を活性化するための原理的思考の拠り所となっています。
もちろん資本主義やメディア論から俳句を捉え直すことが無意味とは思えませんが、そうした俳句外部からのアプローチでは、俳句を状況や規則(=習慣)としてしか認識し得ず、文学という広い視野を得られないでしょう。俳句は日本文学にあって最小の形式で成立し得るジャンルですが、それだけに歴史的な変容の度合いも至って小さいといわざるを得ません。つまり、極めて変化を受けずらく、且つ変化が現れにくい文学形式といえます。そうした文学に正面から関わっている以上、根気強さこそが不可欠な資質に違いありません。ブームやマーケティングのような性急さとは無縁な資質こそ求められるべきです。
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5月号の「俳句」誌からは、次代の俳句を担う新鋭をひとり。「新鋭俳人20句競詠」から、涼野海音氏という若手俳人の、「春の風邪」と題する20句を取り上げます。プロフィールによれば、氏は昭和56年生まれの32歳で、2年前の第3回石田波郷新人賞を受賞しています。20句のなかから「新鋭らしい」と思えるような句を抄出してみます。
キューピーの砂場に立てる余寒かな
春の雪キリンに長きまつげあり
亀鳴くやペンキまみれの繋ぎ着て
パソコンの画面に海や春の風邪
短夜のトランク曳けるコンコース
オリーブの島より戻りゐし日傘
新鋭=若者=外来語という単純過ぎる連想が働いたわけではないのですが、奇しくもカタカナ語の混じった句ばかり引用してしまいました。涼野氏がどういう理由で20句を選び、どういう意図を20句に託したかはわかりませんが、他ならぬ「俳句」誌に掲載するのですから、たまたま手元にあった句をかき集めて送ったわけではありますまい。ですが、氏の20句から戦略的な企図は読み取れません。それどころか新鋭特有の自意識とか自己愛とかいった過剰なアイデンティティは微塵も見受けられません。適切な言い方ではないかもしれませんが、当たり前の風景を当たり前に描写した俳句らしい俳句で、冷静なセルフコントロールのもとで詠まれている点に好感を覚えました。それでいて涼野氏らしいとしかいいようのない叙情が、作品のなかに佇立しているのが感じられます。あえて言葉を当てれば「アンチポエジー」という詩の用語が浮かびますが、おそらく作者自身にそうした意図はなかったはずです。
毎日、10句詠んで、そのうち1句を残す。10年間、このやり方で俳句を詠んでいる。季語と対話しているうちに「自分はこう詠むしかない」という瞬間が必ず来る。そんな瞬間にできた句は、毀誉褒貶に関わらず残しておく。それでなければ、私が俳句を詠み続ける意味はない。
(「詠み続けるということ」全文「俳句」5月号より)
20句に添えられて掲載された氏の短文を全文引用しました。俳人なら誰もが頷くはずですが、1日に10句を毎日作り続けるのは並大抵ではありません。それは血反吐を吐く苦行といっても過言ではありません。氏はそのように詠んだ10句のなかから、わずか1句だけ残すことにしているといいます。厳しい姿勢というより、なんともったいない話ではないでしょうか。しかもそれが10年に亘ってということは、氏が俳句を読み始めて以来ずっとということになります。げに恐ろしき新鋭なのは間違いありません。
恐ろしいのは10句詠んだうちの9句を棄てることではありません。もちろん数の問題でもありません。それは氏の創作が正確無比な習慣であることです。おそらく人間という生物としてではなく、無生物として、機械として創作している、といったほうが感覚として正確かもしれません。企業社会では「ルーティンワーク」というと、「ノルマ」やら「消極性」やらといった負のイメージと捉えられがちですが、創作行為を考えるとき、「ルーティン」には作家の自意識という厄介な邪魔者を作品から排除し易いというメリットがあると思われます。メリットといいましたが、あくまでも「自意識=邪魔者」と考える作家であれば、という前提でのお話です。が、推測するに涼野氏は、俳句にとって「自意識」や「アイデンティティ」は明らかに邪魔者だ、と考えているはずです。時評なのでこれ以上は踏み込みませんが、最後に氏の名前は「すずの うみね」と読むそうです。「俳句」編集部には、難読かどうかに関わらず、新人作家の氏名には是非ルビを振ってとお願いしたいです。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■