〈角川書店「俳句」の研究のための予備作業〉(以下「予備作業」と略す)によれば、「俳句ブーム」の萌芽にあたる1970年代後半、毎号250ページ前後であった角川「俳句」でしたが、およそ20年後の1994年5月号は「創刊550号記念特別号」ということもあって、500ページに達する大冊だったとのことでした。その前後の93年・95年にしてもそれぞれ370ページ超と、20年間で150ページ以上増えていることになります。
さらに、ブーム到来前には「俳句」・「俳句研究」・「俳句とエッセイ」の3冊だった俳句総合誌(商業誌)も、84年の「俳句四季」(東京四季出版)と「俳壇」(本阿弥書店)、92年の「俳句あるふぁ」(毎日新聞社)と「俳句文芸」(版元不明)、95年の「俳句朝日」(朝日新聞社)と「俳句界」(文学の森)という前例のない創刊ラッシュによって、最盛期はなんと9誌が刊行されているという俳句史上の「異常事態」でした。
こうして数字を並べると、「俳句ブーム」の頂点が手に取るように見えてきますが、ブームがいつしか翳りを迎えるのも世の常で、現在の角川「俳句」がブーム前のページ数まで落ちていることやら、俳句商業誌の休刊にかこつけた淘汰やらはご承知のとおりです。江里氏が「数字は嘘をつかない。しかも雄弁である」と「予備作業」のなかで断言しているとおり、確かに数字という「客観性」は「マーケティング」といったような「マス(=集団)」の動向を正確に表現し得ると同時に、瞬間的とはいえなんといってもその説得力はピカイチです。そういえば、つい最近も俳壇の長老と思しき大尽いわく「なんといったって俳句人口は○千万人にのぼり云々」、また俳句を世界文学にしようと駆け巡るグローバルな大学教授いわく「世界中○百カ国で俳句を作っている外国人が○万人に達し云々」と、数字によって「俳句ブーム」の延命を図る声が絶える気配はありません。
このお二方が語りたかったのは、文学という市場における俳句の、また俳壇という市場における世界俳句の、それぞれの「覇権」に他なりません。が、江里氏はこうした俳句における「覇権」自体ではなく、「覇権」という欲望を生み出した「俳句ブーム」そのものを問題視しています。だから「予備研究」の中篇で語られるのは、「ブームの最盛期たる九〇年代にこそ、今日の俳句を歪め、また悩ませている多くの問題が、初期の姿で見いだせることにわたしは注意を促したい(「予備作業」より」というとおり、今日まで続く俳句の問題点の根っこともいうべき問題です。江里氏はそれを次のように三つあげています。
第一に、「俳句研究」の基本路線を継承しようとした「俳句空間」の誕生とその撤退が投げかけた意味である。
第二に、結社がブームにゆさぶられ、変質を強いられたことである。
第三に、俳句総合誌が商業誌の本質をむきだしにするなかで誘発した、読者の劣化という事態である。
(「予備作業」より)
この第一の問題に出てくる俳句総合誌「俳句研究」とは、高柳重信を編集長に擁したころの旧「俳句研究」のことです。前回の復習になりますが、「伝統派」=「俳人協会」=「角川俳句」という保守的な旧派に対し、「前衛派」=「現代俳句協会」=「旧俳句研究」という前衛容認派(前衛を容認する伝統派も含みます)の新派が対抗していた時期がありました。もちろん数的には前者が後者を上回っていただろうことは想像がつきますが、とはいえ前回も書きましたが、後者の「質的」=「文学趣向的」なアドバンテージによって、はたからは俳壇を二分した対立のように見えました。ところが旧「俳句研究」は編集長である重信の急逝により休刊に追い込まれます。重信という拠り所を失った前衛派は、後ろ盾だった「俳句研究」に代わるメディアとして「俳句空間」を立ち上げます。
あるとき、夏石番矢に「俳句空間」創刊のいきさつを訊いたところ、「あれはみんなで金を出しあったんだよ」という話だった。ただし、注釈が必要で、この場合の「みんな」とは、重信の薫陶を得、「俳句」誌の君臨をこころよく思わない面々の意味であって、この範疇に含まれないわたしには資金拠出の呼びかけすらなかった。
(同)
重信は「俳句研究」の編集長であると同時に、同人誌「俳句評論」の主宰者でもあったわけです。同人誌とはいえ「俳句評論」には、永田耕衣や赤尾兜子といった自身の主宰誌と掛け持ちする俳人も集いました。流派や師系といった閉鎖性に囚われず、広く門戸を開いた重信の真意とは何だったのでしょうか。それは、俳句を文学として格づけるための、「公器」たるべき「メディア」の構築にあったはずです。同人誌や結社誌によくある主宰の個人的な理念や趣味を表現した誌名ではなく、「俳句評論」という刊行物としての公共性を思わせるような誌名からは、「公器」として認められるための重信の企図が読み取れるとはいえないでしょうか。
つまり、重信が「俳句評論」を創刊した動機は、志を同じくするもの同士の拠り所ではなく、あくまでも「俳句格づけ機関」という「公器」をめざしたということになります。そして「公器」の形態としては、今後「メディア」がもっとも力を発揮するに違いないと考えたのでしょう。そんな重信にとって、「俳句研究」の編集長になることは、「格づけ機関」と「公器」と「メディア」をいっぺんに手にする絶好の機会だったはずです。
「俳句」と旧「俳句研究」は、それぞれの俳句観に照らして俳人および作品・批評を評価し、格づけし、その格づけをとおして進むべき俳句の道を(対抗的に)明示・教導していたのである。したがって、「俳句研究」が角川の軍門に降ったということは、向後は「俳句」が唯一の〈格づけ機関〉として君臨し、俳句史の流れを方向づけることになる。そうした見通しに、重信陣営のひとびとは危機感をもったのであろう。(そして、実際、「俳句空間」退場の後、俳句界の大勢はそのとおりの流れとなり、現在に至る)。
(同)
繰り返しは承知のうえであえて引用しました。「格づけ」とひとことでいいますが、それは時代時代で俳句の価値を決めるわけですから、無責任では済まされません。いいかげんに格づけすれば、格づけされる作者からも、また格づけを享受する読者からも、そっぽを向かれるどころか袋叩きにあうこと間違いありません。だから常に「公器」であることが問われるわけで、「メディア」としての力量は本来二の次といってもいいはずです。その「格づけ」が充分な信頼を得られさえするならば、そうした「公器」が一同人誌であっても(極端にいえば)一俳人であってもかまわないのです。
夏石氏の証言にもあるように「みんなで金を出しあった」のなら、「俳句空間」は見かけは総合誌でも実情は同人誌と変わりません。しかし、「俳句空間」が「格づけ機関」としての「質」的保証を得られたのなら、つまり「公器」として認められたのなら、同人誌という実情は問われないはずだ、そう誰もが考えるのではないでしょうか。また、角川「俳句」が唯一の「格づけ機関」として君臨しているのは、まぎれもなく俳句内外から充分な質的保証を得られているからだと、誰もが考えるのではないでしょうか。
ところが問題は誰もが考えるような「常識」とは別のところにあったようです。それは「格づけ機関」としての「質」的保証、つまり「公器」の認証をいったい誰がするのかという問題です。その答えもまた「常識」的に考えれば、それは「俳壇」の仕事である、と誰もが考えるでしょう。しかし、現実的且つ俳句史的に、「俳壇」にそうした保証や認証をしたという事実は見当たりませんでした。
なぜなら、そもそも「俳壇」という組織自体が存在しないからです。「俳壇」とは「俳句を作る人々の社会」(広辞苑)を意味しますが、俳句人口1000万ともいわれている時代に、まさかそうした人々による社会が何かを決定する機関として機能していると本気で思う人もいないでしょう。ここで問題にしているのは「格づけ機関」の保証をする組織としての「俳壇」ですから、たとえば全国の結社から50人を選んで、この代表者たちで保証してくれというならまだ想像もつくというものです。
しかしそうすればそうしたで、こんどは50人の選択をどうするかという話が当然持ち上がるでしょうから切りがありません。結局は「俳壇」が組織として「公器」の認定を決議することなど、この先まずあり得ないといってもいいでしょう。保証やら認定やらといった話は、その背後に「責任」という二文字が張り付いています。であるならば、「責任」が問われない方法で、誰もが「しかたがないよな」と諦めて受け入れるような形で、「格づけ機関」を保証し「公器」と認定したい。いや保証やら認定やらでは第三者が必要だが、それではまた逆戻りだ。どうせなら「公器」自らが「格づけ機関」を保証してもらうのが一番簡単で後腐れがないではないか。「俳壇」に本音があるとすればここら辺でしょうか。
いささか遠回りでしたが、こうした状況が角川「俳句」という総合誌を育てたのであり、「俳壇」=角川「俳句」という「幻想」を醸成したとえいるのです。そうです。「格づけ機関」といい「公器」といい、どちらも俳句にとって「幻想」に過ぎない、そういってしまうことも十分可能なのです。なぜならどちらも「メディア」にその根拠を託しているからです。さきほど「メディアとしての力量は本来二の次」と書きましたが、それは「メディア」が「幻想」を容易に作り出せるという意味です。「メディア」とは一種の幻想創造システムに他なりません。であれば、「俳壇」にしたって幻想ですし、「俳句ブーム」もまた幻想なのです。どちらも「メディア」抜きでは存在しないからです。
だからといって、「メディア」が悪の枢軸だとか、「メディアなんかいらない」とかいうつもりは毛頭ありません。なぜなら「メディア」の本質とは、「善悪」という価値でもなければ、「要不要」という存在理由でもないからです。価値がなくても、存在理由がなくても、「メディア」はすでにア・プリオリに存在するのです。
「メディア」の本質とは「数」です。それは「マーケティング」の本質とも一致します。冒頭で「数」の力に言及したとおり、目的であれ結果であれ過程であれ、「数」は人を動かす原動力に違いありません。人は「数」にコントロールされる、といってもいいでしょう。人をコントロールできるなら、俳句をコントロールするのはもっと簡単です。俳句が簡単なら、詩や文学をコントロールするのはもう時間の問題です。現代では、文学の、詩の、短歌の、そして俳句の、本質とはいわないまでも、それらを取り巻く空気のほとんどが、メディアのコントロール下にあるといっても過言ではないでしょう。
江里氏が設定した第一の問題である〈「俳句空間」の撤退〉が投げかけた意味とは、「俳壇」が「メディア」に依存することによって、「数」という「幻想」が俳句を支配するようになった、このようにまとめることができるでしょう。
(「俳句空間」の)こうした経営努力にもかかわらず、かつ執筆者の我慢強い協力に支えられていたのに、結局廃刊となったのは、必要経費を安定してまかなえるだけの読者層をもたなかったからである。つまり、あの時代、俳句の文学性を重視する層は、商業誌を支えるには市場規模が小さかった――これが冷厳な結論である。
(同)
おそらく江里氏はもう一歩踏み込んで、「俳句の文学性」が「マーケティング」に屈服した、といいたかったのではないでしょうか。しかしそういってしまっては、このあと引き続き「結社の変質」という第二の問題や、「読者の劣化」という第三の問題を検討する意味がなくなってしまいます。どちらの問題にしても、俳壇自らが「マーケティング」によって作り出した「現象」に他なりません。であればその「現象」自体が相対化された「まぼろし」です。つまり「変質」や「劣化」とは、切実なだけに「リアル」に見えますが、その実態は「まぼろし」です。そして江里氏が「予備作業」の最後に投げかけた「俳句にとって資本主義とはなにか」という問題は、こうした「まぼろし」の目と鼻の先にあるのです。
ではその一方で、俳句における「リアル」とは、いったいどこにあるのでしょうか。「俳句ブーム」、「俳句人口」、「格づけ」、「公器」、「覇権」・・・と並べてみて、こうした全てが「幻想」なのだ、といってしまうのはとても容易い。しかも何事かをいったような気にもなります。ついでに「俳壇」も「まぼろし」に過ぎない、と断言したい誘惑にも駆られます。しかし、それでは現状を憂えただけで、なお問題は棚上げされたままです。ここまでで終われば、それは大資本というマーケティングの庇護から外れた、負け犬の遠吠えと変わりません。江里氏がこの論を「予備作業」と呼ぶのも、この先に「答え」が必要だと考えているからでしょう。ここでいう「答え」とは、問題を解いた結果に見えることではなく、問題を解くための鍵となるもの、という意味です。
その前に俳句における「リアル」とは何かを確認しておきましょう。それは俳句形式による作品そのものです。俳句形式が生成したテクストだけが俳句にとって「リアル」なのです。そして作品をめぐる関係性によって俳句が「リアル」に成立するのです。この関係性とは、ひとつの作品があればひとりの作者がいて、ひとつの作品があればひとりの読者がいる、という場所のことだといってもいいでしょう。誤解を恐れずにいえば、何千万句という俳句作品があって、何百万人の俳句作者がいて、何千万人の俳句読者がいるというだけの「混沌」ではなく、一句があって、一作者がいて、一読者がいるところから生まれる「思想」です。良い悪いはさておき、それが俳句にとっての「リアル」なのです。
「まぼろし」を取るか「リアル」を取るか。どちらが正解かは今のところ誰にもわかりません。だからこの選択はいったん各々のなかにしまっておくことにして、次回は角川「俳句」が俳句史に刻んできた功罪を追い、その未来を展望したいと思います。(続)
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今月号の大特集は、「知っておきたい!俳人100名言」と題して、芭蕉や虚子といった先達が残した名言を集めています。100名句ならともかく、100名言となると困難です。なぜなら名言を集成した文献は珍しく、探すとなると本人の著作に当たるしかありません。たとえ短い評釈でも、前後の脈絡から一言を切り離して提示するのは骨が折れそうです。「第一線で活躍中の俳人25名が深く心に刻む言葉をエピソードとともにお届けします」との前文ですが、ひとり4名言を掘り起こしてきたこの25名には全く頭が下がります。
100名言は「人生観」・「俳句理念」・「作句技法」・「その他」の4項目に分類されています。「人生観」や「作句技法」はもろ初学者向けなので、少し骨がありそうな「俳句理念」に注目してみると、俳人ふたりが摂津幸彦を語っています。今となっては知る人ぞ知る俳人を二人が取り上げているのは偶然でしょうか。そのひとりは鳥居真理子氏です。
コトリと音をたてて一句が身体に落ちるまで――摂津幸彦
摂津幸彦は1996年に49歳で夭折するまで、現代俳句の最先端を切り開くひとりとして、若い世代から支持されてきました。それはあたかも戦後俳句を主導した高柳重信の存在を想起させました。そもそも摂津の才能が見出されたのは、他でもない重信編集長による「俳句研究」の「50句競作」によってでした。俳壇に前衛という言葉が残っていた最後の頃のことです。大雑把ですが、それまでの前衛同様に、摂津俳句もまた俳句形式の変革をもくろんでいました。が、摂津の俳句形式とは、常に前衛が議論の焦点としていた俳句定型を越え出て、詩語の不可知性にまで踏み込んでいました。鳥居氏がいうところの「意識の闇の儀式」がそれです。そこを統括する観念はもはや「言霊」としか呼びようのないもので、取り上げられた名言にある「コトリ」がそれにあたると思われます。
恥ずかしいことだけど、現代俳句って言うのは文学でありたい――摂津幸彦
この名言は筑紫磐井氏が取り上げました。とはいえちっとも名言らしくない、どちらかというと何気ないひとことに聞こえます。が、筑紫氏は、この「恥ずかしいことだけど」をさして、「戦後生まれは、前衛作家であろうと恥じらいを持っていた。いや、文学と言うこと自身恥ずかしいものなのだろう」と共感を示します。逆に考えれば、俳句を文学として捉えた戦前生まれの前衛俳人は、よく恥ずかしげもなく堂々と文学を語れたな、ということになります。文学に対するスタンスは時代によって変わります。戦前生まれにとって文学とは、生きることと同義だったのかもしれません。戦後まもなく思想界を席巻した外来の「知」によって、文学はもとより俳句にも「知」的であることが強いられましたが、それが文学を「恥」と思わせるに至ったなら、現代は不幸な時代というべきでしょう。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■