『島の先生』(連続6回)
NHK総合
土曜 21:00~
不登校などの問題を抱える子供たちを「留学生」として迎え入れる島の先生役に、仲間由紀恵。
仲間由紀恵の先生といえば「ごくせん」で、これは漫画の原作があり、大ヒットしたものの表層的なドラマ漫画ではあった。また「トリック」といったミステリーも、やはり漫画チックなコメディではある。「サキ」はシリアスだったが、ちょっと窮屈な感じの美形は、ややもするとそれを外してやりたい欲求に通じ、脱構築的にコメディ化される傾向をはらむ。
「島の先生」は NHK の、ごく普通っぽいドラマで、コメディ化する要素はない。が、やはり少し表層的な印象は否めない。これはもちろん仲間由紀恵には関わりなく、脚本の問題だが。そもそも教育関係のドラマというのは、よほど覚悟を決めてこしらえないかぎり、表層的になるのは必然なのだ。唯一、それを逃れ得たと言えるのは、天海祐希のあの「女王の教室」だが、ようは本気でかかれば目を背けたくなるほどの現実を描く必要が出てくる、ということだ。
仲間由紀恵の先生は、それなりに思い切ったことをする、型破りな先生と設定されているが、まだまだである。現実に、不登校などの子供の矯正に動いている教育者のドキュメントをテレビでもやっているが、その彼らの迫力にとうてい及ばない。
島に留学させる目的は、まず子供をその環境から隔離しようというものだ。隔離された子供に、もはや学校の誰彼はついてこない。それでも問題をドラマ = ヴィジュアル化しようとすれば、親を登場させ、親子の葛藤を描くしかない。転校でなく「留学」が必要なのは、おそらくその子供本人も問題をかかえ、それはすなわち親の問題でもあろうから、そのこと自体は悪くはない。
ただ、親子の関係に他人が口出しをするというのは、一筋縄ではいかないのだ。問題があればあるほど、まず不可能と思うべきだ。学校が悪い、本人も疲れている、ということで島にやるのは承知しても、親は自分に矛先が向かえば、引き揚げると言い出すのは当然だ。ドラマであれば、子供が立ち上がって親にはむかい、島に残ると言い出すわけだが、そんなに自我のしっかりした子が、そもそも島に留学などしてくるはずもない。問題のある子ほど、いざというときは親の言いなりだ。そういうときのなし崩し的な弱さは、「親に認めてもらいたい」といった抽象的な紋切り型で説明のつくことでもない。
文学金魚のインタビューにも出ていた、野田知佑さんなどによれば、子供は結局、無言の川や海によって癒やされる。川で大きな魚が釣れた、それ自体が問答無用の快感となるのに、ドラマにするには「それに理解のない親」と「温かく喜んでくれる島の人々」という、人間関係に還元せざるを得ない。が、理解のあるなしや温かさなど相対的なものだ。そこを饒舌に描けば描くほど、生まれてこのかた食べさせてくれた親を超える者などいない、と逆に納得するよりほかはなくなる。自然の持つ圧倒的な力を、セリフでなく映像で見せてもらえれば、と思うのだが。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■