〈角川書店「俳句」の研究のための予備作業〉(以下「予備作業」と略す)を書いた江里昭彦氏は、角川「俳句」や「俳句研究」(2011年8月より休刊)のような総合誌と呼ばれる媒体を「俳句商業誌」と呼んでいます。その一方で江里氏は、1934年(昭和9年)に総合誌の草分けともいうべき「俳句研究」が改造社から創刊されて以来、俳句総合誌という呼び名が俳句史的に根拠を有していることを認めてもいます。それは俳句総合誌がその創刊以来、商品という本質を離れた新しいメディアとして、当時の俳人(=俳壇)から新しい俳句を考えるための信頼と期待を集めていたからです。
総合誌に対する期待感について、若手俳人として活躍中の神野紗希氏は、同じウェブサイト「週刊俳句」に掲載された時評「総合誌の時代の終焉?これからの俳句とメディア」のなかで、「俳壇において、ながらく公器の役割を果たしてきたのは、おそらく総合誌のほかにない。今、俳句の世界ではなにがポピュラーで、どんなことが話題になっているのか。その言説を作り出してきたのは、間違いなく総合誌だった」と、過去から現在に至る総合誌の役割を、「公器」という言葉で語っています。
つまり、角川「俳句」や「俳句研究」といった雑誌媒体は、刊行者にとって本質的には「商品」でありながら、読者にとっては「公器」としての役目を担っているということです。ただ全ての俳句総合誌において、この二つが同じバランスで釣り合っているとは限りません。たしかに「商品」という本質は変わりませんが、「公器」という役割の程度には、雑誌によってかなりの差があるのは事実です。江里氏は「予備作業」全体をつうじて、こうした総合誌の「公器」たる役割を、俳句の「格づけ機関」であると述べています。さらに「格づけ機関」として読者に認められてきたのは、角川「俳句」ならびに「旧」と限定をかぶせた「俳句研究」のみだったと断言します。
「俳句」と旧「俳句研究」は、それぞれの俳句観に照らして俳人および作品・批評を評価し、格づけし、その格づけをとおして進むべき俳句の道を(対抗的に)明示・教導していたのである。
(「予備作業」より)
少し先走りして「予備作業」中篇の「8.なぜ「俳句空間」は必要とされたか」から引用しましたが、こうした認識は俳壇ではなかば「常識」として通っているようです。が、俳句の外部にいる者には、「俳句研究」についた「旧」という限定について、また引用文中の「(対抗的に)」という言葉については説明が必要と思われます。「予備作業」では、飯田龍太筆による『日本近代文学大事典』(講談社刊)第5巻「俳句」の項から、以下のような文章を引用して説明しています。
戦後まもなく発足した現代俳句協会が、その協会賞審査に当たって伝統派と前衛派、ないしは既成作家と新興作家の新旧の思想対立から、(昭和)三四年(1959年)を境に分裂。伝統既成派があらたに俳人協会を設立するにおよんで、「俳句」は俳人協会側の伝統支持に、「俳句研究」は前衛新興派支持の色彩を強めるにいたった。
飯田龍太の文章を補足すれば、この「前衛新興派」の代表ともいうべき存在が高柳重信であり、1968年に重信は「俳句研究」の編集長に就任しています。この「俳句研究」を指して、江里氏は「旧俳句研究」といってると思われます。その後「俳句研究」は、1983年の重信急逝によって、角川グループ傘下の富士見書房の発行に変わりましたが、この時を境に「俳句研究」に「公器」の面影はなく、あまたの「俳句商業誌」と変わらないただの「商品」に成り下がった、というのが江里氏の見解と思われます。
重信のいない「俳句研究」なんて、というわけです。わざわざ「俳句研究」に「旧」を被せて呼ぶのは、俳壇を二分した「伝統対前衛」の対立構造において、より多数を誇ったであろう「伝統派」=「俳人協会」=「角川俳句」に対し、「前衛派」=「現代俳句協会」がほぼ互角に対抗し得たとしたら、それは他でもないこの旧「俳句研究」という「公器」によるものだったと思われるからに違いありません。そしてその「公器」たる所以が、編集長としての重信の「格づけ」にあったことは想像に難くありません。旧「俳句研究」の卓越した誌面について、前出の神野氏は次のように書いています。
「俳句研究」という名前から思い出すのは、高柳重信が編集長だった時代にもうけた、50句競作という新人賞枠だ。(中略)その役割は新人発掘のみではなかった。毎月作家特集が組まれ、物故俳人のみならず、三橋敏雄や赤尾兜子をはじめとして、現在(*当時のという意味:筆者注)活躍している、注目すべき俳人を次々に特集した。現在では、没後の俳人も含めて、一人の作家に焦点をあてた特集自体、ほとんど見られなくなっているが、古い「俳句研究」の紙面(ママ)をめくっていると、作家たちの息づかいや熱気が伝わってきて、胸が躍る。
(「総合誌の時代の終焉?これからの俳句とメディア」より)
俳句の「格づけ」機関としての「俳句」対「旧俳句研究」という対抗図式の根っこを探れば、戦後間もない俳壇に「激震」をもたらした桑原武夫の「第二芸術」にぶつかるのではないでしょうか。この「激震」を一言でいえば、俳句という伝統に対する知的外来種からの攻撃であり、攻撃とは俳句における文学性の否定でした。それを挟む戦前の「新興俳句運動」と戦後の前衛派の台頭は、いうなれば俳句文学のレコンキスタ(国土回復運動)として捉えることができます。「激震」とはいえ長い俳句史からすれば一瞬の事件にしか過ぎないかもしれません。が、戦後の伝統派と前衛派の対立そのものが意外にも「接戦」となったのは、前衛派サイドに「俳句に文学を取り戻す」という文学的な野望があり、それが伝統派に対するアドバンテージとなったからではないでしょうか。
「俳句」も「俳句研究」もそれぞれの旗幟をはっきり掲げていたこの時期、俳人は、理念をめぐる争いに加わるために支持するメディアを購入するのであり、商品という本質を意識することはほとんどなかったであろう。
(「予備作業」より)
江里氏が指摘するとおり、「俳句」と旧「俳句研究」の抗争とは、単なるメディアの商業的な覇権争いではなく、それぞれが「公器」たる自覚のもとで支持した「俳句理念」の対立だったということです。つまり当事者である俳人にとってはアイデンティテーに関わる大問題だったわけです。しかし、もっと大きな問題はこの後で到来しました。それが「俳句ブーム」です。当時の社会現象でもあった「俳句ブーム」は、1970年代後半から萌芽を見せ始め、80年代をとおして拡大を続け、90年代中ごろにピークを迎えます。そしてその後から今現在に至るまで、「俳句ブーム」は緩慢な衰退にありながらも依然として「ブーム」と呼びうる状況を保っている、というのが江里氏の認識です。
「俳句ブーム」の時間的な変遷のなかでも、とくに江里氏が注目するのは、この70年代後半から90年代前半に至る約20年間です。つまり「俳句ブーム」の成長拡大によって、俳句における理念の対立構造がどのように変化したかに関心があるということでしょう。
事態は、俳句ブームのうねりのなかで変化した。俳句理念をめぐる争いが低調となり、うやむやになり、いつしか消失したのである。その結果、あいかわらず文芸誌の表皮を保ったままであるが、商業誌という本質がせりあがってくる。しかも、明暗を分けるかたちで――「俳句研究」は八五年に休刊、要するに、売れゆきのよくない商品は市場から撤退を迫られたのである。(中略)対して、「俳句」は商業主義へと舵をきり、大成功を収める。」
(同)
単純に計算すれば、「伝統」対「前衛」という俳句理念における対立抗争は、およそ四半世紀に亘ったことになります。いろいろな見方ができると思いますが、ひとつは1959年の現代俳句協会分裂に始まり1985年の旧「俳句研究」休刊で終わった、ということが可能です。26年という時間が理念の抗争時間として長いか短いかはさておき、その結果は江里氏の指摘するとおりに明らかです。さらに江里氏は「俳句ブームと、理念をめぐる抗争の消失と、「俳句」誌の勝利とは、三位一体のできごととして考察しようというのが私の意見である」と問題を深めようとしますが、その前にひとつ注意しておきたいことがあります。
抗争の結果について江里氏は、「抗争の消失」とは言っても「前衛派の敗北」とは言っていません。また、「俳句」誌の勝利とは言っても、「伝統派の勝利」とは言っていません。つまり、理念抗争であったにもかかわらず、「伝統」と「前衛」という理念自体に明確な勝敗はなかったということです。あったのは「俳句」という「商業的」な勝利のみだったとの認識です。これは、今に至る「俳句ブーム」と角川「俳句」の関係を考えるうえで、そして「俳句メディア」そのものを考えるうえで、大変重要な認識であると考えます。が、それは状況論として先送りしておくべき問題なので、話を「俳句ブーム」に戻しましょう。
江里氏は、「俳句ブーム」そのものを現象として正確に捉えようと、より客観的かつ唯物的な方法でアプローチしています。それは「俳句」誌のページ数の変化と、掲載された広告量の変化を追うことです。そうした目に見える変化によってブームのより正確な動きを把握し、「俳句ブーム」と角川「俳句」の関係を探ろうとしています。この時評コンテンツの初回でも、「俳句」誌に掲載された結社広告の本数からその俳壇掌握力を探りましたが、こうした数字に基く検証には確かに説得力があります。が、ここで数字を引用し列挙しても繰り返しになるだけですので、「俳句」誌面の変化を江里氏の観察に辿ってみたいと思います。まずは創刊から20年近く経過した70年代後半です。1975年には角川書店の創業者であり俳人だった角川源義が死去し、その長男である春樹が跡目を継いでいます。
(「俳句」の)編集方針は従前の路線を踏襲するものであって、俳人協会に傾いた誌面づくりという印象は否めないものの、俳句をまじめに考える者への導きと支援を企図した、手堅い学究風の論考を多く載せている。(中略)一方で、高柳重信周辺の人材にも場を提供しており(中村苑子・川名大など)、八〇年五月号の「特集・新興俳句吟味」では、論考に二八ページ、平畑静塔・三橋敏雄・川名大の鼎談に三七ページを割くという力のいれようである。
(同)
このように当時の角川「俳句」には、「伝統」という狭い俳句理念にとどまらない、より広い「文学」理念の体現ともいうべき編集方針がありました。それは創刊時の編集長に起用された大野林火や西東三鬼といった戦前を代表する俳人が築きあげたものを、文学者としての自覚のもとで源義が継承した結果です。八〇年5月号とは源義の死から5年後ですが、依然その思いは誌面に反映されていました。しかし、実際に「俳句」の誌面に反映させていたのは春樹その人ではなかったようです。「俳句ブーム」の高揚につれて、春樹の俳人としての強い覇権主義が顕になってきます。さらに「俳句ブーム」は、春樹のマーケットに対する嗅覚という非文学的な才能を引き出しました。また運命も春樹を後押しします。
春樹にとって目のうえのたんこぶであった高柳重信が八三年に他界したことは、俳壇の覇者への途をつき進むにあたって大きな妨げが消えたことを意味した。しばらくたって「俳句研究」は八五年九月号で休刊、富士見書房に身売りされる。要するに角川傘下に吸収されたのである。俳句ブームの高揚、春樹の覇権主義、対抗勢力の失速、こうした力学が交差するなかで、「俳句」誌はぐんぐん肥えふとり、血色がよくなっていく。
(同)
前述したように「俳句研究」を買収した富士見書房とは角川傘下のグループ企業ですから、春樹のこうした行動が死者に鞭打つといわれてもしかたありません。文学者としてなら正面から批判を受ける行いも、覇権に執着する企業経営者としてならただ眉を顰められるだけで済みます。また、文学者だったら生きているうちに成功を手にする保証は何一つありませんが、俳壇という名の「企業人」なら現世利益を約束される時間と方法は十分過ぎるほどあります。とはいえ江里氏はなにも、春樹ひとりの功罪を問おうとしているのではありません。それはむしろ「俳句ブーム」そのものにあることを見据えています。
ブームによる新参者のおおかたは、求道的な文学志向を嫌い、なによりも俳句を楽しむことをめざすから、その意識のなかで、俳句を学ぶことと〈安楽〉を求めるその他の消費行動とは、矛盾するどころかしっくり折りあっている。
(同)
「俳句ブーム」を形作った市井の俳句愛好者とは、ほかでもない「シルバー産業」のターゲットとぴったり重なっていたということでしょうか。だとすれば、いささか乱暴ないいかたですが「俳句ブーム」とは新手の「シルバー産業」に過ぎなかったということになります。江里氏は「予備作業」の前篇を次のような警鐘でまとめています。
この恐るべき時代の流れはそう簡単に変えられそうもないのだから、その中で真剣に現代俳句の在り方を考え、また現代俳句の平準化や衰微を真に嘆き憂うる人達の立場もまことに危ういと云わざるを得ない。
(同)
もちろん「高柳重信」や「前衛派」や旧「俳句研究」だけが現代俳句を真剣に考えていたわけではありません。角川「俳句」にしろ角川春樹にしろ現代俳句の隆盛を願う思いは同じだったはずです。しかし、前者が「格づけ」の基準を「質」においていたのに対し、後者が「数」においていたのもまた事実ではないでしょうか。「ブーム」とは「数」です。「数」による格づけが、俳句に質的な変化をもたらしたとしたらどうでしょう。次回は「予備作業」の中篇を読みながら、俳句の質的変化を探りたいと思います。(続)
*
このコンテンツは角川「俳句」の時評なので、話を2013年3月号で締めたいと思います。今号でもっとも面白かったのはカラーグラビアです。というとまた俳壇のアイドル作りかなんていう堅苦しい?話かと思われそうですが、ここで取り上げるのは俳人の顔アップが巻頭を飾る「俳人の時間」ではなく、グラビアの最後の1ページにひっそりと佇む「わたしの宝物」です。とはいえこのコーナー、「俳人の時間」が編集サイドの主導による近況報告的な記事なのに対し、宝物の選択から写真の構成・演出に至るまで、当該俳人の趣向・趣味・美学・自意識・センスが総動員されたいわば「作品」です。この1ページ自体が俳人による「一句」だ、といっても言い過ぎではありません。
被写体は昨年第1句集『六十億本の回転する曲がつた棒』で第3回田中裕明賞を受賞した関悦史氏です。ロングコートにハンチングをかぶった関氏が床の間の前で正座をしている写真ですが、どこか次元の異なった空間を思わせます。それが関氏の顔のすぐ横に置かれた黄色いひとつ目の物体によるものだと気付くのに時間はかかりません。物体は入浴用の枕で、丸みを帯びた逆ハート型の上部に貼り付けられたひとつ目が不気味です。でも、この写真に4次元の怪異をもたらしている張本人は、このオリビアと命名されたひとつ目物体ではなく、レンズを見つめている関氏の目です。その眼鏡の奥で釣り上った切れ長のふたつ目が俳句形式なら、オリビアはさしずめ「季語」といったところでしょうか。
「特別作品21句」には筑紫磐井氏の「復活(リインカーネーション)」と題する新作が掲載されています。筑紫氏は先鋭的な同人誌「豈(あに)」の発行人で、俳壇では若手を主導する気鋭の論客ですから、彼の新作21句というだけで期待しないわけにはまいりません。
花柄のかの世が見えて麻酔あと
人体の一部のやうなものが浮く
胡桃割る女はこはし一途なる
正月の廊下のやうに寒く愛
しりとりのどこまで続く日永かな
聞くところによると筑紫氏は、有季定型から主知的な脱伝統への道を辿ってきたとのことですが、主知的とはいえ難解な句ではありません。題名の「リインカーネーション」とは霊魂の「復活」を意味し、新作に俳句形式の転生を読み取るべく期待しました。が、残念ながら期待は裏切られました。たしかに騙し絵の階段を踏み外したような、日常を超現実的な文体で描き出す手法は健在ですが、その一方で中途半端なわかりやすさを狙ったようにも思えます。角川「俳句」の読者層にあわせてレベルを下げたわけではないでしょうが、もしそうなら、読者の一方的な「格づけ」は、俳句の格下げを招く危険があります。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■