『月刊俳句界』12月号では、『有名人著名人に聞いた 私の好きな一句』という特集が組まれている。俳人を除く、小説家、詩人、歌人、社会学者、写真家、芸能人など64人に『①俳句に興味はありますか?』、『②好きな俳句をお書きください(俳句および作者)』、『③俳句全般または②の好きな一句について一言』の3つのアンケートを実施している。
64人のうち、はっきり俳句に興味がないと答えた方は3人だけである。95パーセントの方が多少の留保はあるにせよ俳句に興味を持ち、好きな俳句をお答えになっている。また興味があるとお答えになった61人のうち、芭蕉など江戸以前の俳人の句を挙げた方は19人で、残り42人は明治維新以降の作品を挙げておられる。
もちろんこのアンケートは『俳句界』に縁故のある方に実施したもので、網羅的だとは言えない。しかし範囲を拡げても、同じような結果になったのではないかと思われる。このアンケートから見えてくるのは、ほとんどの文化人が俳句に多少の興味を持ち、数句なら好きな俳句を列挙できるということである。また俳句が生きた芸術だということもうかがい知れる。これが短歌なら、記憶に残っている作品はほとんどが平安短歌になっただろう。また短歌に興味のある文化人のパーセンテージはだいぶ落ちるのではないかと思う。
このような喜ばしいアンケート結果が得られるのは、芭蕉以来の俳人たちの努力の結果である。ただそれに安住してはいけない。『月刊俳句界』12月号では『〝主宰〟という仕事』という特集が組まれており、『童子』主宰の辻桃子氏の密着取材のほかに、『運河』主宰・茨木和生、『京鹿子』主宰・豊田都峰、『かびれ』主宰・大竹多可志、『秋麗』主宰・藤田直子氏、『ひろそ火』主宰・木暮陶句郎氏にアンケートを実施している。『①毎月の句会』、『②毎月の選句数』、『③主宰を辞めたいと思ったことは?それはどんな時ですか?』、『④主宰になると多忙になり作品が弱くなる、という声がありますが・・・』、『⑤主宰の喜び、苦労は?』の5つの質問である。
簡単に結果を要約しておくと、最も句会を行っているのは『京鹿子』主宰・豊田都峰氏で月23回、最も選句数が多いのも豊田氏の約2万句、主宰を辞めたいとはっきり回答されたのは大竹多可志氏と木暮陶句郎氏のお二人である。大竹氏は『俳誌の運営で時間を取られ、俳句創作が出来ない時に辞めたいと思う時がある』と回答されている。木暮氏は主力同人が結社を去ったとき、『自分の信ずるべき俳句の道を、主宰として会員にしっかりと伝えきれなかったという想いと口惜しさがいまも残る』と書いておられる。『④主宰になると多忙になり作品が弱くなるのでは』という問いには全員が否定的である。『⑤主宰の喜び、苦労は?』は様々だが、大竹氏の『私は主宰の業種はサービス業だと思っている』という醒めた回答が印象に残った。
確か高屋窓秋氏だったと思うが、句会に参加して、同席の人にしみじみと『俳人ってヒマですねぇ』とおっしゃったのだという。実際、俳人を含む詩人は暇である。たいていの詩人はたまに作品を書き、たまにエセーや評論を書き、それをもっていっぱしの作家のつもりでいる。ほとんどの時間をらちもない業界噂話に費やしているわけだが、その際にやり玉に挙がるのが結社主宰などの有力俳人や、ジャーナリズムを器用に渡り歩いている同業者の詩人たちである。
自分は志が高いと考えている詩人の多くは、『あんなくだらない仕事はしない』と思っているのだろうがそれは違う。〝やらない〟と〝できない〟は紙一重だが絶対的な相違である。ほとんどの詩人に結社主宰の重責はつとまらない。また話があっても、1年12回の連載ペースすら守れないだろう。ましてやそれを2本、3本とこなせる詩人はほとんどいない。駄文に見えようと、ある覚悟をもって原稿を量産できる詩人の実力はそれなりだ。実際にやってみれば、たいていの詩人は小馬鹿にしていた詩人程度の仕事すらできない。批判するのは簡単だが、仕事をしなければボロも出ないだけのことである。
確かに詩を仕事にするのは難しい。俳句の場合、勤勉に俳句に打ち込もうとすれば、結社主宰の仕事に近くなってしまうのは当然だと思う。またそれは座の文学である俳句には必要な仕事である。結社であろうと同人誌の形態を取ろうと、句会を開き各人の句に批評を加える作業は俳句からなくならないだろう。結社的な座の文学のありようは、今後も俳句文学の現実的基盤であり続けると思う。しかしそれだけではもちろん不十分なのである。
結社主宰が立派な俳人なのか、奇特な志の持ち主なのかは問題ではない。事実としてそれが俳壇の基盤であり、全俳人・俳句界が結社とその主宰の努力の恩恵を受けている。その様々な雑事にまみれた仕事に批判的なら、少なくとも結社主宰と同等の時間を費やして仕事に打ち込むべきだろう。アンケートで多くの文化人が好きな俳句・俳人を挙げたが、俳句のプロである俳人ならその思いはなおさらのはずである。
詩人が作品を書くのは当たり前である。それだけではなく各俳人が自分の尊敬する俳人や師について、あるいは俳句文学の本質について考えを凝らしそれを発表すれば、俳壇はより活性化すると思う。詩壇の常識として、創作者と批評家、読者はほぼ完全に重なっている。ちょっと仕事をして、座布団敷いて待っていれば仕事が降ってくるような業界ではない。結社主宰は同人と俳句のために仕事をしている。独立の気概を持つ俳人は、自分で執筆企画を立て積極的に仕事を世に問わなければ、注目してくれる詩人などどこにもいないと覚悟すべきである。
岡野隆
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