100年保存大特集として「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」。
「100年保存されるべきもの」とは真実なり、あるいは事実だけだろう。それが文学であってはいけないことはない。決定的に時代を変えたという事実、もしくは時代の感受性の真実を捉えたという意味ではむしろ、100年保存されるべきものは本質的に〈文学〉以外にあり得ない。
特集については、読者の興味がもし震災そのものにあるなら、読む者はいるまい。関心を持つとすれば、そこに登場している文学者個々に対してだ。そして新潮が文芸誌である以上、そういった読者はいるだろう(たぶん)。
こういったアンケートに近い特集では、それに応える人物は結局、震災に絡めてやや抽象化された「私」を語るしかない。だとすれば、特集の目的は何か。震災を通じて、個々の文学者の「私」を抽象化し、それを開陳させることか。それとも多くの「私」を通して、震災とは何だったかを明らかにすることか。
前者なら、文芸誌は本質的に文学以外にコミットできるシステムではないと確認したことになる。「震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」という、ありがちな苦しい文言は、確かにそれを裏付けている。
後者なら、「私」はなにも文学者である必要はない。このスタイルのまま、本当に100年保存されるべき資料を作るなら、千人でも一万人でも無作為抽出して、「そのとき、私はどこにいたか。最初に、そして次に何を考えたか」というアンケートを実施したら面白いと思う。(何を隠そう、筆者が人に会うたびに訊ねてきたことだ)。そんなアンケートを実施するのが週刊新潮でなく、新潮や小説新潮であってはならないということもなかろう。それら事実の集積が〈文学〉を超えてしまうかもしれない、と怖じ気づきさえしないなら。
「作品」と呼ばれるものは本来、こういった事実に拮抗する問答無用の力を持っていたはずだ。かつて文芸誌は、そんな人を黙らせるような「作品」の後にくっついて歩くだけで成り立っていた。組織の一員である編集者が頭を絞った「特集」の枠組みがなければ、格好がつかないものばかりになったというのは、編集の権限の拡大ではなく、文学者の存在の矮小化にすぎない。
荒木経惟の「死小説[第二章]」と題されたグラビアは、そんなことからつい、深読みしてしまう。震災に関連した「特集」で、それとの距離を測りながら語る文学者の言葉より、震災と無関係に撮られた写真が示す生と性、そこから措定される死の方が、震災後の現在をより直裁に捉えているかのごとくだ。「死小説」とは「小説は死んだ」の意か。いや、本質的には小説も文学も死にはしない。文芸誌とか文壇とかは知らないが。
都築響一による「夜露死苦現代詩2.0 ヒップホップの詩人たち」では、「現代詩」という死語がすでに路上にしか落ちてないこと、そのドキュメンタリーにしか、もはや「現代詩」的な概念も存在しないことを感受する。その一点でかなり面白い。
またカルチャー・ウォッチャーたる佐々木敦は、ウォッチした劇団をタイムライン形式でログしている。文芸誌の要請なのか、やはり見え隠れする「私」の物語によって、上演作品に沿い続けることは中断され、視線は逸らされるが。つまりは「食べログ」程度の信憑性ということだ。どこまで信じるかは、読み手の趣味だろう。
文学を死なせまいとする試みは、個々の著者の中では確かに蠢いているの。ぶち切れの連載だったり、文芸誌の〈部分〉としてセグメントされたりして、伝わりにくくなってはいるが。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■