野田秀樹のコラムの中で、ふと目に止まった一文があった。野田が初めて歌舞伎の作・演出をした『野田版 研辰の討たれ』、平成13年八月納涼歌舞伎の筋書きに寄せられた文章だ。
勘九郎(十八代勘三郎)の面白がったり、がらせたりする、「がりがらせる」面白さへの執着心にほだされて、私は馴れない歌舞伎の脚色をやり、演出をやってみる気になった。
見せ物に脈々と流れる伝統とは、面白がり、面白がらせる心である。この、「がりがらせる心」があってもなお面白いモノを作るのは大変なことだ。面白さなど、日々刻々と変わっていくものだからである。
(野田地図ホームページ コラム 2001年8月1日『野田版 研辰の討たれ』)
この「がりがらせる心」は観客としての私にもあてはまった。
演劇を面白がり、面白がらせることに力を注ぐ人々が世の中にはたくさんいる。
私はその芝居を観ることを面白がり、そしてその芝居について書くことで面白がらせたい。
そんな「がりがらせる心」を中心に据え、演者と観客がその場にいるときにだけ生まれ、離れれば消えてしまう演劇、またそのときの劇場の空気のようなものを言葉の中にほんの少しだけでも残し、面白がっていただけたら、と思う。
岩見那津子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■