デルフト甲鉢 口径22.6×高さ4.8×底径11センチ 17世紀後半~18世紀前半(著者蔵)
同 見込拡大図
数えてみると、もう三回もデルフト陶について書いている。僕がデルフト陶が好きな理由は審美的というより歴史的な興味だ。白磁を愛好される方も多いが、僕は絵のある作品に惹かれる。絵があると作品が持っている情報量が格段に増加するからである。ほんの百年ほど前まで長旅は大きな危険を伴う難事業だった。しかし太古の昔から人間は長い距離を移動して交易などを行ってきた。文化も技術も物も、実際に人間が移動しなければ絶対に広まらない時代があったのである。ある国(土地)に新しい技術や物が伝わるときには必ず外国人(異邦人)が、しかもある程度定期的に来訪してそれを伝授したのである。デルフト陶が江戸時代の日本とヨーロッパの、密接な相互影響を知ることができる遺物であるのは言うまでもない。
今回はデルフトの甲鉢である。幕末から明治頃の古い箱に入っていて、購入年月日などの記載はないが箱の表に『古阿蘭陀甲鉢』と墨書されている。いわゆるスープ皿なのだが、亀の甲羅のようにお尻が盛り上がった形をしているのでこの名称がある。現在では兜鉢という呼び名の方が一般的かもしれない。17世紀後半から18世紀前半に作られた作品だと思う。見込(鉢の真ん中)に人物が描かれているが、日本人ではなかろうか。月代(さかやき)を剃っているからである。江戸時代の男の髪型も様々だが、時代劇でおなじみの、月代の上に髪を束ねて垂らす銀杏髷は、武士か町人かを問わず江戸後期に流行した。江戸中期の町人は撥鬢(ばちびん)やせみ折と呼ばれる後頭部で小さく髷を結う髪型をしていた。鉢に描かれた人物は江戸中期頃の商人の男性のような髪型である。顔つきもデルフト陶によく描かれる中国人とは違う雰囲気である。
【参考図版01】デルフト 藍絵シノワズリ人物文皿 口径26.2×高さ2.2×底径11.2センチ 1680~1700年頃
興味のない方には『なんだ、そんなことか』と笑われてしまうだろうが、図版や実物を含め、僕は日本人が描かれているデルフト陶を初めて見た。デルフト陶に描かれた東洋人は中国人ばかりである。男女を問わず、はっきり日本人だとわかる人物を見たことがない。スペインやポルトガル船が初めて輸入した中国磁器は、ヨーロッパで熱狂的な中国趣味(シノワズリ)ブームを引き起こした。ヨーロッパはまだ磁器生産に成功していなかったことも中国磁器の人気を高めた。デルフトでも人気の中国磁器を盛んに模倣(いわゆるコピー商品)したわけである。日蘭貿易が軌道に乗ると日本の伊万里も輸出されたが、シノワズリに比べると伊万里写しのデルフトの数は圧倒的に少ない。
ではこの男性図像はどうやってオランダのデルフト地方にまで伝わったのだろうか。デルフトの陶工が実際に日本人を見た可能性は極めて低いので、焼き物か絵画(屏風など)から情報を得たのだろう。日本の伊万里が盛んにオランダに輸出されたのは、中国で清国が成立(1644年)する前後の期間である。伊万里は中国磁器の代換品だった。この時期、中国は国が乱れ、焼き物の輸出どころではない状態に陥ってしまったのである。この頃の日本では、華やかな多色の錦絵の技術が確立されていた。いわゆる元禄染錦である。その中に日本の女性を描いた皿や壺があり、飾り用の男女の人形があった。それらが元図となった可能性はある。
【参考図版02】伊万里 染錦近江八景花魁文大皿 口径42センチ 江戸中期頃
【参考図版03】伊万里 染錦夫婦人形(対) 高35センチ(男) 高32センチ(女) 江戸中期頃
絵画の方はまだ多色刷りの浮世絵(錦絵)の技術が確立されていない時期なので、肉筆一点物の風俗画が元図になった可能性はある。ただ恐らくデルフトの陶工はオリジナルの風俗画などを見てはいないだろう。甲鉢見込の男性をよく見ると、頭は日本人の髪型だが服は中国服を着ている。中国服姿の日本人男性を写した可能性は皆無ではないが、中国と日本の風俗がごちゃ混ぜになった可能性の方が高い。実際に日本人と接触していたオランダ人はごくわずかであり、一般市民にとっては日本も中国も同じ遠い東洋の異国だった。日本と中国の文化的差異が正確に伝わっていたとは考えにくい。
ただ甲鉢見込の男性が町人であることには理由があると思う。よく知られているように、オランダ商館は島原の乱後の寛永18年(1641)に平戸から長崎の出島に移されて、オランダ人は狭い出島から自由に外出できなくなった。唯一の外出機会は将軍に交易の礼を述べるための江戸参府の時だけだった。最初は毎年だったのが後に四年に一度に改められるが、江戸期を通じて166回も行われている。しかし道中は幕府の厳しい監視下に置かれ、泊まる宿も接触できる日本人も制限されていた。人間のやることだから抜け道はあったが、伴天連の乱があった江戸初期は特に監視が厳しかった。
【参考図版04】葛飾北斎 享和2年(1802年)
葛飾北斎が、オランダ商人一行が江戸の定宿・長崎屋に逗留しているところを捉えた浮世絵である。江戸参府はオランダ商館長カピタンと書記、および商館付き医師の3人が中心で、その他数名が随行するのが常だった。向かって右上の窓に描かれている3人がカピタンと書記、医師だろう。北斎が実際にオランダ人一行を見たかどうかはわからないが、凝り性の北斎のことだから意外に正確な描写だろうと思う。ただオランダ人が浮世絵に描かれ、その姿を多くの庶民が見ることができるようになったのは、太平の世が続き規律が緩み始めた幕末からである。
オランダ商館が起こした江戸時代最大のスキャンダルは、文政11年(1828年)のシーボルト事件である。帰国前のオランダ商館付きの医師・シーボルトの荷物から、幕府が国外持ち出しを禁じていた伊能忠敬制作の日本地図などが見つかったのである。この事件で幕府天文方・書物奉行の高橋景保ら十数名が処罰され、シーボルトは再渡航禁止の国外追放になった。オランダ商館一行の定宿である京都の海老屋の古文書には、『シーボルト事件』のことが『天文方地図一条』という表題で記載されている。言うまでもないことだが『シーボルト事件』は後世の呼称で、当時は一般庶民のあずかり知らぬ国家機密事件の一つだった。『天文方地図一条』という記述からわかるように、日本地図持ち出しがこの事件の要だった。
オランダ商人は江戸参府の際は、各地の定宿に集う『定式出入商人』(幕府が公認した限られた商人)と交易することを許されていた。交易品は阿蘭陀更紗と呼ばれる布などが多かった。彼らはそこで得た金を道中の路銀に充てていた。その金で時には技芸を呼んで派手な遊興に耽ったりもしていたようである。しかしその際も幕府が取り決めた厳しいルールがあった。今も日本各地には『阿蘭陀』と総称される、デルフト陶を中心とするヨーロッパ陶器が大量に残っている。その多くが茶道具として珍重されたわけだが、伝世の阿蘭陀陶器には当然のことながら禁制のキリスト教を想起させる絵や印が描かれた遺物はない。大半が草花紋などの当たり障りのない絵である。オランダ商人は幕府禁制品をよく心得ており、そういった品物の輸入は控えたのである。このルールはもちろん日本からの輸出品にも課せられていた。
江戸時代を通して幕府は商人たちが、武器や官服の実物はもちろん、それらが描かれた絵や人形をも輸出することを固く禁じた。このルールは最幕末になると有名無実化するが、それでも江戸期を通して守られた。オランダ側も原則としてルールを守ったので良好な交易関係が続いたのである。そのため出島のオランダ商館を通してヨーロッパに輸出された絵や陶器には、人間が描かれていてもそのほとんどが町人だった。従って特に監視が厳しかった江戸初・中期(17世紀から18世紀)にデルフトの陶工が日本人の男の図像を目にしたとしても、それは二本差しの武士ではなく、髷を頭の後ろで結った町人が多かっただろうと推測されるのである。
もちろんこういった〝読解〟には明確な裏付けがあるわけではない。というより裏は取れないのである。オランダを始めオーストリアやドイツなどのヨーロッパ諸国、それに一時期オランダに代わって日本と貿易していたアメリカのボストンなどには、膨大な数の江戸期の遺品が残っている。今になるとなんでこんな物をと思うような品物もあるが、当時は遠い異国から運ばれてきた貴重な品で、値段も高かったのである。それらの遺物にはほとんど文書情報がともなっていない。いわゆる〝図像学〟には基本的に文書情報はないのである。それは点を繋いで線とするような試みであり、モノから見えてくる歴史の探究である。デルフト陶はそのような図像の宝庫だ。デルフト陶の図案は恐ろしく多様であり、まだまだ思いもよらない絵が埋もれている可能性がある。
なお『第008回 デルフトの衰退とデルフトの誕生』で、鎹(かすがい)で修復した中国人(清人)が描かれた色絵皿を紹介した。その際に、鎹は日本で打ったのだろうと書いた。今でもその可能性は高いと思っているが、ある骨董屋さんが、『中国では民国時代まで鎹直しを行っていますよ。ほら、チャン・ツィイーさん主演の『初恋のきた道』で、恋人がくれた茶碗が割れて鎹直しをするシーンがあるでしょう』と話してくれた。そう言えばそうだ。だから日本で買った鎹直しの陶磁器でも、直しは中国で為された可能性もある。
僕のコンテンツを読んで、さっそく鎹直しのあるデルフトは江戸時代に長崎経由で輸入され、日本で伝世した物だと書いておられた方がいるので訂正しておきます。骨董は物言わないので、さまざまな判断はモノから情報を読み取って総合的に推測するしかない。ただ推論は時に有益である。推論を覆すためには新しい推論を提示しなければならないからである。それは歴史を考察するための新たな視点を与えてくれる。しかし推論である以上、人の言うことを鵜呑みにせず、まず自分でじっくり考えてみることが一番大事だと思う。
【参考図版05】オランダ語通商報告書 1895年(明治27年) 横20.9×縦32.2センチ (著者蔵)
* もう明治に入っているが、オランダ語で書かれた通商報告書だと思う。東南アジアから本国に向けたか、本国から東南アジアの通商拠点宛ての書類だろう。オランダ語が読めないので、大意がおわかりの方がいらしたらご教授いただければと思います。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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