舞城王太郎という作家がいることを、初めてはっきり認識した。と同時に、世の中はどうなっているのだろう、と思った。作家の評価、雑誌特集の善し悪しではない。自分の頭の中の現状に照らして、ということである。
舞城王太郎という文字の並びは見たことがあるのだ、確かに。興味を惹かれなかったのは、載っていた媒体があまり馴染みのないものだったか、単にこちらの向学心不足だったかもしれない。ただ、一昔前ならこんなことはなかった。自分が歳をとったせいばかりとは思えない。
こんなにたくさんの作家がいただろうか、と思う。いや昔から作家予備軍や同人誌作家はたくさんいた。その中でもヒエラルキーはしっかりあって、プロ一歩手前とか、その場での実力者とか、立場も実力もわりあい簡単に把握できた。そこで記憶に残すべき名前は、ちゃんと要領よくすくい上げ、なんとなく頭にこびりついていたのだ。その作家のカラー、特徴とともに。
良くも悪くも、ヒエラルキーもすくい上げシステムもなくなってしまった。文壇システムが機能していないなど、そうなると当たり前のことに過ぎない。あちこちに小さなシステムが互いにほぼ無関係に乱立し、あちこちに作家たちがいる。プロだのアマだの、大きなお世話だ。自分がそうだと自称すれば、たいてい通る。社会自体が変わってしまった、あるいは変わりつつある。
この世の中にとって、舞城王太郎という存在は象徴的ではある。エンタテインメントと純文学を股にかけ、イラストも上手く、映像作品も手がける。もちろん評価は人それぞれに分かれるが、今までの世の中なら万人に記憶されているべき多才ぶりである。が、今の世の中の多くの才人がそうであるように、ファンにとってだけのスターである。
それはそれら才人それぞれの力量の問題ではない。少なくとも今現在の世の中は、そういうものなのだ。おそらくは過渡期である、ということはできる。文学も思想も、一人の改革的なオピニオン・リーダーによって前進してゆくものだ、という部分は不変だろう。しかし戦後社会が確立した、制度としてのスター・システムが復活機能することは、もはやないと思われる。
舞城王太郎は覆面作家であり、賞の受賞式も欠席するという徹底ぶりである。一人の人物としての顔が見えないことがイメージを拡散させ、記憶からすり抜けさせていることは一面では確かなことだ。どんな多才ぶりも一つの顔に集約されないかぎりは、それぞれ別人の仕事であるのと変わらないからだ。
が、今の世の中は、そこまで徹底して覆面を外せない事情を想像する気を起こさせない。そこに重みを読む必要を、必ずしも感じない。情報がないところで忖度しても始まらない。誰もそんな暇はない。その暇のある人たちがそのコミュニティで話し合うのは勝手だが、すべての関心に普遍性はない。
この「ない」で規定される時代を表現しているのは、確かにこの顔のない作家であるのかもしれない。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■