本日(3月16日)のネットのネットニュースで、吉本隆明が亡くなったと知った。私たちはその跡を埋めるものをいまだ持たないまま、また大きなものを失った気がする。
すばる4月号を紹介するサイトでは、「3.11から1年たって、文学者たちが何をどう感じたのか? ・・・その片鱗が見えてきたような気がしています。」と、編集部のコメントがある。が、そうだろうか。戦後の総括もできなくて、震災後の総括はできるということがあるのか。そもそも総括なんて、新しいことが始まらないかぎり無理なのだろうが。
しかし「3.11後の老いと病と死」と題された、伊藤比呂美と越川芳明の対談は印象深かった。文学的言説をすべて無力にしてしまうようなあの震災の後に語らせるには、伊藤比呂美という人はふさわしい。
伊藤比呂美(以後、比呂美ちゃん、と書く。面識はないが。)は徹底して、(蓮實重彦が定義したところの)文学的アトモスフィアに抵抗してきた人だ、というイメージがある。文学的幻想だけでなく、男性が抱く女性への幻想にも、また社会が抱く母性への幻想にも。
比呂美ちゃんの戦略はだけど、攻撃とか悪意を持って闘うのではなく、そういった幻想に基づく暗黙のルールを、あっけらかんと無視してみせるところにあった。何にも守られない、剥き出しの言葉はそれだけで強い怖れを与える。
その怖れは、原初的なものに触れることにも似ていた。比呂美ちゃんが対談の中で、自分の母系が実際、呪術師的なのだと言うのはだから、ちっともすっとんきょうではない。
むしろ、あの比呂美ちゃんが仏教にはまっている、ということの方が意外ではある。もちろん比呂美ちゃんのテキストをエクリチュール・フェミニンとして捉えれば、まあ、仏教的と言えないこともない。まかり間違っても瀬戸内寂聴のような仏教の社会的効果に目覚めることはあるまいから、別にいいっちゃ、いいのであるが。
それ以上に、比呂美ちゃんがとても「知的」な感じがすることに驚いた。知性がない、などと言うと大変失礼だが、そーゆーのがウリだったはずだ。NHKの朝の番組では座っていたスツールをくるんと一回転させ、視聴者に尻を向けるとは、とアナウンサーに怖気をふるわせた。が、何かが変わったわけではない。仏教について語る口調は相変わらずの比呂美ちゃんだし。
もしかすると、変わったのは私たちの方なのか。文学的アトモスフィアはおろか、あらゆる観念や知識で武装する姿が「知的」なものとして通用する時代が過ぎ去った、ということだろうか。戦後思想が遠くなっただけでなく、文学者が沈黙するしかなかった震災も影響したというなら、たしかに変化した何事かの「片鱗」は見えはじめたのかもしれない。
ただ目の前にある事実に正確に反応してゆくこと。少なくとも今現在、そういった(比呂美ちゃん的な)認識のあり方しか、知性の働かせ方はないのだ、ということか。
比呂美ちゃんの言説に呼応していたのは、すばる4月号では巻頭のグラビア「奈良美智フォトダイアリー(76)」だったように思う。連載なので仕方がないが、今回はその意味でもっとボリュームがほしかったが。些細でもささやかでも写真には「事実」があり、それと比呂美ちゃんの語る「死」に挟まれて、文芸作品はやはり何となく収まりが悪い。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■