詩や小説は、論理では説明不可能な何事かを表現する芸術だという共通理解がある。詩は一種の直観表現である。『雨ニモ負ケズ/風ニモ負ケズ』という宮沢賢治の表現は単純だが、それは読者に一瞬のうちに現実には実現困難であることを伝えている。カタカナ表記がその効果を増幅させている。吃音で発せられるようなカタカナ表記が、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズに前へ進むことの困難さを視覚的にも伝達しているのである。
これに対して小説は、基本的には人間世界で必然的に生じてしまう矛盾や葛藤を描き出すための芸術である。詩が直観・断言的に人間の思想を表現する闇の中の一瞬の閃光であるなら、小説は闇そのものを描く芸術である。小説が男女や金銭問題、親子関係などを描き続けてきたのはそのためである。詩が稲妻のように理想と呼べるような思想・観念を指し示すとしても、それによって現実世界の諸問題が解決されるわけではない。そのため小説は現実世界とほとんど変わらない仮想空間を作り上げて、問題を解消または相対化しようと試みる。
しかし文学の最前線である純文学誌では奇妙な現象が起こっている。現代前衛小説は、言語表現的には約半世紀前に全盛期を迎えた〝現代詩〟に近似している。またその理論は1980年代から90年代に隆盛したポスト・モダニズム思想を援用している。歳月が現代詩やポスト・モダニズム思想の理解を深化させているなら問題ない。だがそうとは言えない。小説は現実世界の何を〝問題点〟として取り上げればいいのかわからなくなっている。そのため日常的な意味伝達機能を意図的に遮断した現代詩の書き方を援用し、その理論的根拠をポスト・モダニズム思想の〝根底の不在〟理論に求めている。手垢にまみれた修辞と、相も変わらぬヨーロッパからの借り物理論で〝前衛〟をよそおっているように見えるのである。
「・・・・・・淑子さんは、花江が子供を産むのに、反対なんですか?」
「別に。あの子がそう決めたんなら、反対はせぇへんつもりやけど」
「だったら、淑子さんからも、産むように説得してもらえませんか?」
すると、淑子は苦笑して、「それは脩二さん、あんたが直接、花江に言いなさいよ。産んで欲しいねやったら、産んでくれへんかって。それとも脩二さんは、花江を説得する自信がないん?」
思わず黙り込んだ脩二に、淑子は、さらに追い討ちをかけるように、「不安なんは、花江と違て、脩二さんなんとちゃうん?」
(守山忍『隙間』)
『隙間』は第115回文學界新人賞を受賞した守山忍氏の作品である。花江と脩二は夫婦だが、一度流産している花江は二度目の妊娠で切迫流産と診断され、静養のために実家に戻っている。実家には花江の姉の淑子と両親が住んでいる。脩二も計画していた花江との旅行を取りやめ、彼女の実家に短期滞在している。妊娠が判明してから花江と脩二夫婦には微妙な感情のズレが生じていた。簡単に言えば母になる決心が固まらない若妻と、父となる覚悟が定まらない若い男の心の揺れである。花江は子供に戻ったように姉の淑子に甘える。不安定な妊娠初期ということもあり、淑子も花江を甘やかす。それを脩二は奇異の目で見ている。ただ姉の淑子の心も一筋縄ではいかない。『不安なんは、花江と違て、脩二さんなんとちゃうん?』とあるように、脩二の心を見透かした上で、あえて花江のわがままを聞き入れているのである。作品は姉妹と脩二の心理を織り交ぜて進む。
少し余計なことを書いておけば、小説雑誌の新人賞は誰もが認める優れた作品に授与されるとは限らない。そもそも万人が認める秀作などほとんど存在しないのである。ましてや一作で作家の才能を認めることなど不可能に近い。だから僕たちは、雑誌編集部が編集方針に従って選び、選考委員の方たちが一定の力量を保証した新人の作品を読んでいるわけである。今回の新人賞も、最近の『文學界』の編集方針に沿った前衛的作品と、私小説に通じるような古典的作品の二作に授与されている。二瓶哲也氏の『最後のうるう年』は前衛系作品であり守山忍氏の『隙間』は古典的作品である。守山氏の『隙間』に対しては、選考委員のほぼ全員が谷崎潤一郎文学からの影響を指摘されている。確かにそういう面はある。しかし小説の舞台が現代とも昭和、大正時代だとも受け取れる『隙間』は、ある本質を描くための中性的設定だとも読むことができると思う。
つい二月前、妊娠が判明したときには、即座に母になることを決めたにもかかわらず、日が経つにつれ、その決心が大きく揺らいでくるのを感じていた。(中略)妊娠も結婚も、いずれはと望んでいたことではあったけれど、自分ばかりが割を食っているような気がして、本当にそうしたかったことなのか、確信が持てなくなっていた。
淑子の言葉や態度は、そんな花江の気持ちを見透かしたように、鋭く切り込んでくる。三十を過ぎてなお未婚の淑子を見ていると、花江はいつも、妊娠も結婚もせずにいた自分を想像せずにはいられない。(中略)姉が自分を羨んだなら、どんなにか救われるだろう。
* * *
脩二はいつの間にか、襖に目を寄せて、二人がもつれ合うようにして、笑い転げているのを眺めていた。(中略)頭を仰け反らせて笑う妻の、年季の入った娼婦のようにはしたない姿から、脩二は眩しそうに目を逸らした。が、視線はまたすぐに、妻の元へと引き寄せられる。
捲くれた唇から零れる白い歯も、癇癪の発作じみた震えを見せる豊かな胸も、こんなに美しい女だっただろうか?
脩二は瞬きも忘れ、妻の姿に見入っていた。
(同)
『隙間』は妻の花江と夫の脩二の二人の視点から描かれている。いわゆる三人称二視点小説である。夏目漱石の『明暗』がそうであるように、三人称二視点小説は意識的に使用すれば世界を相対的に認識把握できる優れた方法論になる。『私』を主人公にしようと、『彼』、『彼女』を主人公にしようと、一視点で描くことができるのは特定個人の思想(世界認識)のみである。二視点を援用すればその制約を超出することができる。ただし二人の視点から世界が描かれるので突出した思想はなくなる。すべての思想・観念が相対化されるのである。守山氏が三人称二視点を方法的に使用しているかどうかは『隙間』一作だけでは判断できないが、主要登場人物たちの思想や心理が相対化されているのは確かである。
花江の心理描写によって、彼女と姉の淑子とのじゃれあいには強い緊張関係が横たわっていることが示されている。淑子は母の覚悟がない花江の心を揺さぶるように彼女を甘やかす。花江は花江で、30歳を超えて独身の淑子に、結婚して妊娠した女の優越感を抱いている。また一方で自由な淑子に対して、妻となり夫に縛られる女の劣等感も覚えている。しかしそれだけではない。姉妹の緊張関係は、夫の脩二の視線を意識しながら増幅・収縮している。
小説の中で夫の脩二は窃視者として描かれている。表面的にはレズビアンを思わせるような仲睦まじさを見せる姉妹の関係から弾き飛ばされ、物蔭から姉妹の様子を盗み見るのである。また姉妹は脩二の視線を意識している。見られているとわかった上で、演技ともつかない演技をしている。姉妹の間に存在する嫉妬や優越感、劣等感は閉じられた温かい繭の中でのじゃれ合いのようなものである。この繭を破るのは異性=男=社会性である。姉妹は自分たちの繭を破るよう脩二を誘っている。しかし繭を破ればそこから羊水が、女性性が溢れ出す。姉妹はそれによって硬直した脩二の男性性=社会性を溶かし、崩壊させることができることを知っているのである。
このような男女関係の描き方は確かにステレオタイプかもしれない。しかしここには物語の原点がある。守山氏が描いた関係性は母子関係にも援用できるし、明確に現代に舞台を設定すれば、サスペンスをはらんだ作品としても仕上げることができるだろう。乱暴に言えば、男性作家たちは現代社会(世界)を一挙に鷲掴みにするような意図で表現主題の消滅を作品化している。俗な言葉で言い換えると、インターネット世界には中心がなく、全ての表現主題はある関係性と関係性がぶつかり合って、一時的に紡ぎ出された仮想主題でしかないことを描こうとしているのである。しかしそこで行き止まりである。女性作家、あるいは女性的エクリチュールを援用した作家だけが、原点への回帰を始めているように思う。
「そうかな。心配するって、上から見てるってことだよね」
「そんなことないよ」
「そうだよ。桃代は結婚してからずっと上から目線だよね」
「そんなこと言うなら、どうしてメールしてきたの」
「義弘さんは、最初に私に会いに来たのよ」
「え」
電話は切れた。(中略)
上から目線なんて言葉は、中学時代にはなかった。
希美子を上から目線で見ることは、自分を上から見ることだ。桃代は自分を恥じていた。ここにいることや、贅沢な暮しをしていることや、もうきれいでなくなって役目を終えたことや、頭が悪いことや、英語をしゃべれないことの、すべてを。
それに今夜、さらに加わったのだ。ここにいるのは、どちらでもよかった結果だということが。
(原田ひ香『こなこな』)
原田ひ香氏の『こなこな』は、シンガポールで夫の義弘と、日本では考えられないような贅沢な生活をおくる桃代の物語である。日本にいる中学時代の親友・希美子からメールが来る。情緒不安定なメールで桃代が理由を問いただすと、希美子はアダルトビデオに出演するのだと返信してくる。桃代と希美子は独身時代、男性たちばかりでなく女性の視線をも惹き付ける美人だった。桃代はその美貌でエリートサラリーマンの義弘と結婚し、希美子は少しずつ生活を踏み誤り、借金返済のためにアダルトビデオに出ることになったのだった。
ただ桃代と希美子の間に単純な優劣関係はない。エリートと結婚した桃代が成功者で、アダルトビデオに出演しなければならないほど追いつめられた希美子が失敗者だとは必ずしも言えないのである。社会的優劣・上下関係は別にして、桃代は自分の現在が、希美子のそれと同じくらい不安定で脆いものだと知っている。若い頃、少しばかり美人だったから、エリートサラリーマンと結婚した女に過ぎないのである。しかしその『役目』も終わった。
正直に言えば、原田氏の『こなこな』が秀作だとは思えない。しかしこの作品には守山氏の『隙間』と同様の物語の原点があると思う。主人公の桃代は夫や友人の希美子、それに旅行するので一週間だけという約束で押しつけられた知り合い夫婦の子供とメイドとの関係に悩む。そんな桃代が心の支えにするのは小麦粉などの粉製品を使った料理である。『こなこな』というタイトルはそこから取られている。桃代は粉製品でお菓子やマフィンを作る。それを喜んで食べる人は小説の中には現れない。だが彼女は作り続ける。何か形あるもの、食べられるものを作り続けるのである。僕は預言者ではないが、現代詩的書法とポスト・モダニズム思想を援用した現代前衛小説は、長い目で見れば〝陥没の文学〟と呼ばれるような気がしてならない。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■