於・東京国立博物館 会期=2012/10/10~12/24、その後、神戸市立博物館(2013/02/02~04/07)、名古屋市博物館(04/24~06/23)、九州国立博物館(07/09~09/16)を巡回
入館料=1500円(一般) カタログ=2300円
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
『特別展 中国王朝の至宝』展は、平成24年(2012年)に開催された『北京故宮博物院200選』展(No.007 参照)に続く日中国交正常化40周年を祝う記念行事として開催された。前回の『北京故宮博物院200選』展では故宮博物院所蔵の宝物を中心に清朝の文物が展示されたが、今回は中国王朝(中華帝国と言ってもいいかもしれない)の成立過程を遺品で辿る展覧会である。対象時期は中国最初の王朝・夏(遺跡は発見されていないが存在したのはほぼ確実である)の時代(BC2000)から宋時代(AD1200)までの約3千年である。今まで日本に紹介されてきた文物ではなく、地方の美術館所蔵品や最近の発掘品が数多く展示されているのが今回の展覧会の特徴である。
中国は古から一つの統一的多民族国家であり、各民族のそれぞれの文化が共同で一体的な中国文明を形成している。秦・漢時代以来の中原王朝は、絶え間なく周辺民族と様々な関係を持ち続けてきた。全体的に見れば、和睦は長期的、衝突は暫時的、融合は相対的、矛盾は局部的である。接触し、衝突し、こもごもと集まり、融合し、そうして一つの中華民族共同体として融合し、中国文明に新たな活力を注入してきたのである。
(中国文物交流 中心・王軍著 『統一的多元的中国文明-『中国 王朝の至宝』の考古学的観察記-』)
中国の国会である全国人民代表大会の映像をご覧になった方はお気づきだろうが、多くの議員(代表)が通訳のためのイヤホンを付けている。マジョリティは僕らと同じモンゴロイドのためわかりにくいが、王氏が書いておられるように中国は多民族・言語・文化国家である。もう少し突っ込んで言えば、明・清の時代から中原を支配した満・漢民族の末裔が現代中国を率いている。
金魚屋のインタビューでヨーロッパ文明の底流を為すケルト文化を研究されてきた碩学・鶴岡真弓先生は、『ロシアというのも、共産主義の体制下ではソビエトとして教えられてきたのですが、その背後には数十もの少数民族がいる、ということ注目されます』とおっしゃっている(『鶴岡真弓インタビュー』参照)。同様のことが中国にも言える。政治に首を突っ込むつもりはまったくないが、強力な中央集権的イデオロギーは大国の中に渦巻く多様性を見えにくくさせている。実際、中国は現在も多民族・言語・文化国家であるがゆえの様々な困難を抱えている。しかし中国が太古の昔から、ほとんど中華全体の意志として、たった一人の天子が広大な国土を治めることを是としてきたのも確かである。中国は〝中原の華〟であるという共通理解がある。
『人頭像(じんとうぞう)』 青銅製 高41×幅12×奥13.8センチ 殷・前13~11世紀 1986年四川省広漢市三星堆遺跡2号祭祀坑出土 四川省広漢三星堆博物館蔵
『斝(か)』 青銅製 高30.5×口径17.8センチ 二里頭文化期(夏)・前17~16世紀 1984年河南省偃師市二里頭遺跡出土 中国社会科学院考古研究所蔵
『玉戚(ぎょくせき)』 玉製 高22.3×幅21.3×厚0.3×孔径5.7センチ 殷・前13世紀 2001年河南省安陽市殷墟花園荘54号墓出土 中国社会科学院考古研究所蔵
これら3点は今回展示された文物の中で最も古いものである。司馬遷の極めて正確な歴史書『史記』によって、中国最古の王朝は夏であり、殷がそれに続き、斉・魯・楚の春秋戦国時代を経て秦の始皇帝によって初めて中国全土が統一されたことを僕らは知っている。秦の治世はわずか16年で終わったが、漢(前漢)が秦の統一治世を引き継いだ。司馬遷は漢の第7代皇帝・武帝に仕えた官吏だった。司馬遷のような歴史家が現れたことからもわかるように、漢が中華文化の礎を築いたのである。
『人頭像(じんとうぞう)』は殷と同時期に四川省に存在した王朝・蜀の遺物である。円筒状の青銅器の上からマスクのように金が貼られている。大きな耳や鼻や鋭く吊り上がった目が特徴的である。これが蜀の人の顔だとすれば、僕たちがイメージする漢人のそれとはだいぶ違う。また蜀の遺跡からは純金の仮面なども発掘されているが、歴代中国王朝は世界各国の王朝とは異なり金製品をとりたてて重視しなかった。蜀には独自の文化が根付いていたのである。ただ完成された青銅精製技術は殷と共通している。
『斝(か)』は青銅製の酒を入れる容器である。非常にシンプルな形をしており、現在のところ中国最古の『斝』だという。夏から殷時代に作られた。殷の盛期になると、その表面に複雑な獣の模様(饕餮[とうてつ]文という)が現れてくる。『玉戚(ぎょくせき)』も夏から殷時代の遺物である。中国では美しい石や宝石を総称して『玉(ぎょく)』という。『戚(せき)』はやや大型の斧のことで、人の首を切るのに斧が用いられたことから力と権威の象徴になった。『玉戚』はもちろん実用ではなく祭祀・儀式用の宝物である。相当に高い位の人しか持つことができなかった物である。
夏・殷・蜀王朝(BC20~10頃)は歴史の彼方に霞む古代国家である。しかし今に残された文物は、古代国家間において既に異文化の交流が始まっており、中国独自の嗜好が生み出されていたことを語っている。また殷時代には漢字の原型が生まれていた。亀の甲羅などに刻まれ、吉凶を占うために使用されたと考えられている甲骨文字である。漢字の変遷は一筋縄ではいかないが、音韻を文字にしたものではなく、形そのものが意味を持つ象形文字であることは確かである。
中国王朝が玉を愛好して来たことには文化的な背景がある。『天』『人』『地』は三本の線、つまり『三』で表現される。その中心を貫くのが皇帝であり唯一の『王』である。これに点を一つ加えると『玉』になる。従って玉は皇帝を表象する。また中国の王は『天子』とも呼ばれるが、『天』は天地を貫く唯一の人間の象形である。中国最初の漢字辞典は後漢の許慎(きょしん)が書いた『説文解字』だが、許慎は漢字の成り立ちを帰納的にではなく演繹的に解釈しようとした。唯一の王=天を希求する中華思想は古代にまで遡ることができるのである。
『羽人(うじん)』 木・革・漆 総高65.6×羽人高33.6×翼幅34センチ 戦国・前4世紀 2000年湖北省荊州市天星観2号墓出土 荊州博物館蔵
夏・殷・蜀に続く春秋戦国時代には中国独自の思想・儒教が生まれる。孔子は魯の人である。孔子は『子は怪力乱神を語らず』と言った。単なる孔子個人の思想ではなくそれが中国文化の思想であり、孔子はそれを大成したのである。司馬遷の『史記』もそれを受け継いでいる。ほとんどの民族・国家の歴史は神話時代から説き起こされるのが常だが、『史記』はそれをあくまで人間の歴史として描いている。そのため中国には神話時代がないと言われる。中国の徹底した現実主義は春秋戦国時代にはすでに成立していた。
しかし中国各地の墳墓から発掘される遺品はそれとは別の中国的心性を語っている。『羽人(うじん)』は戦国時代の墓から発掘された。蛙に似た怪物の上に鳥がいて、その上に尾を持つ人が乗っている。唇が嘴の形をしていることから飛翔することができる人だと思われる。いわゆる〝怪力乱神〟の一種である。『羽人』は中国では古くからその存在が信じられてきた仙人らしいが、人々が死後の世界とそこからの転生を信じていたことがわかる。
中国では現実と異界の思想が比較的明瞭に分かれている。現実思想を代表するのが儒教である。ただ孔子から始まる儒教は思想であって宗教ではないと言われるが、それは必ずしも正しくない。孔子の思想は『正名論』と呼ばれる。存在には各存在固有の本質があるという考え方である。これが王には王の、臣下には臣下の本質(分[ぶん])があるという思想になり、日本の徳川幕府が封建秩序を維持するための思想として援用したのである。
しかし存在には固有の本質があるという思想は一種のイデア論である。その意味で『正名論』はギリシャ哲学と同じ宗教的直観論である。ただヨーロッパ世界が存在本質の頂点を神とする〝有本質的有神論〟を生み出したのに対して、儒教は〝有本質的無神論〟であるという違いがある。中国の〝顕教〟である儒教は一種の怪力乱神である神という概念を外すわけだが、それが永遠のイデアを求める宗教的心性を包含していることは間違いない。
また人々に怖れと希望を与える不定形の怪力乱神は、中国では地下水脈のように流れている。その一つが神仙思想を唱える道教である。道教が各時代の王朝から〝邪教〟と指弾され厳しく弾圧されながら、時に皇帝の膝元まで忍び寄り、ほとんど常軌を逸した不老長寿の薬探しなどの狂騒を引き起こしたのは周知の通りである。中国の墳墓から発掘される品々は〝正史〟には現れない人々の心性を語っているのである。
『跪射傭(きしゃよう)』 陶・彩色 高121×幅66×奥行60センチ 秦・前3世紀 1999年陜西省西安市臨潼区始皇帝陵兵馬俑2号杭出土 秦始皇帝陵博物院蔵
中国文物で最も有名な秦の始皇帝陵発掘の傭である。右脇に弩(ど・ボウガンのこと)を抱えて臨戦態勢を取る武人の姿である。恐るべき精緻な造形であり、勇猛・冷酷な武人の表情である。このような遺物に、ほとんど昨日のことのように時代固有の精神や怖れを感じ取れなければ、歴史というものは本当のところ理解できないのではないかと思う。
秦の時代に中国は初めて全土が統一されたが、それと同時に文字通り至上の力を持った絶対君主による治世という恐るべき経験をした。始皇帝は現世的秩序を説く儒教すら許さず、書経・詩経・諸子百家の書物すべてを焼き払い儒者を生き埋めにして虐殺した。いわゆる〝焚書坑儒〟である。現在でも中国は怜悧な現実的功利主義と中庸を説く儒教的イデア論(各存在を尊びそれぞれがその本質の則を超えずに在ること)の間を揺れ動いているが、儒教的イデア論が現実主義によって揺り戻されたのである。簡単に言えば始皇帝は彼一人の権威以外のなにものをも許さなかった。絶対専制君主・始皇帝の命によりこの時代に多くの貴重な書物が永遠に失われた。
秦の時代までが中国のいわゆる〝古代〟である。続く漢・南北朝・隋・唐・宋の時代は同時代の記録が多く残る歴史時代である。漢の時代には始皇帝が排除した儒学が国家全体の法と秩序の基盤として採用され、皇帝(天子)の力に一定の歯止めが科せられた。南北朝時代には仏教が流入し儒教・道教と入り混じった文化が開花する。唐時代は中国最大の繁栄期であり、シルクロードを通して様々な西域の文化・文物が流入した。宋時代は漢民族受難の時代である。北方民族の侵攻により王朝は南へ南へと追いやられていく。しかしその中で最も中国的な文化の粋が露わになっていった。満民族の元が漢民族の宋を滅ぼしたが、元は宋の文化を忠実に引き継いでいる。この頃には中華文化は、民族超えて動かしがたい魅力を放っようになっていたのである。
本稿では漢時代以降の遺物は紹介しないが、それは展覧会や図録などでお楽しみいただきたい。漢時代以降の遺物は僕たちにはなじみ深い中国的なものだが、滅多に見られない珍しい文物が展示されている。中国の歴史は長い。いずれまた同様の展覧会が開催される時に漢代以降の中国文化について考察してみたい。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■