『黒』はガリ版刷りA5版の雑誌で、安井氏(以下敬称略)からお借りしたのは第3、5、6、8~12号の8冊である。ただし安井が参加(秋地一郎名義)したのは第12号からで、400字詰め原稿用紙20枚ほどの評論と作品を発表している。しかし『黒』はこの号をもって終刊してしまった。同人は増減があるが、安藤三佐夫、朝生火路獅、川島一夫、丸毛由紀らが中心である。柴田三木男も寄稿している。以下に『黒』の簡単な刊行データをまとめておく。
・第3号:昭和33年(1958年)5月1日発行 32ページ
・第5号:昭和33年(1958年)9月1日発行 30ページ
・第6号:昭和33年(1958年)11月1日発行 34ページ
・第8号:昭和34年(1959年)3月1日発行 40ページ
・第9号:昭和34年(1959年)5月発行 28ページ
・第10号:昭和34年(1959年)9月発行 30ページ
・第11号:昭和35年(1960年)1月発行 32ページ
・第12号:昭和35年(1960年)3月発行 28ページ
第3号『編集後記』に『学生生活をおえて、さてこれからどうするか』(丸毛由紀)と書かれているので、『黒』同人は安井と同じ20代前半だったようだ。また第11号『編集后記』には『俳句作家の前衛性を主張して〝黒〟を創刊してから、もう二年もたった。旧態依然とした俳人や俳壇ジャーナリズムはしかし、全くといってよいほど、その内部において変革されずにこの二年間も保存されて来た』(朝生火路獅)とある。『黒』は現実俳壇の変革をも視野に入れた前衛的俳誌だったことがわかる。
俳壇という文学的磁場は面白いところだ。正岡子規門下が高浜虚子の有季定型写生派と河東碧梧桐の新傾向派・無季無韻派に分裂したように、常に伝統派と前衛派がせめぎ合っている。俳壇の主流は伝統派が担って来たが、実作や理論で新境地を切り拓いてきたのはおおむね前衛派である。また伝統派は前衛派の成果を緩やかに吸収している。そのダイナミズムが俳句文学の〝伝統〟だと言ってよいほどである。
伝統派と前衛派の明確な対立などないのである。また現代美術のように、誰一人試みたことのないような表現を創出する前衛(アバンギャルド)は俳句文学では成立しようがない。伝統派は前衛派の動向を横目で眺めており、前衛派はいつも伝統派の改革を夢見る。キリスト教が無神論を含めて一つの宗教体であるのと同じことだ。神の実在、俳句に即せば俳句を成立させている原理を誰一人明示できない以上、それに携わる者は定型肯定論者であろうと否定論者だろうとすべて俳句の徒であり同志なのである。
酷評をします。二十代は実存の時代、オナニイの時代、ペッティングの時代、恋の時代、革命の時代・・・です。
「黒」が伝統を否定するというのは革命児だからでしょう。でも伝統を否定できない。しかし異質の、革命の情熱はすばらしい。否定できぬものを否定しようとする思い上がり情熱、又意識、前衛性は二十代の一つのオリジナリティです。
(島津亮『希望なきときも希望を』 『黒』第3号 昭和33年[1958年]5月)
島津亮は『黒』に2回雑誌読後評を書いている。島津は大正7年(1918年)生まれで当時40歳。昭和15年(1940年)から20年(45年)にかけて中国で従軍している。俳句の師は新興俳句派の重鎮・西東三鬼で当時は『夜盗派』同人だった。後に安井浩司も参加した俳誌『ユニコーン』の創刊同人になっている。処女句集は『紅葉寺境内』(昭和26年[1951年])だが、『猫の名を叫びつつ媼死にたりと』『孤児の腕捻られしまま映画果つ』など戦争体験の傷跡が生々しい。
島津の戦争体験がどのような質のものだったのかはここでは論じないが、彼の文章から、当時は従軍経験者と戦後の青年たちの間に埋めがたい断絶があったことがわかる。今の40代に島津のような形で20代を相対化する姿勢はないはずだ。島津のような従軍体験者から見れば戦後派の前衛意識は甘くて脆い。戦後の青年たちから見れば、島津的視線は自分たちにはいかんともしがたい特権意識とも映っただろう。寺山修司が痛烈に批判し、その若さに居直ることができたのはそれゆえである。ただ『黒』同人に寺山的な戦略はなかった。むしろ島津が批判するように現実認識の点で甘さがあったと思う。
革命の論理を磨き、社会主義社会の実現に邁進しつつある時、安藤(安藤三佐夫のこと)は俳句なんてものが役に立つものだと本気で考えているのか。新興俳句時代の最高の傑作事は、(中略)幾人かの新興俳句人が、その作品の反社会的意途を理由に、投獄されたという、笑止極りない事件だった。(中略)俳句がそんな役割を果せるものでないことを、今更僕が云わなくてもよいだろう。安藤が(中略)逃げ腰で俳句の中でその努力を果そうとしているのなら、それこそが抹消すべき虚弱なプチブル根性であると云わねばならない。(中略)
君らの正しく意図するところが正しく表現される為には、君らはまづもって俳句の不必要性を強調しなくてはいけないのだ。
(折笠美秋『満腹飢餓』 『黒』第6号 昭和33年[1958年]11月)
折笠美秋は昭和9年(1934年)生まれで当時24歳。安井らとほぼ同世代である。この頃は高柳重信主宰の『俳句評論』創刊同人として、作品や批評を精力的に発表し始めていた。また彼は東京新聞記者であり、社会を相対化して捉える視線を持っていた。
当時は60年安保を間近にした戦後日本最大の騒乱期である。誰もが政治に熱い視線を送っていたが、文学者の姿勢はおおむね二つに分かれた。文学で社会変革運動に参加(アンガージュマン)しようとする者たちと、それをこらえて文学の役割を問い直そうとする者たちである。『黒』の安藤らは前者で折笠は後者だったと言える。自由詩の世界で言えば、新日本文学系と荒地派・現代詩派の区分ということになるだろう。
実際、『黒』を読んでいても芸術至上主義的な前衛意識は薄い。第3号で安藤三佐夫が『かかげる旗は大衆詩だ』という評論を書いているが、前衛的なトーンの社会性俳句が多い。この雑誌に安井がなぜ参加することになったのかは不明だが、少なくとも安井が『黒』に発表した評論は原理的なものである。なお『安井浩司『俳句と書』展』カタログ掲載年譜の昭和34年(1959年)の項に『『黒』の大原テルカズらと会う』という記述があるが『黒』に大原は書いていない。世代も『黒』同人らより一回りほど上である。『黒』は『黒い星』(大原の句集名)の間違いだと思うので訂正しておく。
詩を含めた一切の創造的主体とは、存在論的証明の〈束縛〉に対する〈自由〉である。即ち創造的主体が哲学的主体へ異質的になるのはそこに〈創造されたる自己〉が自らの理論的存在を失うことである。創造する主体が創造される主体を逆に突き放し、追放することによって最も自由な創造主体の存在証明となるのである。
(秋地一郎(安井浩司)『言葉と想像力に於ける抽象俳句の死角について』 『黒』第12号 昭和35年[1960年]3月)
安井の評論は、若い頃にはよくあることだが、一篇の評論で全てを論じ尽くそうとしているためにかえって論旨が曖昧になっている。ただそれでも安井の生地である思想は感受できる。安井は哲学が人間実存の内部をどこまでも探究するものであるのに対して、創作者は作品(創造されたる自己)によって、自己の実存的基盤(輪郭)を失うものだと述べている。創作者は作品によって相対化されるのである。そこに哲学とは異なる作家の自由がある。
想像力は言葉によって未然に規定される(中略)しかも、それは無限に規定されているのである。私たちは、個という自らの想像力をもっている。それらが〈対象〉に定着するとき、言葉が発動される。しかし、言葉を支配する想像力が言葉によって無限に規定される(中略)ことをあえて発言したのは、いかに個の想像力が創造行為において可変的であり、絶対的でないかを知るためである。そして換言すれば、想像力が無限に規定されていくということは、個の想像力が目覚めることによってその特性が発揮されるということなのである。私はこのことを想像力が覚醒されると云いたい。言葉によって規定された無限の想像力が、たゞ個の周囲を無数に睡りつゞけているのであって、私たちが自ら創造行為に浸るときは、一部分の想像力が覚醒されるときなのである。俳句の抽象論的高次元化は、想像力の覚醒されていく一つの過程である。
(同)
同じ事柄を安井は『想像力』を巡って考察している。人間の想像力は言葉によってあらかじめ規定されている。『言葉を支配する想像力が言葉によって無限に規定される』のである。これは絶望的であり希望を含んだ事態でもある。絶望的というのはどんなに想像力を駆使しても、一度言葉に定着されてしまうと、それは言葉の無意識層からあるイマージュを抽出して形を与えただけの、平凡な言葉に堕落してしまうからである。希望があるのは想像力がまだ全ての言葉の無意識層を言語化し得ていないからである。
安井の論は『抽象俳句』の可能性を巡って書かれているが、そこには絶望と希望が入り混じっている。俳句文学の伝統と前衛の相克だと言ってもいい。ただ安井が作家の想像力と言葉との熾烈な闘いにおいて、『俳句の抽象論的高次元化』を目指したのは確かだろう。絶望は俳句定型で希望は俳人の作家性でもある。俳句文学では絶望を含まない作家の希望などありはしないのである。
鶴山裕司
■『黒』第12号掲載 安井浩司(秋地一郎)作品■
【評論】
言葉と想像力に於ける抽象俳句の死角について 秋地一郎
Ⅰ
文学ジャンルの中で、およそ詩ほど非論理的な建築様式をもち、理論的な制作条件を強要するものはない。詩における俳句の形態が、自らを最小の定型として詩の理論構造の全てを負いこんでいるが、時間的要素(破壊的要素を含めた)の文学論的位置づけを行う上から、俳句が抽象詩論的発展段階における〈伝達の可能性〉を、自らの手で「俳句の暗い部分」(後述)に埋没しようとする。それ以前に私たちは俳句自らの詩的形態の特異性と、俳句が現代詩としての独自な理論的なあり方を認識することは必要である。
俳句自らが所謂散文形態との特異性を指摘されるためには、人間の最も素朴な実存概念としての詩歌文学の歴史的発生段階を知ることによって明白となる。しかしこのことを此処で扱うのは止すとしても文学が今日的人間像を対象とするとき、歴史的文学様式の変貌は文学理論上強烈に要求されるのである。そして、俳句においても自らの様式としての定型とその定型感覚の概念の今日的変貌に簡単ながらも触れることは必要である。
しかし、今こゝで俳句とは定型詩の典型的遺産物であり、俳句は書かれると云うそのこと自体が現代文学への束縛意志であり、主体的創造能力への拘束であるとしたら、この独創的な(俳句の外側に立つ人間には一般的な)考え方は、早計であるのである。
定型詩が日本詩学の頂点として巨大な伝統のもとに流れ、今日もこれらが現代詩の大巾を占めているのであるが、この事態を単的に考えると、やはり定型詩が磨きあげた定型感覚が私たちの言語を通じて、文学的次元から日常次元まで滲み込んでいると云う一般的な見方は正しいのである。しかし、定型感覚とはそれ自体曖昧な用語であり、私たちはそれが何であるかを明確に指摘出来ないのである。これは単に定型詩の歴史的堆積によって支えられている感覚ではない。これは、私たちの言葉が歴史的文学堆積を経ることによって、私たちは伝統的な言語に捉われる。言語的に捉われた私たちを、更に捉えようとする感覚である。従って、定型感覚がどんなに私たちに前向きの姿勢であるかを感ずるとき、定型詩とはいかに詩に於ける発生でしかありえないかを知るのである。詩における定型とは発生であり、出発でもあると考えられる。
私たちはいま此処で、定型感覚を助長した言語、現代俳句を助長する言語、これら言葉の問題は抽象俳句の可能性を知る意味においても、不可避であることを知らねばならない。
言葉は詩における最大の武器である、と云うのは正しい。言葉は、詩人にとって手のようなものだ。言葉とは、それが散文であろうと、詩であろうと、やはりそこに〈在る〉のである。即ち言葉は伝達作用としての能率や素材化される創造的な能率のいづれにも拘泥されることなく、ひたすらそこに〈在る〉のである。しかし、文学における言葉は文学理論構成の意味からも、詩人は自らの武器に意味づけられずにはいられないのである。言葉を意志の散文的な媒介存在としてみるのは正しい。しかし、それは文学において詩的行為がなされるとき、言葉の素材能力を措いては何も得ることは出来ない。言語の素材能力とは、詩人の創造力が創造行為の最終段階的結果として、言葉に定着しようとする最大の能力である。これらは、言葉の機能と云ったようなものではない。適当な呼び方がないので素材能力と云うが妥当だろうと思う。
私たちに、常に前向きの姿勢で捉えてくる定型感覚とは、これらの素材能力の所産であり、素材能力が言葉の伝達作用によって私たちと結合する強力な文明遺産なのである。定型詩は、常に発生段階における定型詩であるのであって、言葉がもつ多彩な言語能力がこの中で考察される。現代俳句が抽象論法的発展段階を経つゝあるときゝ言語創造の素材能力の限界(後述)と、詩的行為の中にあらわれた主体的創造力の無限な可能性との相関関係を知ることは、実作の刹那刹那において必要なのである。
俳句が、その抽象論法的発展をとるにあたって、具体的には金子兜太の「造型」による社会性俳句の方法論的変貌や、堀葦男の「意識の表現」等によって、明確な角度を露呈してきた。
主体性の変貌がなされ、「何を詠うか」と云うスローガンのもとに主題が追及されながららも、しかし私たちは主題の同時性、精神風土の等質化を過剰なまでに見るのである。これら私たちの不満は、変貌することの急務さから、主題の類型性の上に立てられた手法の独裁的な効果を狙う混沌状態にあるのであり、抽象化と云えども一部のグループを除いては、その明晰な詩的行為の中に前進しているとは考えられないのである。しかも、それらの〈混沌〉は、全て言葉の上に現われてくると云うこと、結論として一切を言葉に任そうとすること、私たちはこのことに無神経ではいられないのである。
私はいま、詩における言語能力について触れたが、更に抽象俳句における創造概念を知るために、定型詩がもつ言葉の〈混沌さ〉の一つとして〈象徴〉について記さねばならない。
Ⅱ
〈象徴〉について述べる前に、私は此処で簡単に〈詳細〉化する精神について記しておこう。〈混沌とした抽象〉作品は、それ自身に〈詳細〉化、又は〈細分化〉の精神が希薄であるように考えている。細分化とは対象を詳細に分解することである。と簡単に――。
近代詩学はサンボリズムと云う形態で発展したが、戦後詩においては自らの平板性、限界性を指摘され、解消されようとしている。なぜなら、象徴とはおよそ〈詳略〉による対象把握過程において即物的な構成でしかないのである。即物主義詩学の欠陥は自己を発掘することではなかった。主体を選択された対象あるいは物質の意志によって規定することであった。しかし決して文学における創造的要素とは何物にも規定されないのである。自己を規定しあうことは、あたかも文学と哲学のそれに似ている。哲学における主体性とは、理論的主体性が実在化することがすでに文学的主体の存在意志を束縛することを意味しているが、しかし詩を含めた一切の創造的主体とは、存在論的証明の〈束縛〉に対する〈自由〉である。即ち創造的主体が哲学的主体へ異質的になるのはそこに〈創造されたる自己〉が自らの理論的存在を失うことである。創造する主体が創造される主体を逆に突き放し、追放することによって最も自由な創造主体の存在証明となるのである。創造的要素とは異物的(即物主義的異物感)、存在論的に規定された自己を、最も自由に見つめる創造的主体の全的信頼なのである。即物主義における文学の即物的把握行為には今述べた〈自由さ〉への飛躍の認識がないのである。しかして即物主義は、飛躍することの過程を物質によって解消することによって創造主体へ規定的に働きかけようとしたのである。
象徴とは、即物主義の権化である。象徴とは、対象への変質化を働きかけるものだろうか。否最も多角的な対象への転化なのである。批評精神の物質的同化なのである。
しかしこのことで、私たちは象徴が、俳句ジャンルの中で異常に隆起する性格を見落してはならないのである。象徴が、現代文学ですでに命脉をたゝれていながらも俳句と云う最小定型の中で異常な影で浮び上ろうとすることはどうしたことだろうか。
俳句は、凝縮された言葉の宝石だと云い、定型感覚の最も研ぎすまされた刃であると云われる。この最短縮性が、創造される自己即ち創造する自己とは異質な外部現実的世界を語るとき、言葉の伝達能力について俳句作者ほどデリケートになるのはないのである。言葉の伝達力にデリケートになることは、即ち俳句そのものの最短縮と云う過剰意識に支配され、詩の伝達の可能性は言葉の伝達能力によってのみなされようとする錯誤に堕るのである。即ち定型と言葉がいかに異質的な性格のもとに、詩的行為の中で働きかけあっているかと云う認識を見失ったときなのである。言葉における伝達能力は、意思表示として文学においても重要な要素だが、言葉の素材能力(前述)を見失っているのである。これらの素材能力を見失うことは、即ち対象への〈詳細〉精神が、やはり欠くことになるのである。
言葉の上から、詩が散文に特異的であるのは、素材能力としての言葉の駆使である。詩とは言葉である、と云うのはこの意味で正しい。散文は伝達能力を欠くことによって阿呆となる。例をあげると、カフカの〈変身〉は近代文学の最も難解な、そして最も現代詩に接近した姿勢で書かれているが、〈変身〉がどこまでも詩になり切れないのは、いかに散文が意思表示としての伝達能力の上に立脚したものであるかを知る。精神的風土こそ、現代詩学のカテゴリーとして〈変身〉が扱われることに異論はないが、いかに多角的に考察しても〈変身〉は散文なのである。
詩は外れたが、詩が最も自らの言葉を大切にしようとするとき、俳句に象徴の巨大な影が浮び上ろうとすることは、私たちは常に否定しながらも事実となる。即ち、俳句は定型であり最小である。このことは伝達することの困難さを常に随伴する。このことも前に述べた。
しかし詩における創造とは、〈伝達すること〉の言語能力に打立てるものではないのであって、それは言葉の素材能力の上に立てられるものである。素材能力は、言葉がもつ詩的創造力の特性である。私たちは、詩の主体が自己を欠如した空白となる時、いかに言葉の素材能力が空転しているかを見るのである。象徴へ文学論的価値を与えるとき、これが特に俳句に於ては、自己欠如の最もすてきなムードとしてしか受け取れないし、又そうなるのである。
対象が〈詳細〉化されるとき、今日的主体性を考察すると、それが単に象徴で云い逃れることは出来ないはずである。
象徴とは批評精神の欠如である。批評精神の無風状態ではどうにもならないのである。
俳句における象徴が否定されることによって、創造主体が対象の〈詳細〉化された細少部分を汲みあげるとき言葉の素材能力へ媒介される媒介物を私たちは求める。象徴におけるイメージは、むしろ精神の高踏的な遊戯的な容器として扱われ、自らを平板なものに叩きのばしていたが、意識の深層(堀葦男)を汲みとることによって媒介物としてのイメージが、根本的に〈想像力〉の発光体として考察されねばならない。対象の〈詳細〉化された微細部分が、創造力によって凝集し最も個性的な想像力によって媒介物を言葉に定着する過程が抽象であろう。抽象への結果論的過程は多くの人達に試論されていることであり、今は述べない。現代俳句における抽象が、新しい開拓地として、批評精神の最も旺盛な形態としてとりあげられているのは、周知の通りである。
Ⅲ
私はいま、定型について語り、定型と言葉の関係について喋り、象徴的要素の否定について述べてきた。しかし、今私たちにとって大切なことは抽象的段階を経て明日へ流れようとしている現代俳句でしかないのである。〈抽象とはなにか〉このことは、島津や堀らの実質的発掘によって、かなり明確となりつゝあるので、あえて云わない。
現代俳句が、発展段階としてそうならねばならないように、抽象方法を獲得して来た。今日、前衛作品として難解俳句と云うが、これは単に最大公約数的発言でしかないのであって、難解俳句は何が難解で、どこまでどう難解なのか、全くわからないのである。私たちは、これらに対してもやはり〈詳細〉の精神をもっていくべきである。理論も〈詳細〉の一つのあらわれとして大切なのは、実作が〈詳細〉を要求するからである。実作はやはり理論を求める。話は外れたが。
俳句における抽象が、いかに言葉の素材能力と結びつくのだろうか、即ち素材能力と結びついてしまってよいのか、抽象における言葉の伝達能力は無視してよいのだろうか、等を考察するとき、私は抽象俳句の一隅に「俳句の暗い部分」あるいは「陽の当らない部分」を感ずるのである。そして今、私はこの「陽の当らない部分」いついて具体的に触れていこうと思う。
定型とは、決して限界ではない。定型は、それ自身詩における発生であることを前述したが、自由詩において詩の効用的な相互断裂の場があるように、俳句の抽象性を追及するとそこに「陽の当らない部分」への危機感を覚えるのである。このことを言葉と創造概念の上に立って、理論的に〈詳細〉をつゞけることは必要である。
詩におけるイメージは、言葉以前の媒介物として〈対象〉から離れてくるものだ。詩的行為においてイメージは発想以後の定着物として言葉へ終着するし、又発想以前において〈対象〉へ定着するが、これら一連の媒介作用は個人の想像力によってなされるのである。そして俳句の抽象における想像力は、むしろ後者の〈対象〉への定着が決定的主役をなす。なぜなら、前者の言葉〈素材能力〉へ終着する過程は、多分に技術的要素を必要とするのであって、個人の想像力が俳句の抽象ではたす役割は以前としてイメージを〈対象〉から発光(前述)さすことである。しかしこれらのことは、詩的行為を〈微細部分〉化した考察に基づく想像力についてでしかない。しかし、ここで大切なことは、個の想像力である。想像力の類個の等質能力、平均分配された想像力を扱う以前において、私たちは想像力の個我的飛躍を考えなければならない。
一体、個の想像力が断裂的であるだろうか。私たちの想像力は、同一の歴史的時間の流れに育ち、同一の文明の器として全ての個が相互に同時の言葉に慣されて来た。しかし、これら同一の言葉のもとに、その歴史的文明の流れの中で個人の想像力の姿勢は相互に同質ではない、と云うことがあり得ないだろうか。それらは、想像力の限界を意味するものだろうか。私たちは、これらの問題と闘う必要があるのである。
今こゝで、言葉を、創造行為の過程を逆に想像力へ還元するとき、私たちは意外な結果を見るのである。即ち想像力は言葉によって未然に規定されると云うことである。しかも、それは無限に規定されているのである。私たちは、個という自らの想像力をもっている。それらが〈対象〉に定着するとき、言葉が発動される。しかし、言葉を支配する想像力が言葉によって無限に規定されると云うことは相矛盾した考えである。しかしこのことをあえて発言したのは、いかに個の想像力が創造行為において可変的であり、絶対的でないかを知るためである。そして換言すれば、想像力が無限に規定されていくということは、個の想像力が目覚めることによってその特性が発揮されるということなのである。私はこのことを想像力が覚醒されると云いたい。言葉によって規定された無限の想像力が、たゞ個の周囲を無数に睡りつゞけているのであって、私たちが自ら創造行為に浸るときは、一部分の想像力が覚醒されるときなのである。俳句の抽象論的高次元化は、想像力の覚醒されていく一つの過程である。
詩人は、預言者的であるとも云われる。なぜなら、詩人とは睡れる想像力を発掘する者だからである。
このような事実から、定型詩ことに俳句における言葉の素材能力(前述)を考えたとき、言葉によって想像力が覚醒されることから、いかに俳句が最短詩型であるかによって言語選択の重大さと困難さを感ずるのである。俳句は十七音詩である。今こゝに例えば十七音以上の長い言葉があって、その言葉を用いない限りはどうにもならない、としたらどうだろう。伝達する者も伝達される者も、想像力の覚醒は起らないのである。とすれば、そこには単に俳句の滅亡しかないのだ。俳句は、今日の国語全てが十七音以上になったときに亡ぶのである。即ち想像力が覚醒されない故に亡ぶのである。そして、俳句が亡ぶことは又、定型が亡ぶことを意味するものでもないことは明白であり、此処へつけ加えておきたい。
Ⅳ
私が先に、俳句の「陽の当らない部分」あるいは「限界となる部分」がありそうだと云った。しかしこれは俳句が十七音以上の言葉に負けて滅ぶ、と云うことを発言したのではない。このことは、俳句の抽象性を押し進めるにあたって、今日的人間像と想像力との問題から出発した発言である。
即ち、現代がいかに〈詳細〉を要求する時代であり、〈細分化〉の成熟した時代であるかは周知のとうりだろう。事実、詩的行為において〈詳細〉精神がなければ批評精神の意味づけも、何も引き出せないのである。しかし考えてみよう。〈詳細〉が細分化されることによってもし個の想像力が覚醒されないとしたら、万が一同じ言葉のもとに現代文明を打出して来た人間が、その個人の想像力が飛躍的に断裂されていくとしたら、およそ主体性の〈詳細〉化によって俳句の抽象性を押し進めている前衛作品の可能性をどこに求めたらいいのだろうか。
このことを、更に具体的に説明することにより、この小論の終末をつけようと思う。
秋の蛙の藍噴く手足で長らう群衆 耕衣
自叙で集る現に片窓開いた秋の夜
窓枠抱えた老いた臓器から照る紅葉
細枝でしゃべる老杉「肥えたの?冬蠅!」
青味保つ彼の老人を附けて行く冬の日
鰓の類の冬の朝日がメモする老人
冬眠者牝の歌「地上晩年コーヒで晩年」
此処に、われらが耕衣の作品(〈琴座〉一月号)を引用した。私は、この作品内容について云々しようとしているのではない。今これらの俳句を前に私は耕衣作品の詩的精神風土が十分に透視できるのであり、私のいわゆる〈睡れる想像力〉は、途方もなく拡大されていくのえだる。それは、耕衣の想像力とたとえ異質的な方向へ拡散されていくとしても、私の想像力が私自身の中で一部分なりとも覚醒されたことは事実なのである。しかし、と同時に、俳句の抽象的変革への役割をなした何人かの俳句作家が、これらの俳句が全く不明の作品であり、自らの想像力が覚醒される以前に、耕衣俳句を拒否したのである。同時文明機構の器としての日本の言葉の中で、俳句と云う同一定型詩の中で、抽象論的方法へ自らの作品を傾斜せしめようとした彼らが、全然想像力の覚醒がなされなかったのである。なぜだろうか。私は抽象のなかで言語について追及し、更にこの問題が想像力に至ったとき、抽象俳句における「暗い部分」「陽の当らない部分」を感じたのである。私が幾度か述べてきた同一文明の言葉をもって、詩人が互に想像力を断裂させあうとしたら、私たちにとって一番大切な俳句とは何だろう。
しかし、このことは抽象俳句の欠陥でもないし、盲点でもない。俳句が意識の表現に炎えたとき、その表現主義的な弱点をさらけ出したのでもないのである。たゞひたすら追及される命題でしかないのである。
抽象俳句が自らの〈対象〉を〈詳細〉化しようとするとき、言葉によって規定されていく無限の想像力が、更に詩的行為によって〈覚醒〉されていくのであるが、私たちはこの問題をもっと大巾に、出発として定型と言葉、更に主体性のあり方を含めた一切の角度から追及し、〈睡れる想像力〉をあばかねばならない、と思うのである。
【作品】
錯誤について 秋地一郎
仲間消された夜は一塊の肉着く酒場
ビルの根に徒労の毛が生え胞子吹かる
高架線を駆けぬく卵巣乾くわたし
葦の繊維が櫂にからまる己が飼船 (①『青年経』)
仮睡のなか航く若櫂黒い海搔く手
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■