
日ごろから小説を読んでいるほうだとは言えません。
むしろ哲学書のほうが読んでいる時間も長いし、冊数も多いし、頁を開けばすぐに入っていける。目次を見るだけでおおよそ察しがつく本もある。これに比べて小説は、「さあ、読もうか」というちょっとした決心が必要で、そうでないと頁もめくれないし、最初の数ページはなかなか入っていけないんです。
そのわけはいろいろありますが、小説とくに「純文学」小説がそうなんですけど、作家ごと、作品ごとに「ワタシの世界はこれだっ!」という強い自己主張や癖をもっていて(もっていないと小説なんて書けませんからね)、読者はその世界へ入っていくのに少々時間がかかる。これがいちばんの理由かもしれません。
おおざっぱに言いますと、哲学書は書かれている内容いかんにかかわらず、たいてい共通する「文法」っていうのがあります。あたりまえのことですが、論理や論筋から外れたら哲学になりませんよね。同様のことが「純文学」以外の文学作品にもいえます。SFならSFの、ミステリーならミステリーの、俳句なら俳句それぞれに共通する「文法」がありますでしょう? 「お作法」と言ってもいいです。言語表現としてそれぞれのジャンルを形作っている「お作法」のことを「文法」と言っています。歌集でも句集でもエンタメ系でも、それぞれの文法に通じれば通じるほど、入口は広くなります。入ってからがほんとうの読書なんです。
ところが「純文学」の小説家という人たちは、これは現代詩の人もそうだと思いますけど、他人とおなじ文法にしたがって書くのを本能的にイヤがります。これは他のジャンルの書き手も多かれ少なかれそうですが、じぶんの書いた文章が形容詞一つにしても「クリシェ」とか「紋切り型」と思われるのを極端におそれます。そこにこだわるあまり、何を書きたかったかわからなくなってしまう作者すらいるほどです。
申し上げたかったことは、現代詩や「純文学」小説には「文法」があるようでない、だから入口が狭く感じられ、慣れていない人はどう入っていいかわからなくなる、ということです。ただ現代詩は小説と比べて長さがちがいますから、読者はそのために時間をかける勇気は要りません。小説も勇気を出して入口をくぐってしまえばいいんです。もっとも入ってみたら、ああこんな景色だったのねガックリ、って(笑)。
これは小説にとって損だと思います。詩とちがってそれなりの長さを要する小説は、最初の「つかみ」が大事で、そこだけでもぐいーっと読者を引き込んで離さない工夫が要ります。それが上手な人は最後まで面白いことが多いんです。
この秋、日本の「純文学」を代表する文芸誌のうち二誌が、新たな担い手をそれぞれ選び発表しました。
「すばる文学賞」と「文藝賞」です。
今回はそれぞれの受賞作を取り上げ、二回にわたってコメントしたいと思います。
読み終えて、どちらの作品にも共通するものがあるな、と思いました。というより、世の中で読まれるたいていの小説に共通することかもしれません。それを「文法」とまで言えるかどうかはわかりませんが。この話は次回、二回目の終わりでいたしましょう。
まずは「すばる文学賞」を受賞された更地郊さんの「粉瘤息子都落ち択」からまいりましょう。
出だしはこうです。
構図の真ん中で貝の上に立っているからヴィーナスだろう人物と視線が合わない気がするのは、俺の視力が落ちたからなのか、元々そういう画だからなのか、サイゼリア初めての入店から九年が経とうが遂に知らないし、調べもしない。
(更地郊「粉瘤息子都落ち択」)
ボッチチェリ「ヴィーナスの誕生」の複製画でも飾ってあるのでしょうか。描かれようとしているのは、そのヴィーナスに見下ろされて座っている、忍という人物の世間離れした異様の風体です。向かいに座っているのが忍の友人で語り手である主人公・野中です。場ちがいな巨躯の怪人物の描写にはじまると、二人の会話は宇多田ヒカルのエピソードに入ります。誰もが知っている歌手の話を持ってくる。作者はこれに続いて「格ゲー」の話に早く移りたいんですが、その前の「つかみ」として効果を発揮しています。何だ「格ゲー」って? 「スト6」って? 読者によっては、いきなりそんな話から始まったらすぐにページを閉じたくなります。だから先に読者をつかんでおいて、そこをガマンして過ぎると二人の登場人物の背景が粛々と語られていくので、読者はホッとするわけです。
ですから、この出だしはわるくありません。
「俺」は大分から上京、八王子の安アパートで暮らして九年。会社勤めもしてみたもののなじめず、ストレスか過労かはっきりしない原因で倒れそのままドロップアウト。家賃も払えず電車にも乗れなくなり引きこもったかれは、社会の底辺を這いずる状態に陥りました。そこへ学生時代からの唯一の友人である忍が助け舟を出します。たまたま持っていたビットコインの高騰で巨利を手にしたおかげで、かれの格闘ゲームこと格ゲーの練習相手になるという奇妙な雇われ条件で、月十万の賃金を得るようになります。心身がすこしずつ恢復しつつある「俺」は、実家の事情もあって故郷へ「都落ち」することを決めます。それから引っ越すまでの間、主人公と忍の二人がまき起こす珍劇がこの物語の骨格で、ふつうならバカバカしくて付き合っていられない話が展開するのですが、それを作者の語り口の巧みさで読ませる小説です。
かたや何故わざわざ大学受験して上京したのに、友人をただ一人しか作らず、当時さして流行ってもいなかったストリートファイター5で間を埋めてしまったのか。得るべきだった人としての愛や豊かさ、東京で培うべき人間性やら内面化すべき価値観や可能性は、ぜんぶ波動拳(↓↘→+P)コマンドに化けてしまったのか。だとしたら、俺が打った波動拳は、一体何に当たったのか。
(同)
もちろん拳は虚しく宙を切っただけでしょう。でもそれこそが得難い経験だったことは、この時点のかれにわかるはずもありません。
老朽化した給湯器が故障したらしく、冷水のシャワーを浴びる主人公はこんなふうに描かれます。
泡が排水口に流れていくのを見遣る。皮脂だのを包んだ泡が廻っていた。そして溶けていき、水道管へ消える。そこには俺の皮脂やら垢がこびり付いては敷きつめられていて、それはつまり俺で出来た王国なのであって、ここから去ることを都落ちと比喩するのも何ら間違いでもないのだと、そんなつまらない気づきを得て、それをも水で流した。
(同)
引きこもって寝たきりだったどん底状態から、やっと外へ出られるようになったかれが洗顔すると、垢にまみれた皮膚がずる剥け、顔回りに粉瘤がいくつも出来ていました。外出中、潰れた粉瘤から出血していることに気づいたかれは、洗い流そうと公園の水飲み場へ赴きます。そこへたまたまやってきた少年を見つめながら、「俺」は心の中で語りかけます。
水を飲みたいのだけど、右耳を洗うおっさんがいて、そいつと目が合って怖くて動けなくなっているのか。防犯ブザーの所持は確認できない。悲鳴をあげられるのだろうか。怖いか? 怖くないよ。僕はね、君が生まれるより前からこの土地に住んでいるわけなんだけど、もし年功序列ってのが理解できるなら、耳を洗いきるまで待っていてほしいんだけど、できるかな? [中略] こういうときの年上って立場的に引けないからね。そういうのは無視するっていう択があるんだよ、俺なんていなかったかのように足早に去るっていう手段がね、あるんだよ。いま君の目の前にいるこのおじさんに関しては、将来のそういう態度の練習っていうか、社会入門だったんだ、って、もう少し大人になったときに気づいてほしいね……。
(同)
こうした語り口の変化、オトボケな味はいいですね。「マウンテンデュー」という、目にはしていてもたいていのひとはあまり飲まないだろう飲料へのこだわりとともに、「粉瘤」はこの小説の要所要所に登場し、笑いのネタになりうる(しょーもない)素材です。
さて事件は、アパート近くの自動販売機で起こります。いつものように「マウンテンデュー」を購入した「俺」は、その自販機のオーナーだという奇妙な老人からいきなり声をかけられます。自販機の側面に一枚のテプラが貼られてあり、誰が何の目的だか、意味不明な文言が印字されていました。
オーナーに監視を頼まれたかれは、それを剥がしてじぶんの粉瘤から出た血を塗りつけ、呪いのお札として冗談半分にネットで五千円で売りに出すと、意外にもたちまち売れてしまいます。自販機にはその後もあらたな文言の印字されたテプラが貼られ続ける。そいつを剥がしてネットで売って商売にする「俺」でしたが、どうやらそのことがバレたらしく、怒って脅しをかけてくる「犯人」に、巨漢・忍の協力を得た「俺」は対決することになって……。
このようにやくたいもない話を、語り口ひとつで引っ張っていく作者の力はそうとうなものです。
と、ここまではいいんです。このお笑いコンビが「犯人」である少年たちを捕まえるくだりまでは一気に読ませてくれるんですが……この後がいけません。
アパートのかれの部屋に拘束した二人の少年と「俺」との会話には、首を傾げたくなります。うだつのあがらなかった主人公が何やらヤクザ風情を演じたり、人生の先輩面して説教を垂れたりと大人ぶって饒舌にふるまうところは不自然で、台詞もどこかちぐはぐです。ビビりながら応じる少年の態度も台詞も、これがいまどきの高校生かと思うほど不自然でリアリティがありません。しかもこれらは、おそらく作者が意図して演出した不自然さではないのです。意図的に描いたなら、この場面は小説中でもっともユーモラスな場面になったか、じぶんの小説へのアイロニーになったことでしょう。拍子抜けになった読者は、たちまち萎えてしまいます。読みながら早く終わらないかと感じはじめた読者にとって、その先になおも続く「都落ち」までのエピソードはもはや長くて苦痛なだけです。
なぜそんな印象を与えてしまうのか。
作者がこの小説で、意識してやくたいもない話を貫こうとしたのは間違いないと思います。それはいい志です。けれどユーモア小説を書こうという構えまでは、端からなかったでしょう。そこが中途半端で読者との齟齬が生じるんです。こういう話は、つまらなく書くのだったらとことんリアリズムを貫いてもっとつまらなく書くか、それとも読者が抱腹絶倒するようなバカバカしい笑話をあくまでも軽妙かつリズミカルに語るか、どちらかしかないんじゃないでしょうか。この小説の道具立てや登場人物のキャラからみたら、後者の方向性こそがいっそう追求されるべきだったように思います。
「笑い」はむずかしい。
十月号の「すばる」はこんな特集を組んでいました。その時評で筆者はこうコメントしました。
「笑い」はあらゆるものを「笑え」るという本性ゆえに、用いかたひとつで自らや他人を解放したり、逆に縛ってしまったりもする。「笑い」は「自由」が「自由」であるがゆえに行使するのがむずかしいのと、おなじむずかしさを抱えているのだと。
どんな「笑い」をどう描くか。この作品はせっかく「佳作」と言われるにふさわしい水準まで至りそうなのに、途中で失速してしまうように感じられ残念に思います。物語をもっと短く切り詰めてもよかったのではないでしょうか。「お笑い」を前提にするなと言われそうですが、「笑い」の真の多重性と深みに気づき、その身に沁みわたらせていくなら、まだまだ伸びる余地のある作家さんだと思えばこそです。今回の受賞は、その伸びしろに重きをおいた人たちが評価してくれた結果なのでしょう。
次回は「文藝賞」受賞作家を取り上げます。
萩野篤人
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