近代洋画の開拓者 高橋由一
会期=2012/04/28~06/24
入館料=1300円(一般) カタログ=2300円
評価=総評・85点 展示方法・80点 カタログ・80点
東京藝術大学美術館はその名の通り、東京藝術大学が運営・管理する大学美術館である。東京国立博物館を少し通り過ぎた東京藝術大学の敷地内にある。大学美術館といっても大学関係者の作品展示だけを行っているわけではない。『平家納経展』(平成17年[2005年])など、お隣の東博で開催されてもおかしくないような展覧会もしばしば開かれている。日本の美術教育の頂点に立つ大学として、極めて質の高い展覧会を開催する美術館である。
今回は『近代洋画の開拓者 高橋由一』展である。教科書に必ず載っている『鮭』の絵の作者だと言った方がわかりやすいだろう。僕も中学校の美術の教科書で初めてこの絵を見た。生意気にも『これでいいんだろうか』と思ったのを憶えている。御存知のように絵には新巻鮭が描かれている。しかし形が変だった。これではまるで箱に入った新巻鮭だ。それに絵の余白が気になった。『鮭』の余白は荒縄で吊された頭の部分よりも、尾の下の余白の部分の方が少しだけ長い。なぜきちんと真ん中に描かなかったのだろう。
奇妙な縦長の画面といい、上下の余白の違いといい、これはバランスの悪い絵じゃないかと思ったのである。名画と言われても納得できなかった。それに教科書には泰西名画もたくさん載っていた。子供の目はすぐにゴッホやルノアールなど、色鮮やかで異国情緒豊かな西洋画に惹き付けられた。由一の『鮭』など国辱ものだなと本気で思っていた。
同じような経験をした人は案外多いのではないかと思うが、日本人はどうも舶来物に弱い。若い頃の頭の中だけを見れば、自分はヨーロッパ人かアメリカ人だと思っているようなところがある。読む本はたいていは欧米作家のもので、見に行く絵画展も欧米のものばかりだった。大学生になると、ゴッホやルノアールといった印象派はとっくに卒業して、デュシャンやボイス、アンフォルメルやシュポール/シュルファスなど、舌を噛みそうな前衛芸術運動を無闇矢鱈にありがたがっていた。もちろん前衛芸術にも素晴らしい作品がある。しかしその本質を理解していたとはとても言えなかった。
目の変化が起こったのはいつ頃だろう。まず梅原龍三郎の絵が〝見えてきた〟。申しわけない話だが、梅原など印象派とフォービズムを焼き直した二流画家じゃないかと長いこと思っていた。それがある時梅原の絵の前に立って、これは日本的な絵だ、日本人にしか描けない油絵だと唐突に気づいた。色も線も、欧米絵画にはない梅原独自のものであることがようやくわかったのである。笑われてしまうだろうが、僕は自分の〝発見〟に有頂天だった。まるで才能ある新人画家・梅原を〝発見〟したような気分になっていた。
由一の『鮭』はだいぶ前に藝大美術館の常設展で初めて実物を見た。まずその大きさに驚いた。『鮭』は縦140センチ、横46.5センチの大作である。教科書にもサイズは掲載してあったはずだがそんなものは見ていなかった。当然、実際よりも遙かに巨大な鮭が描かれている。日本の洋画の素晴らしさには気づき始めていたが、由一はなぜ鮭一匹を、しかもこんなに巨大に描いたのか、いぶかしく思わずにはいられなかった。
目が慣れるということは確かにある。見慣れてしまうとなんとなくそれが良いもの、好ましいものに思えてくるのである。絵に限らないが作品が教科書に載るのは特別なことだ。森鷗外がどこかで、物書きの弱みは読者に自分の作品を読んでくれと強要できないことにあると書いていたが、教科書なら多くの人が必ず目を通してくれる。それが人間の深層心理に働きかけて、さほど素晴らしくもないのに名作に思えてくることだってある。由一の『鮭』は子供の頃に、ほとんど初めて名画として見た絵である。本当に素晴らしい絵なのか、それとも目に焼き付いただけなのか、自問しないではいられなかった。
由一は重要文化財に指定された有名な『鮭』の他にも、何点か『鮭』の絵を描いている。今回の展覧会には全部で3点の『鮭』が展示されていた。右向き、左向きといった違いはあるし、素材も紙、麻布、板と様々である。しかしおおむね構図は同じで、どの絵も縦長で巨大である。由一は好んで新巻鮭を描き、その際にカンバスの縦横比率や構図を統一している。画家は文筆家ではないから、自分の考えを書きのこしているとは限らない。しかし完成度の高い同系統の絵を複数描いている場合、そこには必ずと言っていいほど画家の思想がある。由一の場合もそうだろう。だがどんな思想なのだろうか。
『鮭』 縦140×横46.5センチ 明治10年(1877年)頃 紙に油彩 東京藝術大学所蔵 重要文化財
『鮭』 縦127.5×横36.5センチ 麻布に油彩 山形美術館寄託
『鮭図』 縦85.9×横24.6センチ 板に油彩 笠間日動美術館蔵
由一の『鮭』はやはり奇妙だと思う。特に実物を目の前にした時の違和感、居心地の悪さは一種独特のものだ。静物画に吸い込まれるような魅力を感じることはあっても、それが人の心を波立たせ、不安を覚えさせることはあまりない。背景は塗りつぶされているから(笠間日動美術館所蔵作品は板の質感をそのまま活かしている)、荒巻鮭しか見るものはない。しかし鮭の形に合わせて裁断されたような思いきった縦長の画面、微妙に中心からずれた鮭の描き方が、鮭という物体を強烈に主張している。この絵を描く時に由一は鮭しか見ていなかったし、鮭以外は描きたくなかったのだろう。
由一の『鮭』は美醜といった概念を超えている。もちろん食べるために見慣れた新巻鮭の姿ではない。グロテスクであり、神々しいとも言える半身の鮭というヤツがそこにいる。お前、なんでそんな姿でぶら下がっているんだと言いたくなってしまう。目の経験ということで言えば、教科書には他にもたくさんの画家の作品が載っていた。しかし僕は由一の『鮭』しか覚えていない。それもカンバスの形の奇妙さまではっきり記憶していた。子供の頃にすり込まれた目の経験を差し引いても、由一の『鮭』は傑作と呼んでいいと思う。一度見たら忘れられないのだ。
高橋由一は文政11年(1828年)に、下野国佐野藩士・高橋源十郎の長子として江戸大手前藩邸内で生まれた。定府勤めの武士の子である。家業の弓と剣師範をもって藩主・堀田家に仕えたが、幼い頃から絵を好み早くから狩野派の絵などを学んでいた。嘉永元年(1848年)21歳の頃には病弱を理由に家業継承の道を閉ざし、画家として立つことを志した。ただ由一は伝統的な日本画ではなく、新たに流入し始めていた西洋画に惹き付けられた。文久2年(1862年)35歳の時には幕府の洋書調所画学局に入局し、技法は日本画のそれだが西洋画に倣った博物図譜などの制作を手がけた。慶應2年(66年)39歳の時には、横浜外国人居留区に滞在していたイギリス人画家、チャールズ・ワーグマンを訪ねて入門している。由一が『近代洋画の開拓者』と呼ばれる由縁である。
『丁髷姿の自画像』 縦48×横38センチ 麻布に油彩 慶應2~3年頃(1866~67年) 笠間日動美術館蔵
由一が生まれた文化・文政期は江戸文化の爛熟期だった。京都画壇では円山応挙や長沢芦雪、伊藤若冲、曽我蕭白といった綺羅星のような画家たちが活躍していた。彼らは西洋絵画の影響を受けた中国画(南蘋派)の技法をいち早く取り入れることで、日本画の新境地を切り拓いていった。この流れは幕末になるとさらに加速する。日本で初めて西洋画を描いたのは司馬江漢だが、最幕末の嘉永・安政期になると、その影響は浮世絵にまで及んでくる。安藤広重などが西洋の遠近法を取り入れた風景画を描き始めたのである。このような同時代の画家たちの仕事は、由一の心にしっかりと刻み込まれた。由一は司馬江漢に私淑し広重の浮世絵を愛した。由一は江漢や広重と同じ場所に立って風景画を描いている。
私たちは教科書的な年号で時代を区切ることになれている。だが江戸から明治に年号が変わったからといって、突然何かが劇的に変化するわけではない。御維新の時に由一は41歳であり、当時の感覚でいえば若隠居してもおかしくない初老にさしかかっていた。実際、由一は明治の元勲と呼ばれた伊藤博文や山県有朋らよりも10歳ほど年上なのである。しかし由一の感性は若々しかった。多くの武士が維新後の世相から取り残され孤立を深めていったのに対して、由一は維新に初めてその才能を開花させた。ただ由一に旧幕時代の文化を否定する姿勢はなかった。
面白いことに、江戸文化を肉体的に知っている明治初期の文人たちには、欧米文化を無条件に礼賛し受け入れる姿勢はなかった。彼らは新渡来の欧米文化に激しい衝撃を受け、抵抗しながらそれを受け入れた。彼らは江戸文化の最も良質な部分を表現の基盤にしながらそこに欧米文化を折衷させたのである。単純化して言えば、由一は幕末文化が有していた一つのベクトルを、彼の信念として維新後も貫き通したのである。それが由一の絵を独自のものにしている。無条件的な欧米文化礼賛の風潮は、江戸を知らない由一ら以降の世代から顕著になる。
『花魁』 縦77×横54.8センチ 麻布に油彩 明治5年(1872年) 東京藝術大学蔵
『日千両大江戸賑 廓千両 稲本楼小稲』 豊原国周 大判錦絵 明治元年(1868年)
『花魁』は明治5年(1872年)作の由一初期の代表作である。美人として有名だった新吉原の娼妓・小稲をモデルにした絵だと言われる。当時はまだ写真が普及しておらず、ヨーロッパ式の油絵が、新奇な似せ絵として見せ物小屋に飾られ評判を呼ぶような時代だった。浮世絵師・豊原国周が、由一がモデルにしたのと同じ小稲を錦絵で描いている。小稲は仕上がった由一の絵を見て泣いて怒ったと伝えられる。それもそのはずで、葛飾北斎のような奇人を除けば、当時、女の絵といえば、様式化された美人に仕立てるのが当たり前だったのである。
由一が小稲を描いた時の視線は、鮭を描いた時とほとんど変わらない。明治5年当時、新吉原で御職をはっていた花魁・小稲は、気の強そうな女に見える。その逆に、憂いに満ちて悲しげな遊女の内面を抱えているようでもある。高価な鼈甲の簪を挿し、豪華な着物に身を包んでいるが、おしろいの下からのぞく肉の陰影や髪のほつれは生身の人間のそれだ。説明的要素の一切ない絵だが、由一は目の前にいるモデル(対象)の〝真〟の姿を描こうとしている。
由一は洋書調所画学局に入局した翌年の慶應元年(1862年)に、『画学局的言』を著している。幕府に西洋画の必要性を建白するための文章である。その冒頭で『泰西諸州ノ画法ハ元来写真ヲ貴トベリ 眼前ノ森羅万象既ニ皆造化主ノ画面ナル所以ニ写照スル所ノ像ハ則人巧中筆端ノ小造物ナリ』と書いている。『世界は創造主が作ったものなのだから、それを写す(描く)ことは人間による小さな創造であり、真を写すことにほかならない』といった意味である。
由一は『写真』を〝真を写す〟という意味で使っている(『写真』は『しょううつし』と読むのかもしれない)。由一は西洋画の斬新な技法に魅入られた画家の一人だが、多くの幕末画家たちが真を写したいという欲求を共有していた。応挙を始めとする京都画壇の画家たちから江戸の浮世絵師・北斎に到るまで、方法はそれぞれ違うが、画家たちはいかに事物の〝真の姿〟を表現するのかに興味を集中させていたのである。その希求が江戸から明治を通して由一の中に流れている。
また由一は絵を描く際に、文字通り『写真』を素材にしていたことが知られている。由一は明治5年(1872年)に行われた、町田正成(初代帝国博物館館長)を長とする明治政府による正倉院調査(壬申検査)に同行している。この調査には明治で最初の写真家である横山松三郎も同行した。由一の仕事は古物をスケッチすることと、モノクロだった当時の写真に彩色することだった。
しかしヨーロッパで写真が普及してきた時のように、由一が写真を敵視した気配はない。日本では油絵も写真も同時期に移入された新しい物だったからでは必ずしもない。由一は油絵も写真も事物の真の姿を捉えることができるが、絵の方がより事物の本質に肉薄できると考えていた。
『州崎』 縦51.6×横115センチ 麻布に油彩 明治11~12年(1878~79年) 香川・金比羅宮蔵
『鵜飼図』 縦93×横145.9センチ 麻布に油彩 明治25年(1892年) ポーラ美術館蔵
今回の展覧会では、ほとんどすべての由一の代表作が集められていた。『鮭』の印象が強い由一が、いかに幅広い画題を手がけた画家なのか、心ゆくまで堪能することができた。中でも由一の風景画は傑作揃いだった。『州崎』は空の色が素晴らしい。機会があれば、一度実物をご覧になることをおすすめする。写真では再現できない、鮮やかだが実に繊細な色遣いなのだ。この絵を見れば、写真よりも絵の方が事物の真の姿を描くことができるという由一の考えが、自ずから理解できると思う。
『鵜飼図』は巨大な絵だ。夜の闇はあくまで深く、暗く、松明の火はあくまで赤く明るい。この絵もまた、図版で見るとその魅力が半減してしまっている。なによりも絵の大きさが伝わらない。絵は小品よりも大作を描く方が遙かに難しい。技術だけでなく、絵を描ききるための画家の精神力や思想までが厳しく試されるからである。若い頃から画家を志していたとはいえ、維新からわずか20年ほどでこれだけの絵を描いた由一の力量は恐るべきものである。
由一は明治27年(1894年)に67歳で亡くなった。日本初の職業洋画家として求めに応じて様々な絵を描き続け、その傍ら画塾を経営し、洋画の入門書や絵の具の国産化にも関わった。由一の時代には、日本で洋画が根付くかどうか不透明だった。由一は洋画普及のために尽力し続け、晩年には油絵専門の美術館の設計図まで残している。グッゲンハイム美術館に似た廻廊式の建物である。
由一のほとんどの作品にはサインが入っていない。画家としての矜持がなかったわけではない。むしろ彼の時代に洋画家として立つことは、強靱な精神力と使命感を必要としたはずである。しかし由一の絵を見ていても、悪くすれば『俺が俺が』の自己顕示欲の塊になってしまう近代的自我意識は見当たらない。由一は幕臣として洋画に携わり、維新後も明治政府の公的仕事を数多く手がけた。彼にとって絵は〝公〟であり、それゆえサインは不要と考えたのではあるまいか。公に仕え公の使命を果たす際には〝滅私〟、それが武士の心構えである。由一の中には確かに武士の血が流れていたと思う。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■