大野露井さんの『故郷-エル・ポアル-』注(第03回)をアップしましたぁ。大野さんの自伝的小説『故郷-エル・ポアル-』の注の連載です。自分の作品への注釈、つまり自注はなかなかにスタンスの取り方が難しいものです。大野さんのような高踏派作家でも、それなりの歪みが生じていますね。ただ作家の批評の言葉は本質的に、他者作品ではなく自己の作品に向かっているものです。大野さんはある意味ご自分でご自分の文学が到達すべきハードルをうんと引き上げているわけで、スリリングな光景だと思います。続きが楽しみです。
んで金魚屋新人賞の締め切りは3月31日です。今のところ新人賞は小説が受賞していますが、金魚屋では俳句・短歌・自由詩の新たな才能を持つ詩人も求めてもいます。ただ詩人に求められる才能は小説家とは異なるでしょうね。多くの人が『これやすげぇや』と唸るような詩作品なら話は別ですが、なかなかそれは期待できない。詩では小説のように『そこそこ行けるだろう』といった評価が難しいのです。また今の詩壇の現実も考えなければなりません。
歌壇・俳壇では大結社の編集人クラス以上でなければ企画出版は難しい。新人と無所属作家は、歌集・句集に関してはほぼ全員自費出版になります。自由詩でも同様です。もっと厳しいかな。それなりに名前の通った詩人でも、買い取り○○百部などの半自費形態になっています。嘆いてもしょうがない。読者がいない、売れないんですから。逆に言えば、自分の読者を作るところから詩人は始めなければならないというのが現状です。
〝そのために何をすればいいのかある程度はっきりわかっていること〟が金魚屋が詩人に求める新たな才能です。詩を書いていれば角川短歌・俳句、現代詩手帖など長い歴史のあるメディアが当然目に入ってきます。新人はそこに作品や評論などを掲載することを目指すようになります。ただ〝詩壇内〟でなーんとなく名前が知られるようになるまでに10年はかかる。で、10年経ってみると、思考方法も作品や評論の書き方も、完全にメディア内、詩壇内の人になってしまっています。そこから抜け出すのは至難の業です。たいていそれができずに一生詩壇内の人になってしまう。またそれで幸せなら問題ないんですが、詩人はたいてブツクサ言っている。知名度でも金銭面でも当初抱いていた理想とはかけ離れているからです。
でもそれは一歩相対化して見つめれば当たり前のことなんです。短歌・俳句では一般読者が興味を持つ対象は古典です。そこをターゲットにしなければポピュラリティを得るのは難しい。自由詩では鮮烈な抒情詩以外まず詩集は売れない。もちろんそういった作品を書けと言っているわけではありません。だけど詩壇内への閉じた視線ではなく、一般社会の人として詩を見つめる視線を持っていなければ、本当の意味での作家的ポピュラリティは得られません。そういった才能の片鱗を文学金魚新人賞では期待しているわけです。
作家には詩人、小説家向きといった資質が確かにあります。ただ資質の伸ばし方は様々です。文学金魚では詩人資質の可能な限りの全方位的伸ばし方を考えます。詩壇内の視線で創作を行うのではなく、社会全体の変化を見据えて未来が拓ける創作を行える新たな詩人を生み出すということです。作品集は売れないと諦めるのではなく、売れ筋を見つけて売りにくい本も売ってゆく能力を身につけるということですね。
若い世代を中心に、なぜ小説だけ、詩だけ書かなくちゃならないの?と考える作家の卵が増えています。その中から現実に目覚め、既存メディアで粛々と仕事をしてゆく作家が出てきます。じゃあ残りの卵たちはどこに行くのか。単に文学をやめたとは言えないでしょうね。文学的資質をゲームや音楽、映像メディアなどで発揮する作家たちも出ます。むしろ文学以外のジャンルの方が、現代的な詩人の資質には合っている面もあります。近い将来詩集と言うと、一般の人が思い浮かべるのがラッパーの詩集になっていても石川は驚きません。
最終的に詩人としてどういう社会的評価を得たいのかが既存メディアで粛々と仕事をするのか、文学金魚のような新興メディアをプラットホームにするのかの基準でしょうね。作家は年を取るごとに、あるいは作家として成熟するごとに、自らの才能を絞り込んでゆかなければなりません。ただ最初から可能性の狭い場で才能を絞り込むのか、間口の広い場で絞り混むのかでは結果が当然違ってきます。
■ 大野露井『故郷-エル・ポアル-』注(第03回)(縦書)版 ■
■ 大野露井『故郷-エル・ポアル-』注(第03回)(横書)版 ■
■ 第05回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
第05回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項です。詳細は以下のイラストをクリックしてご確認ください。
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