レジュメとはいえ日本の商業詩誌について書くのは楽しくない。ひとことで言えば健全ではないからである。

 日本の紙媒体の商業詩誌は、現代詩手帖、詩と思想、詩とファンタジーの三誌のみである。そしてこの三誌はコンペティターではない。それぞれの経済圏内で、クローズドなガラパゴス文化を育んでいる。実態として「現代詩手帖」派、「詩と思想」派、「詩とファンタジー」派に分かれていて、各詩人たちはそれぞれの雑誌カルチャーを〝世界〟と捉えている。相互交流も関心もせめぎ合いもほとんどない凪の状態だ。またそれぞれの〝詩壇〟の敷居を超えて、一般読書界で活躍している詩人はほんの一握りである。

 詩とファンタジーは投稿誌であり、投稿するには詩とファンタジー添付の応募券を貼る必要がある。読者投稿の詩とイラストを組み合わせて掲載するのがメインコンテンツだが、いわゆる〝メルヘン詩〟の域を抜けない。また詩一篇ごとの投稿が基本だから、詩人を育てることもできない。趣味誌の位置付けである。

 詩と思想は賛助会員によって刊行されている詩誌で、商業誌の体裁を取った会員誌である。当然、会員の作品が優先的に掲載される。後述するように誌名で内容が縛られることはないが、そのアドバンテージを活かし切れていない。編集部や中核会員が高い理念や指導力をもって編集に当たらなければ、拡散した会員作品の持ち回り掲載誌となってしまうのは当然である。

 現代詩手帖はここに来て、〝現代詩〟という誌名が詩の世界に好ましからぬ影響を与えている。金魚屋では〝現代詩〟は〝自由詩〟の一流派だと位置づけており、私もこの認識は原理的に正しいと思う。詩人たちが〝戦後詩は終わった滅んだ〟と言うことができても、おおっぴらに〝現代詩は終わった滅んだ〟と言えないのは「現代詩手帖」が刊行されているからだろう。

 日本では戦後詩と現代詩はほぼ同時に成立しており、戦後文学的状況が霧散した現在に現代詩のみが生き延びられるわけがない。また現在書かれているから現代詩だという主張は詭弁だ。戦後の日本の詩人たちは過去の否定をこめて近代詩と現代詩という区分を設けたのであり、呼称「現代詩」に特別な意味があったことを詩人たちは否定できない。時代状況が変われば呼称も含めて詩人たちの認識が変わらなければならないのは当然である。

 ただ厄介なことに現代詩手帖は雑誌のアイデンティティとして、「現代詩は終わった」という特集を組むことはできないだろう。さらに厄介なことにこの現世的禁忌コードは全く文学の問題ではない。日本の詩はその本質において自由詩であり、形式的にも内容的にも一切制約がない。そのため詩人たちは個々に孤立しがちだが、この孤立を防いできたのが詩人たち共通の認識パラダイムだった。

 かつては戦後詩や現代詩を巡る内容・形式論がそれを担ったわけだ。現在それを探ろうとすれば、間違いなく理念としての〝現代詩の超克〟がアポリアになる。しかし詩人たちは低レベルの現世的禁忌コードに足を取られていてそれすら言い出せない。詩人としての志が低いのではないか。

 どの国に行っても詩人たちは苦労している。作品の発表場所が限られているのはもちろん、詩集はたいてい自費出版である。そんな苦労を背負っても詩を書きたいという作家なら、高い理想、高い知性、高い作品レベルを目指して自由に活動してもらいたいものだ。

齋藤都

 

 

■現代詩手帖(思潮社 月刊)とは■

 日本において、現存の詩人によって書かれた詩が「現代詩」と呼ばれることが多い理由については、なかなか難しい経緯があるようだ。一般にわかりやすく伝えるには、現代詩手帖という雑誌に掲載されているような詩作品が現代詩だ、と言うのがいいようにも思える。が、それは正確とは言えない。現代詩という用語は、詩と思想という雑誌でも使われている。

 この二つの雑誌の雑誌を例に取ると、編集の仕方には共通点が見られ、誌面に似かよったところがある。詩という短い形式の利点によってか、一冊に非常に多くの著者が関わっているが、それら著者たちの間の重なり合いは、あまり見られない。すなわち現代詩というものを書いている著者の集団は、少なくとも二つに分割されていることになる。小説誌などでは著者が重なり、特に売れっ子の著者が複数の文芸誌に書いているのからすると、かなり様子が違っている。

 専門的な説明としては、戦争直後に反戦的な左翼思想を基盤とした「戦後詩」というムーブメントが社会に広く受け入れられ、現在の「現代詩」と呼ばれるジャンルはその後続的作品群ということである。

 さらに戦後詩はかつて「列島」と「荒地」という二つの同人誌によって勢力を二分されていて、そのそれぞれを詩と思想、および現代詩手帖という雑誌が引き継いだらしい。

 そうであるならば詩と思想、現代詩手帖という二誌は本来的に同人誌のはずだが、それにしては著者の数が多い。とりわけ現代詩手帖には、大量の詩集の広告が掲載されている。

 外部の者にとってわかりづらいのは、商業雑誌ならばイデオロギーは関係ないはずなのに、著者たちの棲み分けが行われていると見受けられることである。もし逆に同人誌的なものであるならば、中心的なメンバーがはっきりしているはずだが、現代詩手帖などの多数の著者たちの中では誰が中心を形成しているのかが見えにくい。

 あるいは現代詩手帖の思想的中心は、いまだに戦後詩を担った同人誌の一つである「荒地」のメンバーに置かれているのだろうか。商業雑誌である現代詩手帖は、同人誌「荒地」の思想をさらに深め、広めたいと考え、その対象読者をターゲットにマーケティングされているということなら、論理的にはつじつまが合う。もちろん戦後60年以上が経ち、当時そのままの思想が、当時より多くの支持者によって保たれているということはないだろう。

 金魚屋プレスが現代詩手帖に期待することは、この無数の著者たちの中で誰が現在の中心にいるのかを明確にし、同人誌「荒地」の思想がどのような変容・変遷をたどり、そこに行き着いたかを示してもらいたい。たとえば「荒地」の中心的メンバーの名前を冠した鮎川信夫賞が、その思想に鑑みて与えられているならば、戦後思想は今でも受賞者に受け継がれていることになる。そのような思想の継続性は、世界的にも例を見ず、注目すべきだろう。

 しかし、もしかすると現代詩手帖は、すでにそういった過去の思想の軛からは解き放たれているのかもしれない。掲載されている作品群を見るかぎり、戦後思想をはじめとするどのような思想性の片鱗も窺えず、モダニズムという意味での現代性や、それにともなう難解さも希薄となっている。現代詩という用語が使われていない、詩とファンタジーといった詩誌との格差は縮まりつつあるようだ。

 

 

■詩と思想(土曜美術社 月刊)とは■

 「現代詩」と呼ばれる日本の詩のジャンルの事情は、わかりにくい。なぜ詩でなく現代詩と、わざわざ「現代」を付けるのか。

 日本の詩のジャンルは、まずは俳句・短歌という定型詩と、自由詩に分類される。自由詩は明治期以降、海外詩作品の翻訳が紹介され、似たような形式のものが日本語オリジナルで書かれ始めたところから発生したと考えてよいだろう。

 その自由詩も最初、文語体で書かれている間は五・七調の定型リズムに縛られていた。本当の意味でそこから「自由」になったのは、口語体で書かれるようになった後のことだ。

 それで、この自由詩という範疇に、文芸誌と並べ得る商業詩誌が数誌、発行されている。詩とファンタジー、現代詩手帖、詩と思想などである。このうち現代詩手帖、詩と思想などでは誌面において「現代詩」というタームが使われている。つまり現代詩とは自由詩の一分野であると言える。

 どのような一分野か、ということについては以下の2通りの解釈があるようだ。

 

1. 素直に心情を吐露したものと違う、難解で芸術性を追究するもの

2. 終戦直後のいわゆる「戦後詩」を学んだ新しい世代によって、現在書かれているもの

 

 2 は詩史を踏まえた専門的な解釈で、一般の人々の印象としては1 の方がフィットするだろう。1 をさらに「モダニズム表現の詩作品」( = であるがゆえに難解) という意味とすれば、モダン = 現代 から「現代詩」となったと理解できる。

 土曜美術社から発行されている詩と思想が、その発行元の名の通りに美術との接点を求めているとすれば、創刊当時の状況はともかく、「モダニズム表現の詩作品が現代詩である」という立場にさらに近づくのではないか。もしそうであるなら金魚屋プレスには興味深い。

 詩と思想はまた、一貫して詩人たちが編集にあたっているという。同人誌が商業誌化したと考えると、そのような「モダン化」には、得るものと同時に失うものもあるようにも危惧される。だが、もともと商業誌の形態であったものが無駄を省き、創作者の意図がより反映しやすい誌面作りをしていると考えると、たいへん新しいものに感じられるのは不思議なことだ。

 詩と思想はまた、地方性や国際性に重点を置いているということである。その言葉自体、特に目新しいものではないだろう。しかし、紙媒体を前提としたヒエラルキーが崩れて情報伝達の距離感が劇変し、地方性や国際性といった概念そのものが希薄になりかかっている今、それについて長年試行してきたという同誌にとっては、むしろ面白い時代が到来したのではないか。金魚屋プレスは、詩と思想にそのような展開を期待している。

 

 

■詩とファンタジー(かまくら春秋社 月刊)とは■

 世界を席巻するキティという無表情な猫のキャラクターで知られるサンリオが発行していた、「詩とメルヘン」の後継誌ということである。特徴としては判型が大きく、カラーイラスト満載の絵本ふうであること。絵は詩とほぼ同格に扱われ、その両方で一つの作品のように見開きに印刷されている。

 責任編集というのは、編集の実務は編集部に任せた状態で内容だけにコミットし、(場合によっては) 責任をとる、という立場らしい。やなせたかしという著名な漫画家がそれにあたっている。やなせたかしはアンパンマンという日本で大ヒットしたアニメーション漫画の作者である。と同時に、長年「詩とメルヘン」の編集に携わっていた。

 やなせたかしはもともと文学者としての詩人の範疇にはなく、そのため詩を親しみやすいかたちで紹介し、誰もが手を染めやすいものにしようという意図が見られる。雑誌は一般からの投稿作品も大きなウェイトを占め、すべてイラストとともに見開きになっている。このことは投稿子の意欲をおおいに掻き立てることだろう。

 確かにそれは、いわゆる詩壇と呼ばれるもの、その制度への疑義申し立てとしても機能し得る。詩を専門とする文芸誌と呼ばれるものにおいては、読者に与えられている「投稿欄」が小さい字で三段に詰め込まれているのはなぜか、と考えさせるのだ。

 一般的な投稿欄への掲載を受け入れる前提として、本欄とでも呼ぶべきページに、より大きな活字で組まれている「プロの文学者」たちの詩の方が優れていると認めることが求められている。少なくとも、ある制度組織の中で、彼らが自分の「上司」であることを。

 このようなヒエラルキーと、そこでの上昇志向を煽る詩の文芸誌というものは、モダンの装置そのものであったと言える。投稿子は投稿欄の中で上昇し、そのトップを極めなくては本欄という次の段階を踏めない、という錯覚に陥る。作品そのものへの眼差しは、その前提によってフィルターをかけられ、作品への評価はヒエラルキーにおける作者の立場と照らし合わせて行われる。

 投稿欄と本欄が区別なく編集されている「詩とファンタジー」誌は、実に穏やかなかたちで、この前提の滑稽さを浮き彫りにする。見開きページに大きく組まれ、さらに色鮮やかなイラストが背景にあれば、多くの詩はプロの作品同様に「見られる」。いや、プロと自称する、あるいは詩壇と呼ばれるところにいる人々の作品に「見られない」ものがかなりある、と言う方が正確かもしれない。「詩とファンタジー」誌の投稿子のように「36歳、主婦」と自称するか、「プロの文学者」と自任するかは本人の意識の問題に過ぎない。作品を「見られない」ものにしているのが他でもない、そのあやふやなプロ意識である、ということもあろう。

 金魚屋プレスが「詩とファンタジー」誌に期待することは、単なる制度への疑義申し立てに留まらず、同誌の明確な価値観を打ち出してもらいたい、ということである。それが新たなヒエラルキー、制度による拘束に至る危険性は常にある。しかし「購買者である投稿子を大事にすることが読者を獲得する方途である」といった価値観であると誤解されることでもまた、ささやかな商業主義というモダンの構造に取り込まれるのに変わりはない。

齋藤都

 

 

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